まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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たった一つのライセンス

 トロント国際空港は、東と南側が旅客や貨物など定期便会社の設備で、北側には「ジェネラル・エビエーション」といって、一般航空用のハンガー(格納庫)がいくつもあった。
 ほとんどはエッソとかシェル石油会社、または航空機の整備会社に属するフライトセンターで、1970年代までは個人で小さいジェット機を持ったオーナーもこれらのセンターを利用していた。
 あれから20年以上たった今では、もう国際空港を使用するオーナーパイロットは、ほとんどいないのではないだろうか。

 第一の理由は、それほど裕福な人たちの数が減っていること、第二に、トロント国際空港を使用する大型機のトラフィックが最大限に達していて、もう一般の小型機の利用はむずかしくなっていると思う。
 でも今から25年前には、このジェネラル・エビエーションのハンガーに、コマーシャルライセンス以上を持ったパイロットたちがよく集まる場所があった。
 ハンガーのラウンジ、つまり休憩室である。

 毎週末になると、何かチャーターフライトの仕事はないだろうかと、みんながやってくる。私はカナディアン・フライヤーズ(IFR専門の学校)があった「レブンスハンガー」に顔を出すことにした。そのころはもう双発機にも乗り始めていた。
 この日は、数人のオーナーパイロットとパートタイムパイロット(自家用機を持たない者)でにぎわっていた。コーヒーを飲みながらたわいのない雑談をしていたが、女性のパイロットは珍しいとあって、はじめて私を見る目はあまり親切なものではなかった。

 突然、一人の実業家が私に質問してきた。
「Who are you?(あなたは誰ですか?)」
「I am nobody.(誰でもありません)」
「ああ、ではちょっと質問しますから、その答えによって判断しましょう」
「いいですよ、どうぞ」
「質問その1、あなたのご主人はどんな仕事をしていますか?」
「私には主人はいません。私の仕事は鉱山会社の秘書で、週末にはパートタイムチャーターパイロットをしていて、収入はまあ、月に800ドルくらいです」

「では質問その2、どんな家に住んでいますか?」
「家は持っておりません。月250ドルのアパートに住んでいます」
「質問その3、どんな車に乗っていますか?」
「1962年型のGMマリブです」と、答え終わると、
「なるほど、おっしゃるとおり、あなたは誰でもない」
 と彼は肩をすくめると、行ってしまった。

 このお金持ちの実業家からは、冗談気味にシリアスなことを言われたわけだが、そのときの私は別に気にもならなかった。
 本当に、私には余分なお金もないし、家もなかった。立派な車ももってはいない。あるのはたった一つのライセンスだけだ。

 ただそう言われてちょっと身辺を振り返ってみたら、これまで私は社会の人々に認められようとか、人よりも上に出ようとして何かを一生懸命やってきたわけではなかった。
 ただ自分に何ができるのか、どこまで行かれるのか、どういう仕事をするのが自分にいちばん適しているのかが知りたかっただけなのだ。

▼双発機で
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 双発機を使用する、IFR(計器飛行証明)の訓練は、とてもつらいものだった。
エンジンが二つ付いている飛行機は、飛行中は点検するべきものが多いので、猫の手も借りたいほど忙しい。
 それなのに、「盲目飛行」という訓練では、左座席前方のウインドシールド(風防ガラス)に黒いプラスティック製のカバーを取り付け、パイロットにはまったく前方が見えない、という状態で飛行するものだ。

 右座席にはもう一人、チェックパイロットが乗って安全を確保するのであるが、左のパイロットは前が見えないまま、計器だけを頼りに航空路に乗って、コントローラーの指示に従って徐々に高度を下げてくるのである。

 あと数分で滑走路という切迫したときに、エンジンのひとつを切り、緊急操作を行って残ったエンジンだけで高度を下げつつ、何ごともなかったように着陸をしなければならない。
 この最後の数分がスムースにいかなくて、私は苦しんだ。
 どうもこれが限界、という壁に突き当たってしまったらしくて、数時間トライしても進歩がない。右座席にルイス君、またはラリー君と一緒に飛んだが、どうしてもⅡ級以上の腕にならなかった。

 ところがデイヴ君と一緒に飛んだら、彼はすぐに私のトラブルの原因を見つけた。
私の足が短いので、緊急操作のときに体がよじれてうまくいかないのだった。
 そこでそれまで使っていたパイパーアパッチ(1950年型、4座席、150馬力)から、パイパーコマンチ(1960年型、4座席、160馬力)に乗り換えた。 
 パイパー社の飛行機は先住民の部族の名前を機種につけている。そのコマンチにしてみたら、座席が低いので、クッションひとつで足がよく届くのである。
 思わぬところで救われて、それからまもなくフライトテストにこぎつけることができた。

 だがこのときに、私はギックリ腰という厄介な持病を抱え込んでしまう。足の長い人たちがうらやましかったけれど、人にはそれぞれ違った種類のトラブルがあるのだから、と気にしないことにした。

 一度、私が右座席のチェックパイロットとして飛んでいるとき、天気が急に悪化して雲の中に入ったり出たり、本番さながらの計器飛行状態になったことがある。
「どうせ何も見えないんだから」と私は手を伸ばして、左席に座っている訓練中のジョージ君の前方カバーを取ってしまった。
 すると彼はしばらく目をぱちくりさせていたが、「気が散って仕方がないから、どうかカバーを戻してください。何も見えないことを確認したくないんです」と言うのだった。

 さて、ついに双発機でのIFRのフライトテストの日が来た。
 一緒に訓練してくれたルイス君、デイヴ君たちも、テストの時間が近づくにつれて緊張しきって口数が減ってくる。マネージャーのウイルソン氏まで落ち着きをなくして、
「あと30分だけど大丈夫かね」などと言う。
 私といえば車の後ろの席に横になって休む始末。
 試験開始の5分前に事務所に戻り、試験官を待った。H氏がやってきた。

「さて、今日の志願者は誰かね。機種は何だ?」と聞く。
マネージャ―は声を何となく絞ると、すごみを利かせるように
「この学校ではじめての女性で、機種はコマンチです」と言った。

 途端にH試験官の顔が硬くなった。
 先週モントリオールで、試験官と生徒が同じコマンチの機種で墜落したニュースがあったばかりだったからだ。
 事故の原因はフラップ(下げ翼)だった。低速飛行中、浮力を余分に出して機を安定させるためにフラップを出して操作をし、それを引き上げたとき、片方のフラップが故障したため、左右がアンバランスになって墜落したのである。

 私は「フラップはまったく使用しません。ホールディングもアプローチも普通より10マイル速いスピードでやります」と約束した。
 彼は最初に、ああしろ、こうしろと言うだけ言うと、黙って乗っていた。
 2時間にわたる盲目飛行は何とかまとまったと思うが、視界なしで、高度に速度、そしてコースを最小限の誤差で保つことに全身汗だくになった。

 突然、大声が響いて、私は座席から飛び上がった。
「何ですか?」と聞くと、
「グッド!」
これには本当にびっくりさせられた。

その日、Ⅰ級の「IFR・計器証明」をもらった。

「では6カ月目にまたお目にかかります」(6カ月ごとに再テストがある)
とH氏に挨拶。
 レブンスハンガーに戻ると、同僚たち、教官たちに得意になってライセンスを見せた。
 誰かが、「試験官はもう1本棒を書くのを忘れてしまったのではないか?」と言って、私をからかった。
(ⅠではなくⅡ級だということ)
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by eridonna | 2009-12-14 16:39 | 第5章 トロント国際空港