まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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ピッツメドウ空港 1976

 セルカークカレッジ専門学校は、2年で私との契約を終わりにすることに決定した。
 正直言って、私もほっとした。山の中での訓練を2年以上も続けるのは、しんどかったのだ。

 5月いっぱいで私はキャッスルガーを離れ、また荷物を全部車に積んで、今度はバンクーバーに向かったのである。
 以前よく飛行機を借りたスターロン・フライト社が、雇ってくれることになっていた。この会社は本部がバンクーバー国際空港にあり、支店が20マイル東のピッツメドウというところにあった。ちょうどアボッツフォードとバンクーバーの中間である。
 ピッツメドウは、小型機用の空港で、私はそこで主任教官をすることになった。

 生徒はバンクーバー市内から集めて訓練する、ということだったが、これがなかなか思ったようにいかない。
 バンクーバー国際空港から生徒を空輸すると、時間的にはスムースだが、訓練費用が割高になってしまう。そこでほとんどの生徒は車でドライブしてくるほうを選ぶが、たった20マイル(約32キロ)でも、一本しかないハイウエイはしょっちゅう混んでいて、時間がかかるのである。
 
 私は週2回の地上学校を担当して、生徒の数も20人以上はいた。
 しかし、このあたりは海岸に近いため雨がよく降るので、飛べない日が続く。たまに晴れると生徒があわてて学校に駆けつけるという具合だった。
 この地域のパイロットは、フレイザー川の右側を飛ぶ習慣がある。キャッスルガーで谷の上空を飛ぶとき、右側を飛ぶのと同じルールである。

 私はバンクーバー市内には住まないで、アメリカとの国境から3マイル北にある、海岸に面したホワイトロックという町にアパートを見つけた。
 静かで引退者が多い町だった。
 ちょうどそのころ、東京から友達の額田やえ子さんがやってきたので、1週間の休暇を取り、ロッキー山脈に沿ってジャスパー、バンフなどの観光地を二人でドライブ旅行した。
 
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▲東京から遊びにきた旧友の額田やえ子さん

 彼女が7月に帰ったあと、8月に入ると、このスターロン社の経営が思わしくなくなった。
 まず7月の給料の小切手が不渡りとなった。次には石油会社が現金で支払わなければ、ガソリンを給油しないと通告してきた。
 私から見ると学校は軌道にのっていて、生徒の数も多くなり、収入は充分あるはずだった。それなのに、本部で発行する小切手があちこちで不渡りになっていることが、だんだんわかってきたのだ。

 不安にかられながらも毎日飛び続けるしかなかったが、8月も末のある日、出勤すると秘書が私のところに飛んできて、
「大変です、ちょっと飛行機を見てください」と興奮して言った。
 わけがわからず、ともかくパークしてある3機のパイパーチェロキーを点検しに、ランプに歩いていった。
 すると1機のチェロキーの風防(ウインドシールド)に、たくさんの鉄砲の弾が当たっていて、穴があいていた。
 
 若い教官のD君をつかまえて、いったい何があったのか、問いただした。
 彼が言うには、空港の5マイル北で緊急操作をしているとき、突然一人の農夫が鉄砲で飛行機を打ったのだという。幸い、乗っていた生徒にはけがはなかったが、恐怖とショックで彼は2度と学校には戻らなかった。
 RCMP(ロイヤル・カナダ・マウンテッド・ポリス/カナダの警察組織)を通して、その農夫マクドナルドの言い分を聞くと、
「犬がほえたので、鳥だと思って鉄砲で打った」というものだった。

 こんなばかげた話があるかしら。
 教官D君の話だと、彼は地上200フィートまで降下したというが、鳥を打つ鉄砲の弾は200フィートの高さには届かない。もっと低く飛んだことは間違いない。
 やれやれ、どうしたものか。

 思い悩みながら教室の戻ると、秘書が泣きついてきた。今度は彼女の給料の小切手が不渡りになったから、何とかしてくれと言うのである。
 まさに、八方ふさがりであった。私の給料だってもちろんずっと支払われていないのだ。

 その日、ついに会社に電話を入れ、オーナーのJ氏と話し合いをした結果、1週間以内にあと始末をして私は辞める、と辞表を出した。
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by eridonna | 2009-12-01 18:37 | 第7章 BC州のカレッジ