まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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相棒チャーリー登場

1980年、整備員のJ氏がどこからか連れてきたネコが、私たちのハンガーに住みはじめた。ところがこのネコが成長するにつれて、毎晩野生化したいろいろな種類のネコがやってくるので、地上学校の時間がざわざわと落ち着かない。
 うっかりしていたのは、このネコが、メスだったのだ。

 ある日、細く開いていたハンガーの扉から入ったのだろうか、普通の大きさとは違うネコの毛が教室の中にいっぱい。ボブキャットが侵入した形跡だった。ボブキャットは北アメリカに数多く生息するヤマネコだ。
 夏になって、このメスネコが戸棚をあけて入ろうとするので、急いで中を空っぽにして私の古いセーターを中に敷いてやったら、彼女は安心して、その日のうちに4匹もの大きな子ネコを生んだ。7月1日だった。
 4匹とも、父親はさぞ大きいだろうと想像できるようなサイズで、全員タビキャット(しまネコ)。
 3匹は生徒にもらわれていったので、残った1匹を「チャーリー・アルファ・タンゴ」、略して「チャーリー」と名づけて私が飼うことになった。
 
 パイロットたちがアルファベットを発音するときの用語で、頭文字をとると「C・A・T」である。
オスネコ・チャーリーはやがてブルックス飛行場の名物ネコとして有名になった。

▼マネージャーのチャーリー君
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 ブルックス・エビエーション社は軌道に乗りだして、チャーター部の責任者のK氏が双発機パイパーセネカを1機購入した。
 この機を見た生徒たちが「5分でいいから」「サーキット1回でいいから乗せて欲しい」とせがんだ。どうしようかな、と考えていたとき、あの小さな声が聞こえてきた。
「この飛行機には触れてはならない」と繰り返し聞こえる。

「別にどうってことないのにどうして」
「ちょっとだけならいいんじゃないかしら」
 私の心の中では、この声を聞いても疑問が湧いてきて、じっと我慢するのが大変だった。
私としては、新しい飛行機なのだから、ぜひ試してみたい気持ちも強かったのである。
 
 ところがそれから3週間たったころ、3人のオーナー株主が、私たち飛行場勤務の2人の株主を呼んで、ミーティングが行われた。驚いたことに、
「先月、会社は7000ドルの赤字を出した」という報告。
 その赤字は学校の経営サイドの問題ではなく、チャーター部から出た赤字で、なんと新しい双発機のブレーキ修理のために必要な費用だという。
 
 それを聞いて私はひやっとした。もし3週間前に、たった5分でもあの双発機に乗っていたら、7000ドルの修理費の半分は確実に連帯責任として負わされていただろう。
 本当にあの小さな声がブレーキになって、災難を避けられたと思った。私を守ってくださったことに、深く感謝した。

 けれども12月11日、株主3人の多数決で、ブルックス・エビエーション社をバラバラに解体して売ることが決定してしまった。
 理由は単純だ。もうからないからである。そうした事実がだんだんわかってきたところへ、チャーター部の赤字。それが直接の引き金となった。

 航空業はもとから利益の少ない産業なのである。短期間に利益を出そうなんていうのは、とても無理な話なのだ。何しろ保険と整備費だけで運営費の70%近くを占めるのである。
 私たちパイロットは、飛ぶことが好きだから、たとえ利益なしでも安全であれば、この仕事がしたいと思うのだ。
 
 そして私には、できるだけたくさんの生徒にライセンスをとらせたい、という気持ちもあった。利益を目的にすると、その分、学費を値上げせざるをえなくなる。
 生徒の経済的な負担が大きくなれば、入学できる生徒は半分以下になってしまう。

 それでは私は今度こそ、学校のライセンスとパイパーチェロキー1機を買い取って、「CMフライトサービス社」をもう一度やってみることにした。
 ブルックス・エビエーション社に属していたCF―WUOの値段は1万2000ドル。
ところがチャーター部のK氏が「どうしても売らない」と言い出して、話がこじれそうになった。仕方がないので、彼には別に2000ドルを1年間で払うという約束手形を発行して1件落着。いわば手切れ金のようなものだった。
 
▼こんなホームビルド機がよくブルックスにやってきた(後ろが前のカナールウイング)
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 1年前に支払った株主の資金6000ドルと合わせると、学校設立の資金は全部で2万ドルということになる。
 前のローンはすでに返済済みだったので、今度の1万4000ドルのローンは保証人なしで借りることができた。
 だがこのときの銀行の利子は20%という途方もない高さだった。普通だったらとても払いきれない額なのだが、このころは生徒が一番多い時期で30人もいたので、このあと2年ほどで、ローンの支払いが完了してしまった。
 
 なんといいタイミングだったことか。
 結果的に災い転じて福となった。だがこの幸運は私の力ではないと、ひしひしと感じさせた。ただこういう成り行きになったのだ。
 チャーター部はK氏が買い取った。ブルックス・エビエーション解散と同時にハンガーや教室はT氏に売られてしまったので、私は毎月家賃を支払って使わせてもらうことにする。

 そして1981年1月、ついに学校のライセンスは「CMフライトサービス」(Chiyoko Murakamiの頭文字をとった)に移され、名実ともに私一人の責任で運営されることになった。
 経営の規模としてはとても小さな飛行学校だったが、生徒の数は30人。私はその学校の主任教官であり、オペレーターでもあった。
 ちょうど50歳の冬を迎えたところだった。
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by eridonna | 2009-11-21 23:20 | 第9章 大草原で暮らす