まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

ついに単独飛行!

この頃、モニクがしきりにカナダへ行け、と勧めた。
 当時の私には、カナダなんて白熊の国でしょ、というくらいの知識しかなかった。 
 「ちゃんと人間もいるわよ。あなたはフランス語と英語が両方できるんだから、大丈夫」。 
そこで試しにオペラ街にあったカナダ大使館に情報を集めに行ってみた。すぐその場で申請書に書き込んで担当の事務官に差し出すと、
「あなたの場合、カナダに行ける可能性はかなり高いです。近いうちに呼び出し状が着いたら、ここへ身体検査と面接に来てください」と、いとも簡単に言われたのである。
 
 カナダ大使館からは2週間で通知があり、あらためて出頭すると、小1時間の仏語、英語のテストと身体検査のあと、カナダ移民許可証を手渡された。最終到着日が1966年の2月10日とあった。あと2カ月もないので驚いていると、
「渡航資金がなければ、カナダ政府が前払いしてもいい」とまで言うのである。
 幸いこのときは母が東京でカナダ航空の切符を買ってくれたので、カナダ政府のお世話にならなくてすんだ。

 いったん決意してしまうと、いろいろなことが急に動き出したようだった。
 会社には、2月には仕事を辞めてカナダに行くことを知らせた。
 モニクはとても喜んでくれた。この2年後には彼女自身がニューヨークに行って結婚し、その後モントリオールで私と再会することになる。

 1965年の12月31日、私はモニクと彼女の弟と一緒に、私のルノーでシャンゼリゼ街で年越しをすることにした。夜の11時30分には、たくさんの人出で、どこのレストラン、カフェ、ビストロも足の踏み場もないほど満員だ。モニクの弟は赤いカーネーションの花を胸のポケットにさして、この混雑したカフェでダンスをしようと誘う。二人で踊っていると、モニクがいたずらっぽい微笑を浮かべながら言った。
「あなたが弟と何をなさろうと私は関知しないけれども……。忘れないでね、彼はまだ21歳ですからね」

12時2分前! あたりが一斉に車の警笛で騒々しくなった。普通はパリ市内で車の警笛をうるさく鳴らすと罰金刑なのだが、12月31日の真夜中から元旦の明け方までは特別に鳴らしてもよい、という許可がでているのだ。
 私たちは急いで通りへ出て、駐車してある車に乗りこんだがどうにもならない。もう1センチも動かすことができないのだ。どこから来たのか強そうな4人組がスペイン語で話しながら、私のルノーを持ち上げて歩道に上げてしまう。私たちが車から出ると、隣の車からも人が3、4人おりてきて、
「あなたは英語を喋りますか」と聞くので
「Yes,I do!」と答えると、懐かしそうに
「Happy new year!」と叫んで、頬にキスしていった。
 パリに来て気が付いたのだが、街の道路で会うアメリカ人は、私を見ると必ず日本人と見なす。どういうわけなのだろう。もちろん当たり前のことなのだけれど。
 シャンゼリゼ街は交通がほとんどとまってしまって、あちらこちらで「ボンヌ・アンネ」とか「ハッピー・ニューイヤー」という声が聞こえ、バックにはすごい警笛の交響楽。
 それでも1時間ほどして車はどうやら動き出した。アンバリッド広場に駐車して、歩いてホテルへ戻ったときには3時をまわっていた。1966年、元旦の朝だった。
c0174226_2383766.gif


 パリも1月になると冬らしく、しばしば雪が降り、飛行機学校はますます休校の日が多くなった。それでも雪が溶けるとすぐ飛行場へ通って訓練を重ねているうちに、パイロットとして一生忘れることのできない日が、とうとうやってきた。

 1月の31日、私は会社も辞め、身も心も自由になって訓練に集中できるようになった。
2月1日、教官ビドゥーユの手を借りずに一人で離陸、場周(カナダではサーキットという、長方形のパターンで滑走路のまわりを飛ぶこと)、進入(滑走路へのアプローチ)、そして肝心の着陸ができるようになった。ビドゥーユも黙ったまま、今日はやけに静かになっている。
 この離着陸の訓練を4回、5回とやっているとき、進入の最中に教官が「今度でストップ」と言った。私は滑走路の真ん中で、機を止める。ビドゥーユはいきなりドアを明けて外に出る。そして
「今と同じことを2回やってごらん。ただし700フィート以上には上らないこと」と言った。あまりに突然だったので、
「明日にしてください、ほら、雪がちらついていますよ」
と私はしりごみするように頼んだ。ビドゥーユは
「はい、わかっていますよ、雪がパラついていることくらい。明日も単独だから、今日からスタート」
と言うと、外からドアを閉め、うしろも振り向かずにスタスタと行ってしまった。

 機内に一人ぽっちで残された私は、一瞬、彼から見捨てられたような気がして、とても心細くなった。だが滑走路の真ん中で長くとどまっていることもできず、機をタクシーしながら(地上をころがすという意味)出発点にもどった。
 管制官の旗が上がり、離陸許可が出る。
 エンジン全開、機がよろよろと転がり出した。機首が左右にジグザグに動く。目を落とすと両足がガタガタふるえていて、それにつれて方向舵(ラダー)が動いているからだ。 いつもの半分も走らずに、ふわッと浮き上がった。
 気がついたときは、雲の中、高度計は800フィートを示している。ビドゥーユに言われたことを思い出して、700フィートに落とす。雲の下に出る。
 左手に飛行場を見ながら左旋回を2度、コックピットのチェック、すべてOK。
 もう一度左旋回して、進入もしっかりと迷わず、滑走路上での引き起こしも、早すぎず遅すぎず……。いつ接地したのか、わからないくらい、ソフトに着陸した。
 ずっと滑走路の端で立っているビドゥーユの、ニコニコ笑っている顔が目に入った。
 またエンジンを全開して飛び上がり、今度は700フィートで何ごともなく、同じことを繰り返した。飛行機をパークして、18分の初単独飛行を終えた。

 ビドゥーユの顔いっぱいに満足そうな笑顔が広がっている。
外に出た私は「ビドゥーユ、あなたはずいぶん重いですね」と思わず口から出てしまった。
 彼は皮肉にとってか(フランス語で重いという言葉には、鈍感という意味もある)、
「メルシイ(ありがとう)。生徒はみんな言うけど、僕が降りると、機は羽のように軽くなるんだってね」と言ってまた笑った。

 クラブハウスに戻ると、待っていた生徒たちからたちまちお祝いのキスを受ける。そして、この学校のしきたりで、私は全員にコニャックを振る舞った。それでも足りず、3台の車いっぱいにみんなで乗り込み、シャンゼリゼ街へ向かって大騒ぎ!
 名前は忘れたけれども、高級レストランの一番いい席に、10人の飛行機野郎がなだれこんでワインを注文する。物珍しそうにこちらを見ている他の客は、美しいロングドレス。一方、我々ときたら、油の染み付いたズボンのポケットに手を突っ込んで、という格好であった。それでもだれからも文句は言われなかった。
 だれかが「マドモアゼル・カミカゼの初単独祝い!」と叫んでいるのが聞こえる。通り掛かったエア・フランスのスチュアーデスが「おめでとう! すばらしいわ」と握手を求めてきた。

(ここまで導いてくれた教官ビドゥーユの忍耐に、深く感謝しています)


 二日後、2度目の単独をすることになった。
 ビドゥーユのチェックフライトを10分したあと、一人で出ていく。すでに一度味をしめている私は、少し気持ちが緩んでいたらしい。
 4回目のサーキットをしているときに、進入してきてエンジンを切り、5フィートの高さで機首を水平にもってくる。そして徐々に機を沈めていって着陸するはずだった。
 このパイパーは尾輪の飛行機であった。(3つ目の車輪が後方についている型で、1950年以前はほとんどがこの形だった。空中では安全だが、着陸の際にブレーキを踏むと逆立ちしやすいので、今の飛行機はみんな前に車輪をつけるようになった)
 私は3点着陸(前輪と尾輪の3つを同時に接地する)をするために、機首を上げながら沈めていった。そうすると前方がよく見えなくなるので、滑走路に着地する瞬間までは数を数えてだいたいの見当をつけることになっていた。

「1、2、3……」 いつもならこのくらいで、お尻で「接地した」という感触が得られるのだが、「あれ、5、6、7、8、9……、滑走路がない!」
 左下を見ると、すぐ真下にあるはずの滑走路が、100フィート(30メートル)以上も下に小さく見えた。瞬間、「あ、失速する!」
 エンジンを切っているので、この高さからだと機首から真っ逆さま、まるで石ころのように墜落するのである。なんとか無事でいられるのはせいぜい10フィートまでなのだ。
 反射的に手が動いて、すんでのところでエンジン全開、やり直し。再びサーキットをしてきて、次には平常どおりにうまくいった。

 機をパークして何ごともなかったような顔をして、クラブハウスに戻ってきた。エンジニアのカラール氏がいたので、
「今の私の失敗を見ましたか」と聞く。彼はうなずいて
「ウイ(はい)。教官のビドゥーユがちょうど生徒と話している最中に、30メートルの高さから失速寸前のあなたを見たんです。電話に飛び付いて救急車をよんでいるときに、エンジンの音を聞いて、電話機をそのままもとに戻しました。彼は今は生徒と一緒に飛んでますよ」

 カラール氏は机の引き出しをあけると、20センチもある一本の巨大な消しゴムを取り出した。
「あなたは今日飛行場を消しましたね。これはその思い出です」
と言って私にくれた。「飛行場を消す」というのはフランス語特有の粋な言い方で、飛行場が下にちゃんとあるのに、まるでないかのようにむこうみずに振る舞う、というような意味なのだ。
 引き出しの中をのぞいて驚いた。なんと同じ巨大消しゴムがたくさんあったのである。ああ、そうか、私だけではないのだと気が付いた。
 失敗せずに何かを理解したり、上達する人は滅多にいない。そして、災難というのは自信満々のときに起こるものだと、つくづくわかった日だった。

 次の日、もう一度学校に行って、2、3人居合わせた生徒に別れを言って、明日カナダのモントリオールに行くことを告げた。
 みんな羨ましがって、
「私もあなたみたいに英語ができたら行きたいのですが」と若い女性。
「カナダはセスナ機がたくさんあるから、おそらくセスナでライセンスを取ることになるでしょう」と教えてくれた人もいる。
 ビドゥーユは
「あなたは自分に厳しい人ですね。もっと先に進んでよい性格です」
と言って、別れの言葉にしてくれた。その言葉をありがたく胸にしまって、パリを後にした。
[PR]
by eridonna | 2009-12-24 22:56 | 第2章 初単独への道