まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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新しい恋人

 
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▲スティソン CF-GEN 160馬力

 飛行時間も200時間を越えると、ようやく自分のやっていることの意味が、わかるようになってきた。つまり教科書で習った知識ではなく、体で覚えた技術として備わってきたのである。

 そろそろ自信がついてきたころである。

 ある日曜日、ローカルフライトからアイランド空港に戻る途中、セスナ150より少し速い飛行機がうしろから追ってきた。
 すぐ私のうしろでファイナルコースに入り、私より数秒送れて着陸、機体のナンバーは、「CF―GEN」と聞こえた。
 飛行機を格納庫にしまってカフェテリアに入り、自動販売機からコーヒーを注ぐ。朝の挨拶をひとこと二言交わしていると、目の前の男性の声が、さっき追いかけてきたパイロットの声だとわかった。

「あなたがCF―GENですか」
「そうです。すみません。あなたを追いかけたようになってしまって」
 それがオーナーパイロット(自家用機を持っている)のサンディ君だった。

 それから私たちは親しくなり、彼はよく電話をかけてくるようになった。
 あのころ、トロント アイランド空港では、女性パイロットでコマーシャル・ライセンスを目指して訓練していたのは私だけだった。
 つまり、それが周りの男性の興味をそそり、互いの競争心をあおるようになっていたという。   サンディ君があとで言うには、
「カフェテリアであなたがサングラスを床に落としたとき、5本もの腕が伸びてそれを拾おうとしているのを見て、僕は飛行機であなたを追いかける以外に近づく方法がないと思ったんだ」

 サンディ・ディ・ゾルジー氏はイタリアの北部生まれ、一家の長男で、子どものころ両親に連れられてカナダに移民してきた。
 第二次世界大戦中にはカナダ空軍のメンバーとして英国で双発のランカスターに乗り、航空士(ナビゲーター)としてベルリン爆撃に行ったと言う。 
 英国で結婚し、戦後、カナダに戦争花嫁として一緒に戻ってきた奥さんは数年前に亡くなっていた。
 その後、彼は自分で飛行機を買って、カナダの空を飛びまわるようになったという。彼の飛行機は1940年ころのスティソン、160馬力で、とても珍しいものであった。
 サンディ君は、私よりも18歳も年上なので、何かにつけてよき相談相手になってくれた。

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 ▲サンディ君

 サンディ君は、週末には必ず、トロント北部の潅木地帯のハリバートンにあるコテージ(山荘)に出かけるのが趣味だった。
 車なら3時間のドライブ、彼の飛行機で行けば1時間15分で着く。
 彼がこのコテージを自分の手で建てはじめてから20年近くたっていて、毎週出かけるたびに、さらに少しずつ手をいれていくのである。専門家ではない私の目から見るともうほとんど完成しているように見えた。

 このあたりでは、いろいろな種類の野鳥やカモ、ガンが多く、サンディ君が自分でよく仕留めてくるので、私がフランス式に洋酒をかけて丸焼きにした。サンディ君は喜んで、となりの家の人々も呼んでみんなで楽しくテーブルを囲んだ。
 コテージは湖にも面していて、バスというフナの一種の淡水魚がよく釣れた。
 彼は、毎週末ごとに私にも一緒にきて欲しいようだったが、私のほうも、だんだんと飛行訓練に熱が入り、週末に時間を作って遠出するのはなかなか大変だった。

 カナダでは秋はいそいで冬になり、コテージは深い雪の下に埋もれる。
スノーモービルでないと山道を通うこともできなくなり、春まではしばらくコテージ通いはおあずけ、ということになった。
 近所に住むラクーン(アライグマ)の一家が、屋根裏で冬ごもりをするはずだった。
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 クリスマス近くになると、サンディの家族、母親のマリアさんと妹たちとも親しくなった。
 マリアさんは70歳を過ぎた方で、誰もが言うように本当にやさしい人だった。よくイタリア料理のポレインタを作って私に食べさせてくれた。
 そのマリアさんがある日、とても面白い話をしてくれた。
 
 彼女は時間があると、トロント総合病院でイタリア語の通訳ボランティアとして活動していた。トロントはイタリアからの移民がとても多いのである。
 ある日、女性ばかりの産科病棟に行くと、なぜか年配の男性がベッドに寝ているのを見かけて不審に思った。マリアさんはイタリア語でその男性に「どこか悪いのですか」と話しかけた。すると彼は、
 「ああ、言葉のわかる人に会えてよかった。実は娘がお産で見舞いに来たところなのですが、こちらの言葉がわからないまま、いきなりガウンを着せられて寝かされてしまったんですよ」
と言ったのであった。

 このころでも私の質素な生活はあまり変わっていなかった。
vもらったお給料はできるだけ飛行機の訓練費用に回し、食費を切り詰める。
 ふだんはスープにパンだけというような私の質素な食事を見かねて、サンディ君はよくおごってくれた。そんな彼があるとき、
「今まで食べたことのない変わった料理を味わってみたい」
というので、私はいつものお礼にと、わざわざニューヨークから生きたうなぎを取り寄せたことがあった。

 私のアパートのキッチンで、くねくねとのたくりまわるうなぎを、ティッシュを片手に必死に捕まえる。うなぎの頭を落とし、おなかを裂いてなんとか調理しようと奮闘する私を見ているうちに、彼は次第に顔面蒼白となり、ついにしばらくするとソファに横になってしまった。

 それなのに、蒲焼にしてほかほかのご飯の上にのせたら、彼は「おいしい」と言って、ちゃんと全部きれいに食べたのである。「いったいどういうわけなの?」と問い詰める。
 彼が弁解することには、カナダでは、彼のように魚を処理するのをひどく嫌がる人が多いということだった。
 特に女性はその傾向が強いらしい。そのくせ、カモやキジ、シカやムースなどを自分の鉄砲でドカンと打ってきて、ガレージの中で処理するのは何でもないという人々である。まったく矛盾していると思った。
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by eridonna | 2009-12-17 13:17 | 第4章 トロントの新生活