まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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パリの1人暮らし

 1964年は、ようやく日本人のパスポートの発行が一般に解禁になった年だ。今の若い人には信じられない話だろうが、当時は海外へ出たいと思っても、ただの旅行ではなかなか政府の許可さえおりなかった時代だった。
 1USドルは円に替えると360円。貴重な外貨を持ち出すなんてとんでもない、と言われ、あなたの海外渡航が日本にどんな利益をもたらすのかとまず聞かれた。海外に誰か保証人がいるか、結婚か、相当の理由がないとむずかしかった。
 私の場合はとりあえず、当面の雇用約束を得ていたので、それならまあいいだろうと、パスポートを発行してもらえたのだ。ただし、持ち出すことのできる外貨はたった500ドル、それが全財産だった。

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 フランスに向かうためには、横浜から船に乗った。英国船のアルケディア号で横浜を出港し、太平洋を東へと渡ってサンフランシスコに着く。それからグレイハウンド・バスに乗って広いアメリカ大陸を横断した。貴重な500ドルをなるべく使わないように、食事はスープとクラッカーだけで我慢した。おかげでニューヨークに着いたときはとても細くなって、きれいになっていた。はいていた高いハイヒールが似合ってよかったと思った。
 ニューヨークからいよいよエア・フランスの飛行機でパリに到着。横浜を出てから、1カ月半かかったことになる。
 ドゴール空港では、約束した会社から女性秘書が私を迎えに来ているはずなのだが、声をかけてくる人は誰もいない。仕方ないので一人でタクシーに乗り、オペラ街のその会社に自分から出向いた。
 社長室に通されると、さっきゲートのところで見かけた女性が入ってきて私を見るなり、「あなたは日本人だったんですか」と言って笑い出した。
「そうですよ、どうして?」「だって日本人は小さいのが普通でしょう。ですからまさかあなたが日本人とは思わなかったのよ」

 ところがその貿易会社では、はじめの約束通り3カ月で雇用契約は終わりになった。表面上は確かにそれで構わないのだが、本当は社長の思い通りに動かない私に対する処分でもあった。
 最初に日本で契約したときから、どうやら相手にはいわゆる「下心」があったらしい。当時のフランスでは結婚していても、双方で「愛人」という言葉が当たり前のようにささやかれていたのだ。そんなことなど思いもよらない私にしてみれば、外国に来てまで誰かの囲われ者だの、パトロンを持つ身になどなりたくないので、さっさとその会社をあきらめ、どこか仕事を探すことにした。

 当時、外国人は入国するとすぐ中央警察庁に出頭し、面接試験を受けなければならない。そのときに労働証明書を発行してもらうのだが、私の書類には、セーヌ県、セーヌ・エ・マルヌ県、そしてセーヌ・エ・オワーズ県の3県で秘書として活動してよい、と記入してあった。アルバイト程度の仕事はすぐに見つかった。エコール・ベルリッツという有名な語学校で、日本語の文献を翻訳したり、通訳を頼まれたりした。だが、飛行機の訓練ができるほどの余裕なんてまだまだ先の話、という状況であった。

 この頃の私は、パリに来るときは永住するつもりできたのに、あまりにも自分が日本人過ぎてこれではフランス人にはとてもなれない、と思い詰めていた。ノイローゼのように泣いてばかりいるので医者に行くと、これはホームシックだと言われた。薬をもらったが、飲んでみたら眩暈がするほど強いので全部捨ててしまった。

 そんなある日、シャンゼリゼ街を歩いていると、なんと東京時代の友人、モニク・ランドリにばったり出会った。かつてフランス大使館で一緒に働いていたことがあるモニク。 
 二人とも狂喜して、不思議な偶然に驚き、話に花を咲かせる。
「今、何をしているの? 仕事は?」と彼女が聞く。
「アルバイトはあるんだけれど、今探しているところ」
と悩みを打ち明けると、モニクは、
「あなたは正直すぎてパリには向かないわ」と言うのだった。
 ともかくそれから数日後にモニクから電話があり、ユダヤ人家族が経営するエレクトロニクス会社(電子部品製造)の仕事を見つけてくれた。

 ここでちょっと奇妙な体験をした。
 あるときこの会社が展示会に外国の部品を出品した。私は日立製作所の部品の係になり、3日間会場で立っていた。
 すると毎日、ある中年の男性が私の前に立ち、何か理解のできない言葉では話しかけてくるのである。私は首を振って、「フランス語、英語、または日本語でお願いします」と言った。
 
 展示会もおしまいになり、そのこともとうに忘れかけた頃、この男性が会社の出口で待っていて、すぐ近くに住んでいる私のホテルまで付いてくるのである。
 私はほとほと閉口した。2回、3回、とやってきて、3回目にはとうとう彼は、自分の家に一緒に行って叔母さんに会ってくれと言う。
 あまりしつこいので私も折れて、彼についていくことにした。地下鉄に乗り、20区の終点ポルト・ド・バンブで下車、私の住む8区から20分ほどかかった。彼のアパートに着いて驚いた。

 ドアを開けて中に入ると、壁には帝政ロシア時代の高官の服を着た写真と、コザック兵の持つ刀がかかっている。彼はすぐ私の目の前に大きな写真帳を持ってきて、家族ひとりひとりを指で差しながら「覚えていない?」と聞く。

 彼はどうも1917年の10月革命で倒された最後のロマノフ皇帝の親戚らしい。一家はちりじりバラバラになって逃げたために、そのとき赤ん坊だった娘がどこにも見つからない。いまだに行方を探しているのだと言うのである。
 そう言えばロマノフ家(ツアーの血族)は、コザックが混じっているので黒髪が多い。骨格が蒙古人なので、私をその娘だと思い込んだらしい。
 村上家は祖父の話では、30代以上前に蒙古(ジンギスカン一族)の残党と混血したという。骨格やからだの大きいことで間違えられたのだ。そこで私は両親とも日本人であること、父親は日本郵船の船長であることも話した。

 すると、突然彼は立上がり、隣の部屋から何かを持ってきた。
「もしあなたが本当に日本人なら、これは一体なんだ?」と聞く。
 それは、船内で乗客に食事を知らせるベル(鈴)で、
「NYK(日本郵船の会社イニシアル)ASAMA MARU October 1929」と記してあった。
 私はびっくりした。
 父と母が結婚したのがちょうど1929年の10月。その頃父は一等運転士として浅間丸の船内装飾の仕事があって、新婚旅行に行けなかったと聞いていた。そして私が生まれたのは1930年の10月、話が合う。これもおかしな偶然だった。

 私の話を聞くうちに彼もようやく納得し、私がロシア人でないことを認め、帰るときにそのベルを私にくれた。2年後に日本に帰ったときに父にこの話をしてベルを見せると、父も驚いていた。戦争前まで客船だった浅間丸の乗客の一人が、記念にと持ち帰ったもので、どこかの蚤の市で手に入れたものらしい。
 その後、この中年のロシア人が私の目の前に現れることは2度となかった。

▼ドゴール空港にて
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 35年前のパリは、地球上の人間のサンプルを1カ所に集めたような都会だった。
亡命人が多いこと、芸術家の多いこと。ことにパリ人は他人のことには絶対といってよいくらい干渉しないし、ゴシップに夢中になるのは文明人のすることではないと思っていたらしく、外国人としては住みやすいところだった。
 私は着いた日から小さなホテル「ホテル・ド・ユーロップ」の屋根裏に一部屋借りて、そのほうが安上がりなので、毎月家賃は前払いすることにしていた。右や左隣にどんな人が住んでいるのか、全く知らなかった。

 ある日、同じホテルに住むどこかアフリカの首相らしい人(彼は亡命中だった)が私に書類をタイプしてくれと頼みに来た。紙やタイプライターなど必要なものを全部運んできたのを見ると、それはフランス語の文書だった。恐らくホテルのマネージャーから聞いたのだろう。私の国籍がヨーロッパのどこの国とも関係がなかったからかもしれない。
 仕事が終わると、内容については一切口外しない、と約束をさせられ、お礼にとレストランへ食事に誘ってくれた。
 注文したお料理が運ばれてきても、彼とその側近の人は豚肉が入っているといって、一口も食べなかった。気の毒なことをした。
 私は彼らが回教徒だとは知らなかったのだ。
 
 それからしばらくして、今度は英国空軍のアエロバティック隊(空中曲芸)の連中が、この同じホテルに2、3日滞在したことがある。1965年パリ・エア・ショウに出演のためだった。
 ホテルのマネージャーは英語ができない。パイロットたちはフランス語ができない。お互いに困っているところに私が通りかかり、通訳してあげることになった。
 その晩、どこで外食したらよいかわからない5、6人の隊員を全部引き連れ、シャンゼリゼ街へ出かける。英国空軍の制服を着た隊員を連れた私を、通りがかりの人がいかにも不思議そうに振り返って見るので閉口した。

 3日目の朝、彼らはブルージェ飛行場へ移ったが、3日間のエアショウの開催中、その中の一人、コリン・パークというパイロットがブルージェからジープでやってきたので、パリ見物の案内をした。彼は左側に駐車して、ジャンダルム(警官)に注意されていた。英国はフランスと反対の左側通行なのである。
 彼は何のこだわりもなく話ができる人で、ほんの通りすがりの人なのに、私の心を見透かしてモニクと同じようなことを言った。
「パリはあなたには合わないところですよ」

 実は自分でもとっくに気が付いていたのだ。そろそろ行動しなければならないと思った。 ともあれ「芸は身をたすく」という諺があるが、いつもこんな風に人と出会い、忙しくしていた。パリの一人暮らしでも、それほど寂しいと思うヒマはなかった。
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by eridonna | 2009-12-27 21:48 | 第1章 日本脱出