まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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1966.大西洋を越えてカナダへ

 当時、フランスからカナダへの直行便のあるのは「エア・カナダ」だけだった。ところが「切符は東京で支払われたので、いつでも乗れます」という電話があったのは「カナダ航空」からであった。母がチケット代を支払ってくれた東京には、エア・カナダの代理店がなかったようだ。
 そのカナダ航空のフライトは、ポルトガルのリスボン発でモントリオールに向かう便である。
 そこで2月5日、エア・フランスでパリを発ち、リスボンで1泊してカナダ航空の便を待つということになった。親切なことに、カナダ航空リスボン支店は空港からのタクシー代もホテル・アンバサダーの宿泊料金も全部支払ってくれた。支店員の話では、
「パリ|モントリオール間を行き来するには、ほとんどの方がエア・カナダを利用なさるので、直接便のないカナダ航空を利用されるお客様には、このくらいのサービスを致します」ということだった。

 さてホテル・アンバサダーに落ち着き、夕食は7時と聞いたので少し外を散歩してから食堂に入る。片言のスペイン語で注文した。あたりを見回していると、隣のテーブルで身なりの立派な紳士が3人、お食事中。まだ始めたばかりらしく、スープを召し上がっていた。私もワンコースをゆっくりいただいて、7時半過ぎにはまた外に出た。
 リスボンは古い伝統的な町で、移住地へ向かう船がひっきりなしに出入りしていた15世紀の頃の港が、そのまま残っている。大理石のような真っ白な岩壁と階段が、背景の青空と目に染みるようなコントラストを描き、今でもその光景は忘れられない。

 その晩は、坂をおりたり上ったりしているうちに9時半をまわり、またホテルの食堂に顔を出すと、さっきのボーイさんがコーヒーを持ってきてくれた。気が付くと、あの紳士方はまだ食事をしているではないか。私はボーイさんに、
「確か7時半ごろにはスープを召し上がっていらしたけれど?」
とフランス語で聞いた。彼はフランス語を話すらしく、笑いながら、
「この方たちは、ポートワインメーカーの方で、リスボンで一番のお金持ちです。毎晩お見えになって12時ころまでお食事をなさいます。もちろん召し上がるのは最初の食事だけで、2度目、3度目のコースはただ味わうだけで飲み込まないのです。ほら、銀の壷が3個、右手に置いてあるでしょう」
と教えてくれた。あの銀の壷に吐き出す……。ショックを受けて部屋に戻り、この妙な紳士たちのことを考えながら、モントリオールに期待をかけて眠りについた。

 翌日、DC8の機内はほとんどが移民の家族で、満員だった。モントリオール空港に着いて、移民局の待合室で自分の名前が呼ばれるのを待つ。ところが、2時間以上経ってもいっこうに私だけが呼ばれない。とうとう一人残ったので係員に尋ねると、
「あなたの名前は5回も呼んだんですよ」と言われた。
「何語でですか」と私。
「もちろんポルトガル語ですよ」と係員が答える。
 ポルトガル人に間違えられたのはさすがに初めてだと思いながら
「あのー、カナダではフランス語と英語を使うと聞いていましたが」
と、なおも問い返すと、彼女はあっさりと、
「この飛行機はポルトガル人の移民の飛行機ですから」と答えた。

 移民局でのインタビューを受ける。この担当官はフランス語と英語で会話を二、三した上で、
「OK、明日、市内の移住局に出頭しなさい」と言って、住所の書いた紙をくれた。
「今晩はどこに泊まるのか」と聞かれ、私が
「YWCAに行くつもりです」と答えると、安心したように、
「では三つだけ注意をしますが、この国では二回結婚しないこと、借家の契約書にサインをしないこと、最後に、中古車は買わないこと」
 私が思わず笑ってしまうと、「グッドラック!」と彼も笑顔で釈放してくれた。

 次の日、ドルチェスター街にある移住局へ出頭すると、
「ある法律事務所に秘書の仕事が待っているから」と、すぐに仕事を紹介してくれた。まったく至れり尽せりで、感心してしまった。翌日から早速その弁護士の秘書として働き出すことにした。
ついでに日本の領事館にも一応顔を出しておこうと出かけていった。

 私がカナダ政府の移民許可をもらったことを知ると、領事館では驚いて、当時現地に赴任していた亀井大使からじかに呼ばれたのである。
「どうやって来たんだね。おかしいではないか」と大使に不審がられたのには、こちらこそびっくりしてしまった。
 大使の説明では、日本からの移民は67年からしか認められてないはずで、それが66年の初めに来られるなんて普通じゃないとおっしゃるのだった。そう言われたって、私はちゃんと来たのだから困ってしまった。
 だがよくよく考えてみると、どうもカナダ政府が間違えたらしいのだ。
 そのころ私が持っていた日本のパスポートは1回だけ使える旅券で、期限はないが、日本に帰ったらその時点でだめになってしまうという一時的なものだった。この旅券を持ってよくカナダまで来たものだと大使には言われたけれども、そのパスポートとは別に、私はパリに永住するつもりだったので、パリ人としての証明書や、労働許可証、運転免許証などフランスの証明書をいろいろ持っていたのだ。
 だから、カナダ政府は私のことをフランス人と読み違えたのだった。
そのころのカナダは、ケベック州が分離独立を目指そうという最初の気配が見えてきたところだった。そこで当時のケベック州では、フランス語を話す人間をもっと増やしたかったのだ。つまり、私はその波に便乗してしまったというわけだった。

 カナダはただ気温が非常に低いことを除けば、住み心地のよいところだとすぐわかった。ただひとつだけ困ったことは、町に出てレストランに入ると、みんなのフランス語に歌うようなアクセントがあるので、おかしくて笑いをこらえるのに苦労したものだ。しばらくしてこれには慣れたけれども……。
 大都会モントリオール市の西側は英語をよく話すようだが、セイントローレンス街の東側ではほとんどフランス語だけが聞こえた。

 今度ははじめから仕事も確かなので安心だった。週給60ドルの中から15ドルを飛行機に割り当てることにした。そのためには昼の食事もコーヒーとホットドッグくらいに制限しなければならなかったが、私は平気だった。YWCAでの生活も、いろいろな人にめぐり合って面白かったけれど、とにかく倹約が必要だったので、ほどなく近くのアパートに引っ越すことにした。
いつも、何が目的でカナダまでやって来たのか、と繰り返し自分に言い聞かせた。ここで飛べないのなら、日本に帰るしかないのだと……。

 カナダに到着してから1週間、2月12日にはもう飛行機の訓練に入った。ウイークデイは働き、毎週土曜、日曜になるときまって、地下鉄とバスを乗り継いで、北にあるカルチエヴィル空港に通うようになった。この飛行場はあまりにもドルバル国際空港に近く、大型機が間違って進入することしばしで、今では一般には閉鎖されてしまっている。
 フランスのティサンディエ学校では、1940年代に製作された古いパイパーを大事に使っていたが、フランスでみんなに言われたように、ここでの練習機はみんな新しいセスナであった。
ことに私の通った「ローレンタイド・エビエーション社」は、セスナの代理店だったからなおのことだ。ここでは訓練機には新しいセスナを使用し、主にセスナを購入する客を訓練して、ライセンスをつけて飛行機を売るのが目的なのだった。

 フランスの飛行学校では「なぜ飛行機は飛ぶのか」という、根底にある流体力学を叩き込まれたが、カナダでは「いかにして飛行機を使用するか」ということに重点が置かれていた。
つまり広いカナダでは、軽飛行機は日常的に必要なのだ、ということが少しずつわかってきた。この国では車で行けないところが多いので、飛行機はスポーツではなく「空を飛ぶ自転車」なのだった。
 さて、そんなわけで地上学校のやり直し、である。
「毎週1回、夕方の6時から、英語のクラスは水曜、フランス語のクラスは木曜です。どちらかに出席しなさい」
と主任教官に言われる。はじめは両方に出席してみたが、やはりフランス語のアクセントが違うので英語のクラスに決めた。教官との同乗フライトでは、英語でもフランス語でもどちらでもいいと言ってしまったので、なんと8人も違った教官と乗る羽目になった。
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by eridonna | 2009-12-23 23:12 | 第3章 モントリオールへ