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まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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自家用ライセンス

10月になって、そろそろ自家用パイロットになるための筆記試験をまず受けなければいけないと思っていたころだった。

 ある朝、風邪をひいて咳で苦しそうにしていると、事務所の弁護士が、「今日は作らなければならない書類もないから、家に早く帰って休みなさい」と親切にも言ってくれた。
 そこでお礼を言って、喜んで早退して家に帰る途中、運輸省のビルに立ち寄ってみた。するとちょうど試験日だったので、ついでに席に座って筆記試験を受けてしまった。
これがかなりむずかしかった。あきらめて、
「では、また来ますから」と言って部屋を出ようとすると、
「ちょっと待ってください……。あ、パスしてますよ」と言われ、その場で合格通知書をもらってしまったのである。

 にわかには信じられなかった。
でもともかくこれでひとつ片付いた、とその日は足取りも軽くウキウキして家に帰ることができた。

 11月13日、だいぶ前に一緒に飛んだペニー・ネイラーという女性教官とまた飛ぶことになる。彼女は何も言わずに飛び上がり、今までやった空中操作を再検討しているみたいだった。1時間近くたったあと、
「いろんな悪い乗客がいてね、危ない操作をしたら止めてください」
と言うなり、いきなり操縦桿を私から取りあげ、機首を立てて機をひっくり返さんばかり。
 私は驚いて、彼女を押しのけて操縦桿を奪い取ると、安全な水平飛行に戻した。彼女はニヤニヤ笑いながら、
「そうです。あなたはパスしました。これでフライトテストは終わりです」と言う。

 なんてこと、もしあらかじめテストだと知っていたら、こんなに落ち着いて操作なんか出来なかったと思うと、ペニーさんのやり方にびっくりしたり、感謝したり…。
 そしてこれで、とうとう私は「自家用パイロット」の仲間に入ることが出来たのである。

 やった、やった、ついに憧れのライセンスを取ったのだ!
 これからは一人で、自由に、世界中の空を飛ぶことができるのである。

 この喜びの高揚感はそれからあと2週間以上も続いた。

 12月4日、まだ有頂天の喜びが消えないころ、一人でモントリオール近辺の遊覧飛行に出た。
 10分以上飛んだころだろうか、カルチェヴィル管制塔(コントロールタワー)から付近にいる飛行機を1機ずつ呼び出している。どうも急に視界が悪くなったらしい。
「ユニフォーム、パパ、オスカー、応答せよ」

 空中での通信をする場合は、世界中どこでも英語でやり取りするのが基本である。しかも雑音などで互いに聞き取れないことが多いため、アルファベットをそのまま伝えるときには単独では発音せず、それぞれが頭文字にある単語で表現する。
 それぞれの単語は、世界共通の約束ごとで決まっている。
 例えばAはアルファ、Bはブラボー、Cはチャーリーという具合に置き換えて表す。つまりこの場合は、「U、P、O、応答せよ」という意味なのだ。

 管制塔が2、3回呼んでも誰も答えない。なんで返事をしないのかしら、と思いながら計器版の上を見て驚いた。
 なんとUPOはこの飛行機ではないか。すぐに応答すると、
「すぐ180度機首を変えて、基地に戻れ」と言う。

了解。機首を転換する。

 すると、先ほどまで太陽が後ろにあったときは気がつかなかったのだが、今180度の方向転換をしてみて私もさすがにあわてた。
 あたり一面が銀の粉末を撒き散らしたみたいに、一寸先も前が見えない状態なのだった。急に発生した朝の霞に太陽がキラキラと反射している。
 この現象は気象学で「サブリメーション」といって、空気中にある水分が急に冷却した場合、水の固まりにならずに氷となり、アイスフォッグ(氷霧)が発生する、というものだ。
 セント・ローレンス河が近くにあるため、このあたりの空気は水分を含んでいる。温度が急に冷却したために、わずか5分か10分ほどで突然アイスフォッグが発生したのだ。

 管制塔からは、「機首を南に向けよ。ハイウエイ401号が下に見えるか?」
と、たずねてきた。私は翼の下にかすかに見える高速道路を確認して、
「アファーマティブ(はい)」と答える。
 管制塔は10秒おきに取るべき方向を指示してきて、滑走路の上まで無事に誘導してくれた。カルチェヴィル飛行場は空港としては小さいほうなので、レーダーの設備も最小限のものしかなかった。
 迷った航空機を誘導するのは容易ではなかったことだろう。

 私の場合、何かに喜んで有頂天になると、次の日には災難が待っているらしい。これで2度目だった。調子に乗らないように、自分で自分をいましめる。

▼綱島にて、家族とともに。(前列一番右が千代子)
自家用ライセンス_c0174226_19345457.jpg
 ともかくこれで一応の願いがかなったのと、12月に父が最初の心臓発作で病院に運ばれたと聞いて、父の病気見舞いのために一度帰国することにした。
 そのころ神奈川県横浜の綱島に住んでいた両親の家に帰ったときは、久しぶりに弟の家族とも一緒に、本当に楽しい3カ月を過ごした。
 その間に日本飛行連盟とコンタクトをとり、日本の運輸省で筆記試験を受けたあと、日本の自家用操縦士免許を手に入れた。そして晴れて調布の飛行場から、東京の空へ飛び立った。乗った機種はセスナ172。

 いつか自分の手でこの空を飛びたい、と願った夢がやっとかなったのだった。

 けれどもがっかりしたことに、当時の東京上空は大気汚染の公害が一番ひどいときで、晴天でも2、3マイル先までしか見えないという視界の悪さだった。その上、ヘリコプターが多く、カナダでは考えられないような空中衝突という危険があった。
 さらに母の心配性も相変わらずちっとも治っていなかった。私が無事に地上に降りるまで、安心して息をすることもできないと言うのである。
 これではどうも日本の空を飛ぶのは考えもの、という結論を出さざるをえなかった。


 今回は日本に長く滞在するつもりでいたのだが、4月になると、モントリオールから突然電話がかかってきた。そのころボーイフレンドとして付き合っていたJ・P君が、私との結婚を許して欲しいと父に直接英語で申し込んできたのである。
 J・P君は私より5歳年上で、モントリオールの日本領事館を訪れたときに出会った人だった。車の運転の仕事をしていたが、やはりライセンスを持ったパイロットだった。

 J・P君は、仕事の合間に私の通っているカルチェヴィル飛行場にやってきたり、アイスホッケーを見に連れて行ってくれたり、一度はグループで水上飛行機をチャーターし、カナダ北部に無数にある湖のひとつに釣りに行ったこともあった。またモニクが結婚してすぐモントリオールにやってきたときは、市内見物の案内も買ってでてくれた親切な人だった。

 けれどもそれまでは彼の家族や彼自身について、あまりよく知るチャンスもないままに帰国してしまったので、電話で結婚申し込みをしてくるなんて、私にはまったく思いがけないことだった。そんな私に向かって父は、
「もう年も年だから、これがあなたにとって最後のチャンスかもしれない。近くにいてもらいたいが、カナダに帰ってもよろしい」と言う。
 それではと父の厚意をありがたく受けて、4月の末には再びモントリオールに向かうことにした。
「どうか何も経済援助はしてくださらないように。それと彼についてはまだ知りたいこともあるので、追って知らせます」と言い残して羽田を発った。

 カナダに帰って、今度は電気製品の会社に就職した。4月30日にはまたカルチェヴィル飛行場に戻り、いよいよ夜間飛行の訓練に入ることにする。

 1967年はモントリオールエクスポのあった年だ。
 市内がひときわにぎやかで活気があったある日曜日の午後、ドルチェスター街を歩いていると、偶然、J・P君がやはり散歩しているのに出会った。
 ところがびっくりしたことに、彼は女性と5歳くらいの男の子を連れて、楽しそうな家族連れといった雰囲気であった。なんと、彼には家族がいたのである。正式に結婚しているかどうかはともかくとして、あんなかわいい子どもまでいる以上、私の存在はどうみても好ましくなかった。

 男性というものは、どんなに不合理でも自分の望むものは手に入れようとするものだと、私は知っていた。
 男の人に対して私が求めるものは、フランスにいるときと変わっていなかった。つまり、すべてに誠実である人。ジャックとの苦しい関係で味わったような嫉妬や不安は、私はもうたくさんだったのだ。

 日本を出るときに父に言った自分の言葉を思い出し、あらかじめ予期していた現実を突きつけられたようだった。
 だがこの日の偶然の出会いがあったために、すんでのところで私は過ちを犯さずにすんだと思った。
 不幸中の幸いとでもいおうか、事実が明らかになったのだから、これでよかったのだ。
 私はむしろ、神様に感謝した。

 だが私がこのままモントリオールにいたら、彼との関係を解決する道がないと思い悩んだ私は、それから2、3日もたたないうちに、彼から逃げるようにバスでモントリオールを抜け出した。行き先は、トロントだった。
by eridonna | 2009-12-20 00:53 | 第3章 モントリオールへ