まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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究極のライセンス

 1974年、この年、私はいよいよATR(定期航空操縦士免許)に挑戦することにした。

 パイロットのライセンスの最高クラス、国内線や国際線の定期便のパイロットになるには、このライセンスを手に入れなければならない。カナダでは定期便のキャプテンもコーパイロット(副操縦士)もATRをもっている。

 1970年代までは、JALなど日本の航空会社でもまだまだ外国人パイロットが多かった。このATRを持っている日本人パイロットが少なかったせいである。
 もちろん日本では女性は皆無、カナダでもATRを持っている女性パイロットはまだほとんどいなかった。
 このライセンスの試験を受けるには、当時は1500時間以上の飛行記録とIFR証明が必要だった。私は教官とチャーター便の仕事がフル回転で、ひと月に平均すると50時間、多いときには100時間も飛んでいたので、この飛行時間の条件は難なくクリアしていた。
 私の飛行時間は、当時でも1500時間をゆうに超えていたのだった。(現在ではカナダの労働規定で1日8時間まで、と決められている)

 だがそれだけ空の上を飛んでいるということは、裏返していえば、地上で勉強する時間がない、ということでもあった。

 ATRの筆記試験は、学科の試験が4科目、それぞれ3時間ずつあるのである。最初の科目は航空法規、二つめは航空力学、三つめが気象学、そして、最後が航法であった。
 私は1週間に1科目ずつ筆記試験を受けていったが、これにはさすがの私も相当に神経をすり減らし、ノイローゼになった。
 4週目になったときには、食欲もない、水すら飲めない、眠れない、という症状になってしまい、とうとう医者のところに出かけていった。

「胃の具合が悪くて気持ち悪いのです」
 まるでつわりの症状のようだと言われたが、身に覚えがない。ドクターは私に何時間くらい空を飛んでいるかと確かめると、処方箋をくれた。
そこには「3日間何もせずに寝ること」と書いてあった。
 とにかくこれは医者の命令なので、私は会社に3日間休みをもらい、家に帰ってぶどう酒を一杯飲むと、2日半、こんこんと眠りつづけた。

 ATRの試験は全科目において、70パーセント以上を取らなければならない。
 万が一落ちても、ひと月たてばまた受けることが出来るので、2、3回受験して合格、という人もよくいた。ふたを開けてみると、私は3科目ですべて70点以上を取ることができたが、最後の航法で69点という点数が出た。
 ところがよく調べてみると、持ち込んだコンピュータのミスによる単なる計算違いとわかった。「もう1回試験を受けてもいいか」と聞くと、OKと言う返事。そこでひと月待たずに翌日再試験を受ける。その結果、もらった点は80点であった。

私はATRに合格した。

 
 9年前、フランスのポール・ティサンディエ校でふりあおいだ山の頂上に、とうとうたどり着いた、という思いで一杯だった。
 雲がはるか下のほうに見える。これ以上登れないところまで、登ってきたのだった。

 それは、「私でもやれば出来るんだ」という、すがすがしい喜びであった。
 私は学校も中退しているし、いつもどこかで自分の力を疑っていたところがある。
 
 私には何が出来るのだろうか。私の才能とはいったい何なのだろう…。
 
 これまで努力しても手に入らないものもたくさんあったから、敗北感だってどこかに幾重にも積み重なっている。

 でも、好きなことなら、人間は相当がんばれるんだ、と思った。
 そのためにお金も使い果たし、家族からも遠く離れ、ほかのさまざまなことも犠牲にしてきたかもしれない。
 でも私は、生まれたときにもっていた自分だけの何か、自分が天から授かっているもともとの力、それを使わないのは、何かに対してずっと申し訳ないような気がしていたのだ。
 山の頂上にたどり着いた喜びとは、「自分」というものをフルに使って、何かをやり遂げた喜び、なのだった。

 ただここまで登るには、若さも必要だったと思う。
 どうせやるなら続けざまにやってしまわないとダメだ、とわかっていた。
 山に登るには7合目くらいがいちばん苦しいのではないだろうか。途中で少しくらい休んでもいいのではないかと何回も誘惑にかられた。が、そのたびに、一気に駆け上がらないと出来なくなると、自分に言い聞かせていたのである。
 あと5年遅かったら、私は果たして出来たかどうかわからない。
 ATRを取ったとき、私は43歳になっていた。

 ほかの誰でもない、「自分」に対する責任を果たしたと言う意味で、私は大きな解放感に包まれた。

 レブンスハンガーの昔の仲間にライセンスを見せに行った。デイヴ君もルイス君もとても喜んでくれた。このときもまた誰かが、
「チイコが自分で印刷したんじゃないの?」などと冗談を言ってからかった。

 
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by eridonna | 2009-12-09 18:24 | 第6章 教官のライセンス