まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第8章 カルガリーへ( 6 )

ホワイトロックの海岸で

 バンクーバーに出てきてたった3カ月あまり。私は仕事を失ってしまった。

 夕方、ホワイトロックの砂浜に座って、ボンヤリ考えていた。
 涙があとからあとからこぼれて、止まらなかった。どうしてこんなことになったのだろう。どん詰まり、どうしようもない。どこにもいけない。誰も助けてはくれない。

 目の前に広い太平洋の海があった。
 私はこんなに一生懸命、正直に働いてきたのに、またもやゼロに戻ってしまった。

 数学だって、1プラス1は2になるではないか。2倍働けば2倍になるはずなのに。どうしてうまくいかないのだろう…。
 これはいったいどういうわけだっていうの? 怒りとも悲しみとも悔しさともいえない何かで、胸がいっぱいだった。

 ふと空を見上げているうちに
「誰か上で見ている方がいますか?」と思わず声が出てしまった。

「私は人を殺したことはない。人の物を盗んだこともない。うそをついたことは……、あっ、これは少々あるから、まったく罪がないとはいえないんだ……」

 しばらくの間、自分で自分に問いかけていた。すると、またどこからか、いつかのあの小さな声が聞こえた。

「あなたはお金が欲しいのか?」

「ああ、そうです。不渡りの小切手3000ドルがあれば助かります、でも……。3カ月たったらまたお金が必要になる。それだったらお金をもらってもしょうがない」
と心の中でつぶやいた。すると今度は、

「では、夫が欲しいのか?」

「そうです、そうです、日本を出るときから、ずっと念願だったのは理想の夫にめぐり合うことだったんです。青い鳥を探して、ついにバンクーバーまで来てしまったのですから。でも……」
 ちょっと考えてみた、
「私ももう45歳を過ぎて、今から夫を見つけてもうまくいくかしら。若さも富も何も持たない私では……」

しばらくするとまた次の声がした。
「ではあなたの体が健康であれば?」

「ああ、そうです、それなんです。それがいちばん欲しいものです。ギックリ腰になってしまって、こんなに背骨の軟骨がすり減ってしまって、痛くてたまらない。ともかく健康でありさえすればいい。そうです、それが望みなんです」

 私はこのころ、疲れとギックリ腰の痛みで、毎日杖にすがって歩いていたのだ。今や、欲しいものが心の中ではっきりした、と思った。

 もうあたりは暗くなってきたので、立ち上がって杖をつきながらアパートに向かって歩き出した。さっきの声が繰り返し、同じことを質問してきた。
 まるで私の決心をもう一度確かめるかのようだった。

「お金じゃない、夫じゃない、望んでいるのはギックリ腰が治ること」
「お金じゃない、夫じゃない、体さえよくなればいい」

 私は自分に言い聞かせるように何度も答えながら、アパートの階段の下までたどり着いた。
 3階まで足で登らなければならない。手すりにつかまって登りだすと、どこかで電話の音が鳴り出した。

 どこかしら。どうやら私の部屋らしい。こんなに遅く、誰だろう? 10回以上も鳴っている。東京の母かもしれない。
 ドアを開けて、電話機を取りあげ、「ハロー」と言うと、英語で
「ハロー、あなたはミスムラカミですか?」と女性の声がした。

「はい、そうです」
「こちらはカルガリーのJと申します」
と言ったので、私はびっくりした。
 彼女は西部では有名なパイロットだったからだ。

「存じております。あなたのお名前は有名ですから」
「私の学校で教官が一人足りないので、働きに来てくれませんか」

 なんと、夢でも見ているのではないだろうか。あまりにも突然の話である。
 面食らってしまって、よく考える余裕などなかったが、断る理由などどこにもあるはずもなかった。彼女の気が変わらないうちにすぐその場で返事をする。

「ぜひお願いします。10月にはそちらに移動できます」

 今日は、なんという日なのだろう。
 ついさっき、私は絶望してスターロン社に辞表を出したところだ。そして、同じ日の夜に、カルガリーの学校に就職が決まるとは……。
 なんという幸運なんだろうか。さっきまでは、まるで袋小路に追い詰められたような私だったのに、不意に思いがけない次のドアが開いて、新たな別の道が続いているというのである。
 太平洋を眺めながら、あんな奇妙な自問自答の時間を過ごしたあとで……。

 不思議だった。ただの偶然の出来事なのだろうか。
 あまりによく出来すぎているような気がした。
 まるで何か見えない力が働いて、私の運命を運んでいっているようでもあった。でも、いくら考えたって、わかるような問題ではなかった。

 ただひとつ、わかっているのは、「今はもうこれで大丈夫」、ということだった。

 10月に入って、また車に積めるだけの荷物を積み込んで、残ったものは倉庫を借りて保管してもらい、あとで取りに来ることにした。

 まるで、カタツムリみたいで、自分でもおかしかった。
 今度は東に向かって走り、ロッキー山脈を越えて、アルバータ州に行くのだった。
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by eridonna | 2009-11-30 18:49 | 第8章 カルガリーへ
 フレイザー川に沿って、ホープの町から山の中に入る。東に行くにしたがって山々は高くなり、レベルストークを過ぎると、峠は早くももう雪だった。

 それほど急がないで走ったので、バンクーバーからカルガリーまで、車で32時間もかかった。J女史のところで1泊。
 次の朝から、エアポートの近所に住んでいるH夫人の家に下宿することになった。

 アルバータはカナダでも有名な牛肉の産地だ。沿岸の地域と違って魚を好む人は少ない。けれどもH夫人はイギリス人だったので、魚が好きだった。
 そこで二人とも肉より魚料理を食べることが多かったと覚えている。
 J女史の学校は、双発のパイパー アパッチ1機と、セスナ172が1機で、コマーシャルパイロットとIFR(計器飛行)の訓練を専門としていた。

 この地域はロッキーに続く山のふもとから広々とした草原が東へ展開し、5000フィートの高さがカルガリーでは3500フィートに、100マイル東のブルックスでは2500フィートに、サスカトゥーンでは1600フィート、さらに東のウイニペグでは800フィートと、北アメリカの大地は東に向かってなだらかに、広大なスロープになっているのである。
 太古の昔、ここがかつて巨大な氷河に覆われていた時代があった。その氷河が移動した足跡なのだ。

 このあたりはカナダのどこの地域と比べても、いちばん乾燥している場所だった。
 視界がとても広くて、60マイル(96キロ)四方、地平線まで何にも邪魔をされずに見渡すことができた。
 ただ西風が吹くと、恐ろしい乱気流と共に、西の空に独特のアーチ雲が現れる。この地域の先住民の言葉で「シヌック」という現象だ。
 気温は夏は暑くて35度Cにもなるが、冬には最低気温がマイナス40度Cにも下がる。その差は実に75度である。しかもこの激しい気温の差は季節によってだけではなく、ときにはわずか1時間の間に、20度も温度が変化することがあった。

 ともあれパイロットにとっては、風さえ克服できれば申し分のないところだった。太陽がさんさんと照る日が多くて、サニーアルバータとまで呼ばれている土地だった。

 1週間ほどして、J女史が「日曜日は何をしているの?」と聞く。「たぶん、寝坊しているでしょう」と答えると、「教会に行きませんか」と誘ってくれた。
 「あまり行ったことはないけれど、あなたがよろしければお供します」と、そのときは軽く答えた。
 彼女と一緒に出かけたのは、セイントジェイムス英国教会だった。
 それまでは聖書もまともには読んだことがなかったが、牧師さんのお説教を聞いていると、共感できるものばかりだったので、何となく興味をもった。
 それから毎日曜日には、その礼拝に行ってみることにした。

 このころは杖は持たなかったが、背中の痛みを隠すのに、歩くときに注意していた。
 あるときアレクサンダー牧師が、
「この中にどなたか背中の痛みで困っている方がおありです。どうか前に来られますように。お祈りしますから」と言われた。私はぎくっとして、
「みんなには秘密にしているのに、どうしてわかってしまったのかしら」
と思いながら、仕方ないので祭壇の前に進みでた。

 ほかにも2、3人が立っていて、その最後に並ぶ。ミニスター(牧師)が私の前に来ると祈ってくださった。すると背中が急に温かくなるのを感じた。これはいったいなんなの?とまわりの人に聞くと、「それはちゃんと治るということですよ」と言うのである。

 家に帰ると、また例の小さな声が「カイロプラクターに行かなくては」とそれとなく提案した。実はトロントを出るときには、カイロプラクターがバンクーバーの友人を紹介してくれ、バンクーバーの人は今度はカルガリーの友人を紹介してくれたのだが、まだここに来て出かけていなかったのだ。
 
 そこで紹介されたアイルランド人のドクターSのクリニックに行くと、
「日本人は背骨が真っ直ぐ過ぎる。少しカーブがないとすぐ疲れるのです。夜寝るときに、タオルを巻いて腰の位置に置いてその上に寝てご覧なさい」
と教えてくれた。
 はじめて聞く話だったが、わらをもつかむ気持ちでそのとおりにしてみると、腰に力が出てきて、6カ月でなんと治ってしまった。

 ただ、すりへった軟骨はもう元には戻らないので、背骨の力の限界をわきまえなければならない。度を越さなければ大丈夫、ということも教えてもらった。
 
 私はこれまで、何でも無我夢中で動いてしまう人間だったので、少しぐらい無理をしてでもつい体を酷使してしまいがちであった。
 だが、何よりも健康が欲しいと悟ってから、こうしてだんだんと自分の体の扱い方も学ぶようになった。
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by eridonna | 2009-11-29 19:01 | 第8章 カルガリーへ

青い鳥の真実 1977

 ある夕方、アレキサンダー牧師を囲んで賛美歌を歌っているときだった。
 彼が私の方を向いて、
「神の御子キリストが、我々の罪をつぐなうために十字架上で死んでくださったので、あなたももう重荷を背負わなくてもよいのです」
と言った。

 他の人に、どう説明してよいか、わからない。
 このひとことを聞いたとき、私の中ですべてが一瞬にして、真っ白になったのだ。

 自分のもっていた価値観が、そこで全部ひっくり返った、といってもいい。

 これまで自分で何もかもすべてやらないと気がすまなかった、私の性格。そして、その強い自分が、何もかも仕切ってやってきたと思ってきたこと…。
 だが、自分がすべてをコントロールしてきたというのは、実は錯覚だったのではないか。

 1年前に、マニングパークで右折できなかったために南に飛んで命が助かった、小さな声で何度も指示をもらった、こんな無鉄砲な私がこれまで生きてこれた。それらの一連の出来事が、私の中でみんなひとつにつながった。

「私は生かされていたのだ」という真実。

 私はいつも自分にとっての「真実」が知りたくて、あがいていたようなところがある。
 10代、20代、30代、40代と、積み重ねてきた自分の歴史を振り返ると、目の前のことを夢中でやりながらも、心の奥底でいつも「本当のこと」を追い求めてきた自分がいる。
 ほかの人にとってではない、私自身が納得できる真実。たとえ、ほかの人とぶつかっても、これが正しいと自分が信じられないものはダメだった。

 私が一人で背負ってきたつもりの大きな荷物。でも、それは違うという。
 その荷物をいっしょに背負っていてくれていた存在があるという。
 これまでも、そしてこれからもずっと……。

 これを読んでくれている人にどう伝わるだろう。生涯かけて探しつづけていた青い鳥が、実はキリストだったなんて、誰が理解してくれるだろう。
 でも、そのとき、私が了解したのはまさにそのことだった。

 この真実を受け入れたとき、私の中にわきおこったのは、まずは途方もない喜びで、うれしくてうれしくて、大声で笑いたくなるほどだった。

 ところがすぐにそれまでの自分がとても恥ずかしくなって、今度は穴があったら入りたくなってしまった。
 そこで祈りながら、自らざんげをする数週間を経て、3月の復活祭のときに、私はプロテスタントの洗礼を受けた。

 私にとっては、この日から第2の人生に出発したと言うことができる。

 それまでのあまりに強すぎる自我を土の下に埋めて、これからは神の御意志にしたがって生きる、ということを宣言した日である。
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by eridonna | 2009-11-28 19:08 | 第8章 カルガリーへ

ハンブルグへの旅

 私は一度決意すると、後ろを振り返らない性質だった。

 いったん自分にとっての真実がおもてにあらわれると、それをそのまま受け入れ、新たな気持ちで前に進むことができる。
 1977年3月に新しい人生の一歩を踏み出して以来、毎日が楽しかった。

 6月には、父の親友だったラウリッツェン氏からドイツのハンブルグへ1週間ほど来ないか、という手紙がきた。ラウリッツェン氏はもう82歳になられるが、父とは戦前からの友人で、父の死を知らせて以来、よく文通していた。

 ドイツではエルベ川の25周年親善祭があり、第2次大戦前後の船舶のキャプテン、またその家族が招待されたのだ。
 エルベ川では第2次世界大戦前から、入港してくる船の国籍を見て、川岸にあるウェルカムポイントでその国の国歌を奏でるという慣習があった。戦争中には一時中断したが、戦後1952年に復活し、このときがそれからちょうど25周年目なのだった。
 けれども戦前の船乗りたちは、いまでは父を含めほとんど亡くなっていて、生き残っているのは、ラウリッツェン氏とあと二人ほどであった。

 そこで、私は1週間の休暇をとり、8年前に他界した父の代わりに、その親善祭に出席した。カルガリーからカナダ航空でアムステルダムに到着、ルフトハンザでハンブルグに着いた。

 あの当時のドイツは、まだ西と東に分かれていて、緊張した雰囲気だったが、その中で開かれたエルベ川の親善祭はとても和やかなものだった。
 参加国はスカンジナビアの国々、英国、そして日本など。
 日本の女性が一人歌を歌ったり、各参加国の領事館員、そしてこの川からハンブルグ港に入港した昔の船乗りたち、その家族でにぎわった。
 ラウリッツェン氏が英語に通訳してくださったので、いろいろな人と握手を交わし、交流することができた。

 ▼二人の記者に囲まれたラウリッツェン氏と私
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 彼はハイデルベルグのベートーベン街に住んでいた長男の家にも連れて行ってくれて、その家族と一緒にハイデルベルク城を見学に行った。
 古い伝統的なドイツの都は、ショッキングな色使いなどまったくない、まるで薄明の中で夢を見ているような、静かなたたずまいだった。
 私はあらためて古いドイツの調和した美しさに見とれた。

 翌日には、フランクフルトからカナダに向けて飛び立った。
私が戻っていくのは、日光がさんさんと輝く大平原の中に新しく作られた都市カルガリー。ハイデルベルグとは対照的な、色彩のコントラストの強い大都会であった。
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by eridonna | 2009-11-27 19:30 | 第8章 カルガリーへ

再び解雇される

 年が明けて1978年、1月の末だった。J女史が突然私を呼んで、「精神病の兆候があるからドクターに診てもらうように」と言うのである。
 そんなひどいことを言われても、私には何の心あたりはなかった。だが彼女の言葉を受け入れて、3人もの違ったドクターに診察してもらった。どのドクターも「何の問題もないので病院に来る必要はない」と言う。

 つまりJ女史は、病を理由にして私を解雇したかったわけである。仕事をやめて欲しければ、おかしな理由などつけずにストレートに言えばいいのに、と思った。
 J女史のところでは1年半働いた末の突然の解雇だったが、下宿先のH夫人に迷惑がかけられないので、私はすぐできる仕事を探した。
 タクシーやスクールバスの運転手をやってみるのも面白いと思ったが、やはり昔とった杵柄、秘書の仕事が向いている。
 オフィス オーバーロードという組織で、休暇中の秘書の代役という仕事を見つけた。このごろ日本でも盛んになった「人材派遣会社」のような組織だ。場所柄、石油会社から頼まれる仕事が多かった。
 これは結構お金になったので、経済的には困るようなことはなかった。
 
 これが1年前だったら、私はまたパニックになっていたかもしれない。
 どうしてこんなことに……と絶望したり、相手を責めたりして、怒りに心が占領されてしまったかもしれない。
 だが自我を土に埋めて神の御意志に従う、と宣言したあとだったので、これはきっと何かの試練なのだ、と自分に言い聞かせた。ともすると、心の中が疑問の言葉でいっぱいにふくれあがったが、何とかなだめすかして押さえつけた。
 まだ私には知らされていない理由が何かあるのだろうと思って、流れに身を任せるようにしたのである。

 そんなとき、エドモントンから10歳年上の英国人パイロット、ビーラ女史が私を訪ねてきた。エドモントンからカルガリーまで350キロ。その距離をエアラインで飛んできてJ女史の学校に来られたが、私はすでに解雇されたあとで会えなかった。
 その晩、友人のところにいる彼女から私の家に電話がかかってきた。
「あなたが今困っていると、昨日心の中で声が聞こえたので飛んできたのです」
と言う。

 彼女は戦争中から飛行機に乗り、これまでに信じられないようなフライトを何度も経験しているパイロットだった。中には1万フィートの上空からきりもみ状態になり、地上700フィートまで落下するようなアクシデントを3回繰り返し、すべてを放棄して「お助けください」とい言ったときに、やっと近くの飛行場にたどり着いた、というエピソードもあった。
 いくつかの危機を脱してそのたびに奇跡的に助かった彼女は、私と同じように、やはり神への信仰をもつに至ったパイロットの一人であった。
 危険な場面をくぐり抜けてきた生き残りのパイロットには、信仰をもつ人が珍しくないのである。

 私はこれまで一度しか彼女にお目にかかったことはなかったので、彼女がわざわざ訪ねてきてくれたことに恐縮したが、トラブルの一部始終を語ることで、いろいろ慰めてもらうことができた。
 その何日かあとで、ビーラ女史の友人が指導している教会に出かけていったとき、とても年取った一人の女性が立ち上がって、予言のような、通告のような言葉をおっしゃった。
 「あなたは広い乾いた土地に行くことになるでしょう。心の中に神の掟を書き、正義を知るようになる」(ジェレミアの31章33句)
 どうしてそれが自分に当てはまるのか、そのときはわからなかったが、心の中にとどめておいた。

 1月31日、カルガリー国際空港での最後の日、帰宅しようとして車のところへ行くと、ウインドシールドに紙が張ってあった。
 生徒の一人で、GM(ジェネラルモータース)社の代理店のセールスマンから「電話してください」というメッセージだった。数日後に彼とコンタクトを取ると、「あなたの車はだいぶ古いから、買い替えなさい」と言うのである。
 あいにく私はお金に余裕がない。

「私は中古車以外は買いませんよ」
「ええ、ちょうど新車を買ったばかりの客がいましてね、彼の古い車を直接買えば、安く手に入ります。確か4年前くらいの型で、まだ新しいほうです。マリブと同じ大きさですよ」
「でも下取りにしないと、あなたの会社の利益が出ないでしょう?」
「そんな心配はしなくていいですよ」

 結局彼の親切を受けて、そのお客に直接電話をして、1974年型のオールズモビルを2000ドルで買った。古いほうのマリブは300ドルで近所の人に売って処分した。
 このときはまさか、近いうちにこのオールズモビルに頼るようになるとは、思いもよらなかった。
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by eridonna | 2009-11-27 11:29 | 第8章 カルガリーへ

あいているドアはひとつ

 4月に入ってから、100マイル東のブルックスから一人のパイロットがセスナ185で飛んできた。私はまったく面識のない人であった。

「カルガリー国際空港で、個人教授でIFRの訓練をして欲しい」
と言うので、このブローズ氏にシミュレータでIFRの基礎を2、3時間訓練してあげると、
「ぜひブルックス空港に来て、飛行学校を始めてくれないか」と言い出した。
そこで彼のセスナに乗せられ、そのブルックスへ無理矢理連れていかれたのである。
 行ってみると、そこは大草原の真ん中の乾いた土地であった。2カ月前に、あの小さな教会で聞いた言葉がよみがえってきた。
 生徒は数人いる模様である。このあたりは大きな町から離れているため、来てくれる教官がいないとのことだった。

 もし解雇されていなかったら、私はおそらくイエスとは言わなかっただろう。これは自分の意志ではなかった。こんな辺鄙なところへわざわざ来ようなんて、自分からは考えられなかった。
 まるで私が選択せざるを得ないように、レールが引かれているようであった。


 クリスチャンになるずっと前、何かを選択しなければならないとき、わたしは必ず悪いほうをとっていたような気がする。
 いくつものドアがあって、どれかひとつを選ばなければならないのは苦手だった。いつもまずいほうを選んでしまうのだ。

 そこであるとき天に向かってお祈りしたことがある。
「どうかこれからは選択のドアをひとつにしてください」と祈ったのだ。
 それっきり、二つのドアは開かないようになった。ひとつドアが閉じると次のドアが開くのである。

 このときも、私の前であいているドアはひとつだった。

 それではと、次の日からカルガリーからブルックスまで、往復200マイルの道のりを毎日ドライブすることになった。
 あの古いマリブだったら、途中で故障して苦労しただろう。少し前に2000ドルで買ったあのオールズモビルが、ここで役に立ったのである。
 
 毎朝日の出と共に、太陽に向かって、ひたすらまっすぐなNO1ハイウエイを100マイル、1時間半で走る。
 そして太陽が西に沈むころ、今度は西に向かってまた100マイル、カルガリーの下宿へ帰るというハードな日々が2カ月続いた。

 どこかブルックスの近くに下宿を探したほうがいいようだった。
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by eridonna | 2009-11-26 11:54 | 第8章 カルガリーへ