まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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トロントの夜間飛行

 
 トロントでバスを降り、新聞広告を見て、すぐにフランス語関係の本屋に仕事を見つけた。
 フランス語圏のカナダから移ってきた私であるし、やはりフランス語を生かした仕事のほうが早く見つかるのだった。
 1週間後、給料として最初の90ドルをもらって、イタリア人街にあるユーゴスラビア人所有のアパートに帰り、台所でビールを飲みながらひと息ついているうちに、つい涙があふれてきた。
 ポケットの中にはわずか20ドルか30ドルしか残っていなかった。
 
 しばらくして電話のベルが鳴った。
 のろのろと、仕方なく出てみると、思いがけないことに、それは東京の母からの電話であった。

 私は日本の両親に新しい住所をまだ知らせていなかったのだ。
 何の連絡もしない私のことを心配した母は、モントリオールの職場で一緒だった日本から来た電気製品のエンジニアたちに、私のトロントの電話番号を聞いて、かけてきたのだった。
 直感力の鋭い母である。何も説明しなくても、
「もういいかげんにして日本に帰ってきなさい。飛行機のキップを送りますからね」と言う。
 私も落ちこんで、ちょうど弱気になっていたところだったので、つい「お願いします」としおらしく言ってしまった。

 けれどもそれから数時間して、ビールの酔いもすっかり覚めたとき、これは大変なことを言ってしまったと気がついた。
 このまま帰るわけにはいかない。私は今ここで、飛行機を捨てるわけにはいかないのだ。
 
 母には、「本当に申し訳ないけれど」とその場ですぐ手紙を書いて、「弱音を吐いてすみません。さっきお願いしたことはどうぞ忘れてください」と謝った。
 あとで弟の嫁である容子さんから聞いた話によれば、「航空会社のキップを送ろう」と主張する母に対して、まだ私の手紙が届かないときだったにもかかわらず、私の心を察した父は反対したのだと言う。
 遠くにいても娘の困難を知って何とか助けようとする母。そして私がころんでも黙って見ているのが一番いい、と判断する父。

 私は19歳のときから自立して生活していたので、このとき初めて、両親が実によく子どものことをわかっている、と感心してしまった。親というのは本当にありがたいものだ。
 それからは、私はどこに住んでいても、両親の愛情を意識して暮らすようになった。
 子どもが困難に立ち向かっているとき、あまり早い時期に親が手を出してしまうと、子どもの自立する力を損なってしまう。ぎりぎりのところ、どこまで待って助け舟を出してやるのか。
 親としては心配で心配でたまらない自分の気持ちも抑えつつ見守るわけだから、その判断のタイミングはとてもむずかしい。
 
 のちに私自身、教官として生徒を訓練するときに、あまりに早く手を貸すと生徒の上達が遅れてしまうし、そうかといって手を貸すのが遅すぎると事故につながる恐れもあるという、きわめてむずかしいこの問題に幾度も直面することになった。

 
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 トロントは同じ国際都市でも、モントリオールとはずいぶん違っていた。
 町の中ではドイツ人、ギリシャ人、イタリア人が多く、フランス語はほとんど聞こえてこなかった。ここでは英語でもそれぞれの国によってアクセントが違うので、たとえ自分の英語になまりがあっても、ちっともコンプレックスを感じないのだった。

 トロントの街が気に入った私は、再び元気を出して、飛行訓練を続ける決意をした。
 今度はダウンタウンからフェリーボートに乗り、向かい側の島にあるトロント・アイランド空港に通うことになった。電車、地下鉄、フェリーで通うので、車も必要なかった。
 3本の滑走路をもったこの飛行場は、オンタリオ湖に浮かぶ島で、トロント市内に用事のあるビジネスマンには都合のよい空港だった。
 国際空港までわざわざ行かなくとも、市の中心まで近いので便利なのだ。
 けれどもそのせいでトラフィック(航空機)の多いこと、いつも5、6機が近くを飛んでいるという状態であった。

 ある日の午後、フライト中に下を見ると、一隻の船がトロント港に入ろうとしているのが目に入った。よく見れば、白地に赤の2本線をつけたなつかしい煙突、あれは間違いなく日本郵船のものだ。
 飛行場に戻ると、そのとき一緒にセスナ150に乗っていたドイツ人のフレッドを誘って、ちょうどトロント港に停泊したばかりの船を訪問した。
 それは赤城丸だった。数年前まで父が乗っていたことのある船である。現在の船長も父のことを知っているとあって、フレッドと二人で乗船して日本のビールをご馳走になった。

 またある静かな夜には、一人で夜間飛行に出た。
 トロントの夜景やオンタリオ湖の上に浮かぶ島を眺めて楽しんでいるうちに、あっという間に1時間以上が経ってしまい、気がつくと午後11時をとっくに過ぎていた。
 そろそろ帰らなければいけないと、マイクロフォンをつかんで管制塔を呼ぶ。

「アイランドタワー、こちらはCF―SZD、5マイル東、着陸します」
 答えてくれたのはマーガレットさんの声で、
「SZD、こちらはアイランドタワー、滑走路26へ直接進入、ほかにトラフィックなし」
 彼女は当時、トロントでただ一人の女性のコントローラー(管制官)だった。
 男性ばかりの職場に紛れ込んでずいぶんと苦労をされたことだろう。
 とてもユーモアのある人で、あるときカモの群れが滑走路を横切ったとき、そのあと着陸する飛行機に、「乱気流に注意せよ」と言ったことがある。
 普通、大型飛行機の離着陸した直後2分間くらいは、滑走路に大きな渦巻きが発生するので、小型機は非常に危険なのである。
 そのときはマイクを通して、パイロットたちの楽しそうな笑い声が聞こえた。

 その晩の私は音も立てずに静かに着陸して、マーガレットさんに、格納庫までタクシーする許可を求めた。すると彼女は、
「機を止めたあとで、管制塔に出頭せよ」と言うのである。
 私はセスナをセントラル・エアウエイ社の格納庫に入れ、いったい何ごとだろうと思いながら、タワーの螺旋階段を登った。
 私の顔を見るなり、マーガレットさんは、
「ああ、よかった。ちょっと下を見てごらんなさい」
 言われたとおりに下を見ると、島の向こう側にあるフェリーボートの発着所のパーキングに、車が4、5台停まっていた。
 時刻はもう夜の12時近い。島にいる人間は3人、そのうち生徒は車のない私一人だった。彼女は続けて、
「あの車は、あなたが飛んでいることを知っていて、下で待っているパイロットたちなのよ。もしどれかの車に乗ったら、あなたは今夜家には帰れませんよ。今夜は私が車で送ってあげましょう」
と言って、アパートまで本当に送ってくれた。
 それほど親しくもない女性から親切にしてもらって私は感激し、その後もひまを見つけては管制塔を訪問した。

 
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by eridonna | 2009-12-19 12:20 | 第4章 トロントの新生活