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まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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飛行学校の再開

 1979年1月、冬にはいって、あまり忙しくない日々が続いた。
 もともと日の短いカナダの冬では、人々は半ば冬眠状態に入ることになっている。夏の間は一生懸命働いて、冬の間の数カ月は南のメキシコなどにバケーションに出かけてしまう人たちも決して少なくない。冬期の収入が激減すれば経済的には苦しいが、それでもみんなが何とか暮らしているのがこの国だ。

 せっかく時間があるのだから、今度は、私の名前であらためて学校のライセンスを申請してみようかと、書類作成に取り掛かることにした。

 これは大変な仕事だった。
 銀行の残高証明書、私の会社名の登録証明書、公証人の証明書……。書類をそろえるだけで1カ月はかかった。おまけに申請書は20ものコピーを取らなければならず、オタワの運輸省に送るときは、ダンボール箱いっぱいの書類の山だった。

 若いブローズ君がやりたくなかった理由がわかった。実に面倒な手続きなのである。
 私の場合は、かつてモントリオールの法律事務所で秘書をしていた経験がここで役に立って、こうした作業に辛抱強く、取り組むことができた。

 これまでたどって来た道がどこかでちゃんとつながっていると思って、私はうれしかった。書類を完成できたことを神様に感謝した。

▼マイナス45℃にもなる厳しい冬
飛行学校の再開_c0174226_22515752.jpg

 ところがこの道は、なかなかまっすぐには続かないのである。

 2月にオタワに申請書を送って、1カ月。3月の末のことだった。
 ブルックスの有力な企業の持ち主が4人、私のところにやってきた。何かと思えば、再び「ブルックス・エビエーション」の名前で、新しい株主もいれて、飛行学校とチャーターの仕事の2本立てで申請をしようと言い出すのである。

 相手は巨大な牛の飼育場の持ち主や、景気のいい石油会社のオーナーであった。
 私は一文なしの、ただのパイロットである。とても太刀打ちできるものではない。彼らの提案に同意するほかに手はなかった。

 オタワの運輸省にまた手紙を出して事情を説明し、私の会社名「CMフライトサービス」での申請を取り下げ、「ブルックス・エビエーション」の一員として活動することを伝えた。

 そうしたあれこれの騒動の末、1979年4月、正式に「ブルックス・エビエーション・フライング・スクール」がスタートした。
 私は株主の一人として、6000ドルを会社に支払うことになった。どこをひっくり返しても私にそんな貯金があるはずもなく、これは借金するしかない。最初の生徒だったローズマリー村のD氏が、私のローンの保証人になってくれた。
by eridonna | 2009-11-23 12:50 | 第9章 大草原で暮らす