まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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教官の訓練 1972

 このころの私は、まだトロント市内にあるフランスの鉱山会社の秘書として働くかたわら、土、日曜日にはチャーターフライトをして、お金を稼いでいた。
 飛行機だけで食べていきたかったが、なかなか本雇いになるような仕事は飛行場では見つからない。
 その理由は、「これまでに女性を雇ったことがない」からであった。
 悔しかったが、カナダでさえ当時は、まだまだ女性に対する偏見はひどく、技術に対する信頼感なしという時代だったのだ。
 女は、チャーター便の仕事だけでは生活していくことが出来ない。
 
そこで、トロント国際空港から15マイルほど北西にあるブランプトンで、初心者を教える教官になるための訓練を開始した。
 教官に必要なのは飛ぶための技術はもちろんだが、それにもまして重要なのは、どうしたら生徒を安全に信頼できるパイロットに導いていけるか、ということであった。
 生徒との間にさまざまなやり取りが予想された。人間の心理を、その深いところまで理解しながら、教えていかなければならない。
 そこで、使用する英語の言葉自体を正確に選ぶ必要があった。私は母国語が英語ではないから、レッスンを1から終わりまで前もって書き出し、それを一生懸命記憶した。

 教官のライセンスを取ることができたのは、その年、1972年の10月だった。

 ところがこの教官(インストラクター)のライセンスを手に入れても、女性を雇うのにはまだ抵抗があるらしくて、翌年の1973年になるまで仕事は見つからなかった。
 2月に入って、運輸省の試験官のミラー氏が最初の仕事を見つけてくれた。オレンジビルという小さな町の草原のエアフィールドで飛んでいる飛行学校だった。
 そしてその1カ月あとにようやく、ブランプトンでも教官として、私を雇ってくれることが決まった。
 これで、どうやら飛行機だけで食べていくことができるようになったのだ。
 大喜びで秘書の仕事に終止符を打ったものの、ここで、初心者に教えるということはどんなにむずかしいかを、体験させられた。数年前のあのフランスでのビドウーユの忍耐力をよく思い出したものだ。

 ある日、オレンジビルの若者が、急旋回がよくできないから教えて欲しいというので、一緒に乗った。彼はかたくなって操縦桿を握りしめているので、45度の旋回中に私は、
「操縦桿から手を離してください」と言った。
 彼は目を丸くして私を見つめる。
 私は仕方ないので、操縦桿から彼の指を一本ずつはがすようにして取った。すぐに機首が落ちていくのが見える。
 そこで軽く手でエレベーター(昇降舵)を上げる。それですべてOK。
 彼はびっくりして、
「ああ、たったこれだけのことなんですね。なるほど。あなたはもう何年も教えているんでしょうね」と言った。
「いいえ、あなたが最初の生徒の一人ですよ」
と答えたら、彼はそれっきりやって来なくなった。
 本当のことを言うべきではなかったのかと私はかなり悩んだ。
  
 ブランプトンはトロント国際空港に近いため、エアカナダのパイロットたちが休みの日によくやって来ては、話に花を咲かせる。
 ある日、はじめて見る年配の男性が、私にセスナ150のチェックフライトをして欲しいと言って来た。
 ふだん、乗りなれていない飛行機に乗る場合、右側にチェックパイロットを乗せて、まず試しに一回飛ぶ。そして「確かにチェックフライトをした」というサインをもらってから、次に自分一人で飛ぶのが空のルールのひとつである。
 万が一、事故を起こした場合、このサインがあるかどうか、保険会社はまず必ずチェックするのである。だが中には、面倒くさがってこのチェックフライトを省略してしまう人もたまにいた。

 その男性の、セスナ150に対する質問が非常に専門的なので、私は思わず聞いてしまった。
「どこかのエアラインで飛んでいらっしゃるのですか」
「エアカナダです」
「で、いつもは何に乗っているのですか」
「747です」
 いちばん大きな飛行機に乗っている人がいちばん小さな飛行機に乗る。それでも慣れていない機種に乗るときはちゃんとチェックを受ける、その彼の態度に私は感心した。
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by eridonna | 2009-12-13 17:13 | 第6章 教官のライセンス