まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第9章 大草原で暮らす( 5 )

 ブルックス空港はアスファルトの主滑走路と、砂利をまいただけの急ごしらえの滑走路が2本、管制塔のない空港であった。
 ブルックスの町そのものからは5マイル北にあって、360度周囲をぐるりと見回すと、100マイル四方、何も地上から突き出ているものがなかった。
 大草原の真ん中にぽつんと存在する空港なのだった。

 この大草原はロッキー山脈のふもとからサスカチュワン州、マニトバ州まで続いている。このスケールの広大さは、いまだかつて見たことがないものだった。
 そのだだっ広い草原の中を、1本のトランスカナダハイウエイNO1が走っていて、ブルックスの町を通過している。
▼5月末に見られる広大なナタネ畑
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 つまりブルックスは大草原の中のオアシスとも言うべき町だった。
 町の南にある小川をいくつもせき止めて、乾燥した大地に人工の池ができていた。レイク・ニューエルという名前のその池は、10マイル四方の農民に水を売るための用水池であり、町の人々の憩いの場所でもあった。
 この池のおかげで、1978年現在、ブルックスにはおよそ9000人の人々が暮らしていた。池ができたのは95年以上も昔だと、町の長老が言うのでびっくりした。

 困ったのは買い物だった。カルガリーまでは往復4時間のドライブ、南の大きな町レスブリッジまでは往復3時間。いちばん近いのはアルバータ州のもっとも東寄りにあるメディスンハットで、それでも往復2時間半はかかった。
 つまりこうした理由から、車よりも飛行機を使うというニーズが、ここにはあるのだった。

 カナダではこのような辺鄙なところに住む場合、車でドライブするにしても、飛行機で移動するにしても、ひとつだけ、いつも注意することがあった。
 つまり決してガソリンが切れることのないようにする、ということだ。

 ブルックス近くを北上するハイウエイ36には、草原に入る手前に「これより先60マイル給油所なし」という標識がある。
 もしあなたがパイロットならば、西に向いて飛ぶときには特に用心しなければならない。予告なしに強い西風が吹くと、目的地に着く前にガス欠になってしまうのだ。ブルックス近辺のハイウエイNO1の上に、緊急着陸する飛行機がよくいた。

 この土地の産業は、用水地のまわりでは、農家の人たちが麦やカノーラ(ナタネ)、アルファルファやジャガイモ、とうもろこし、牧草を育てていた。草原地帯に入ると牧場が広がっており、さらに石油の採掘も盛んだった。
 そのため、飛行学校の生徒は主に農民とカウボーイ、そして時々石油関係の技師、という顔ぶれだった。
 最初の生徒は農家のD氏、すでにセスナ172を購入していて、ブルックスの飛行場にその機をパークし、10マイル北西のローズマリー村から訓練に通ってきた。

 1978年の4月7日、私をブルックスに引っ張ってきたブローズ君は、オタワの運輸省とコンタクトを取り、飛行学校の仮許可をもらった。
 彼はセスナ150とセスナ172を1機ずつ借りてきて、「ブルックス・エビエーション」と名づけた。
これで一応学校の形だけは整ったかに見えたが、何しろ滑走路以外、生徒と話をする場所もない。車の中が教室になったり、一軒だけあった整備員のハンガーを借りたりした。

そのうち30マイル西にあるバサナ町の牧場主、M氏が学校用のハンガーを建ててくれることになった。2月になってハンガーの外側だけが完成、生徒や私が毎日寄り集まる場所ができて、ともかくほっとした。 

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▲できたてのハンガー

 私もこのころには、ようやくブルックス近郊のダッチェス村に下宿するようになっていた。人口はたった620人という、ブルックス町よりさらに小さな村である。

 9月には生徒も増えて、みんなそろって学科を勉強する地上学校のときには、にぎやかでとても楽しそうだった。
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by eridonna | 2009-11-25 11:47 | 第9章 大草原で暮らす

初めての入院

 ところがある朝、運輸省のエドモントン事務所から電話があり、インスペクター(検査官)Rの声で、「すぐに学校を閉鎖しろ」という命令がきた。
「もし引き続き訓練をするようなら裁判沙汰になる」と言うのである。
 驚いて理由を聞いてみると、オタワからの仮許可が切れたこと、ブローズ君が正式の許可申請をしていなかったというお粗末なものだった。

 困ったことになった。すでに訓練費用を前払いしていた生徒には、ブローズ君から払い戻しをしてもらわなければ……。飛行場はハチの巣をつついたような騒ぎになった。

 その上、さらに数日後、もうひとつ災難が待ち構えていた。
 私は6カ月に一度、コマーシャルパイロット用の健康診断を受けていたのだが、ドクターGによると、甲状腺がんにかかっていると言うのである。思いもよらないことであった。
 すぐに手術を受けることにした。ところが切開してみると、ガンではなくて甲状腺腫だったので、幸い半分ほど切り取られただけで済んだ。
 
 あまりに次から次へといろんなことが重なったので、体力に自信のある私でもさすがに少し立ち止まる必要があったらしい。
 ここらでちょっと休みなさいという警告が出たようで、手術後に1週間病院で寝ていることが、とてもよい休暇になった。
 
 その病院での休暇中に、生徒が1人、見舞いをかねてやってきた。
 聞けば「4人で1機のパイパーチェロキーを買ったので、それを使って個人教授をしてくれればいい。学校はいらない」と言うのである。

 ベッドで寝たまま、私は考えた。
 この大草原にやってきたことは、私の意志ではなかった。いわば神様のお膳立てなのだとすれば、乗りかかったこの船は、たとえ座礁するとも大揺れが来ようとも、必ずどこか目的地に着くのではないか。
 私は今では自然にそんな風に考えられるようになっていたので、成り行きを信じて任せることにした。

「手術後30日間は空を飛んではいけない」というのが、ドクターの命令だった。
 仕方がないので、カルガリーで下宿していた先のH夫人と二人で、11月の雪空の下、寒さにもめげずドライブ旅行に出かけた。
 行き先はアメリカのモンタナ州・グレイトフォール。ロッキー山脈のふもとにあるモンタナ州最大の町で、農村と家畜業者の集まりであるアルバータの人間にとっては、ちょっとした気晴らしやショッピングを楽しんだりできる都会なのだ。
 1週間のあいだ、二人とも日常を離れて思い切り自由を楽しんで帰ってきた。

 さて、12月になって、ようやく「飛んでもいい」というドクターの許可がおりる。
 待ちきれなかった。さっそく4人の生徒が買ったというチェロキーを点検することにする。

 空港で調べていると、生徒の一人がやってきて、
「もう飛んでもいいのですか?」と私の体を気遣い、心配そうに聞いた。
「もちろんですよ。さあ、飛びましょう」と言うと、
「あ、あしたでもいいですよ」と言ってしり込みする。
「私は外に立っていると寒いの。中に入ってください」
 私は彼を機内に押し込んだ。

 久しぶりに地上を離れて軽やかに飛び上がる。
 ブルックスの上空を旋回しながら、このチェロキーの性能をいろいろ調べてみた。このパイパーはやがて私自身が買い取ることになるのだが、このときはそんなことまで
は考えもしなかった。
「66年型にしては、なかなかよい状態の飛行機を買いましたね」

最初のチェックフライトであった。
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by eridonna | 2009-11-24 12:38 | 第9章 大草原で暮らす

飛行学校の再開

 1979年1月、冬にはいって、あまり忙しくない日々が続いた。
 もともと日の短いカナダの冬では、人々は半ば冬眠状態に入ることになっている。夏の間は一生懸命働いて、冬の間の数カ月は南のメキシコなどにバケーションに出かけてしまう人たちも決して少なくない。冬期の収入が激減すれば経済的には苦しいが、それでもみんなが何とか暮らしているのがこの国だ。

 せっかく時間があるのだから、今度は、私の名前であらためて学校のライセンスを申請してみようかと、書類作成に取り掛かることにした。

 これは大変な仕事だった。
 銀行の残高証明書、私の会社名の登録証明書、公証人の証明書……。書類をそろえるだけで1カ月はかかった。おまけに申請書は20ものコピーを取らなければならず、オタワの運輸省に送るときは、ダンボール箱いっぱいの書類の山だった。

 若いブローズ君がやりたくなかった理由がわかった。実に面倒な手続きなのである。
 私の場合は、かつてモントリオールの法律事務所で秘書をしていた経験がここで役に立って、こうした作業に辛抱強く、取り組むことができた。

 これまでたどって来た道がどこかでちゃんとつながっていると思って、私はうれしかった。書類を完成できたことを神様に感謝した。

▼マイナス45℃にもなる厳しい冬
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 ところがこの道は、なかなかまっすぐには続かないのである。

 2月にオタワに申請書を送って、1カ月。3月の末のことだった。
 ブルックスの有力な企業の持ち主が4人、私のところにやってきた。何かと思えば、再び「ブルックス・エビエーション」の名前で、新しい株主もいれて、飛行学校とチャーターの仕事の2本立てで申請をしようと言い出すのである。

 相手は巨大な牛の飼育場の持ち主や、景気のいい石油会社のオーナーであった。
 私は一文なしの、ただのパイロットである。とても太刀打ちできるものではない。彼らの提案に同意するほかに手はなかった。

 オタワの運輸省にまた手紙を出して事情を説明し、私の会社名「CMフライトサービス」での申請を取り下げ、「ブルックス・エビエーション」の一員として活動することを伝えた。

 そうしたあれこれの騒動の末、1979年4月、正式に「ブルックス・エビエーション・フライング・スクール」がスタートした。
 私は株主の一人として、6000ドルを会社に支払うことになった。どこをひっくり返しても私にそんな貯金があるはずもなく、これは借金するしかない。最初の生徒だったローズマリー村のD氏が、私のローンの保証人になってくれた。
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by eridonna | 2009-11-23 12:50 | 第9章 大草原で暮らす

草原の嵐

 B君が借りてきたセスナ172は、チャーター用にまわされることになった。
 5人の株主の一人が68年型のパイパーチェロキー、CF―WUOを持ってきた。
 4人の生徒が買った例のチェロキーはCF―WUP。
 生徒の訓練用にはこの2機を使用することになったが、お互いにペンキの色から登録番号からあまりにもよく似ているので調べてみると、10年前にカルガリー国際空港で、ある飛行学校がこの2機を訓練用に使っていたことがわかった。
 
▼CF-WUPのコックピット
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いわば兄弟がまた出会ったようなめぐり合わせなのだが、生徒も整備員もよく間違えるのは、困ったものだった。
 無線ラジオの通信を聞いていると、2機の「CF―WUO」がサーキットにはいっていることになっていて、私はよく地上ラジオのマイクロフォンをつかんで、
「あなたたちのどちらかはCF―WUPですよ!」
と呼びかけなければならなかった。
 
▼CF-WUOのコックピット
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 うれしかったのは、新しい株主たちはさっそく、工事半ばでストップしていたハンガーを完成させたのである。
 ハンガーの中はセメントで床が張られ、教室やロビー、キッチンに給水装置、プロパンガスから電気まで備わっていた。
 夕方には、私が作ったフライドライス(炒めご飯)をみんなしてここで食べることもできたし、遠方の生徒の中には宿泊していく者までいた。

 4月27日、CF―WUO機に乗って、学校規定のクロスカントリー・ナビゲーションに出ることになった。生徒は4人の生徒の一人、A氏だった。
 
「今日の気象情報はどうですか?」と聞くと、
「今日は申し分のない天気、と気象庁が保証しました」と言った。
「この世の中でひとつだけありえないことが、その気象庁の保証ですよ」
と私は笑いながら、空を見上げた。
何しろ気象庁というのは、
「局部的に雨が降るかも、そうでなければだいたい晴れ、一時的に曇りになるかも、そうでないところは晴れる」
などというような、どこかでいつかは当たるような言葉を使用するのである。
 この広い南アルバータの気象予報はとてもむずかしいのだ。

 離陸したのち、ぐんぐん高度を上げていくにしたがって、北西の空に寒冷前線(コールドフロント)が見えた。「あれを見ましたか?」と私。
「どれですか」
「ほらあの雲です。コールドフロントですよ、あれは」
「でも気象庁は何も言わなかったですよ」
 20分ほど飛んだが、気のせいか、フロントとの距離が近くなっているような気がした。私たちは南にむかっているのだから、距離は開くはずなのにおかしい。
 雲の山の近づき方が速いのである。そこでもう一度、

「あなたは1泊用のかばんを持ってきたの?」と注意を促したが、効き目がなかった。
 仕方がない、私は説得をあきらめてそのままレスブリッジに向かう。
 レスブリッジに着くころには、彼も私が言いたいことを理解したようだった。着陸後、二人して急いでウエザーオフィスに走る。
 係官はデータを見ながら
「こんな天気のいい日に、何を心配しているんです?」
といぶかしげに私たちを見た。
「でもちょっと外を見てくださいよ。北西のほうを」
「ああ、あれですか。あれは弱いフロントで、たいしたものではありません。温度の差が2、3度ですから」
と取り合ってくれなかった。
 
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 二人してまたテイクオフ。今度は東に向かう。15マイル東のテーバーの町の上空で、さっきの山のような雲が変色して白から茶色になり、地上から3000フィートの高さまで、まるで巨大なカーテンを吊り下げたような格好で行く手に立ちふさがっているのを見た。

 距離は10マイルもない。フロントの影響を受けて、風は50ノットの強い北風になった。
ついに私は操縦桿を奪い取って、機首を南に変えた。
「どうしますか」とA氏。
「地図を広げてちょうだい。国境を越える前にどこかに着陸しなければ。あの砂嵐の中には絶対はいってはだめ」
 
 南に向かうと、恐ろしくスピードが速くなった。時速160マイルは越えそうだった。
「このあたりに農業散布の会社があるはずよ」を私が言うと、
「ええと、あ、パープルスプリングというのが地図にあります」
 1、2分もしないうちにすぐ見つかった。何もない草原の真ん中に飛行機が4、5機も置いてあるので、目立つのだった。だが、滑走路がない。
 
 とっさに直感で、ここの人たちは農道の一部を滑走路として使っているなとわかった。
 砂のカーテンはもうすぐそこまで来ていた。サーキットにはいるひまがない。左に旋回しながら、そのままアプローチして着陸。

 敷地内にはいってみると、パーク用の場所に、地上から3カ所、縄が備えてあった。機を止めるや否や、私たちはすばやくこの3つの縄を両翼と尾翼に縛り付け、彼らのハンガーに駆け込んだ。ちょうど3、4人の散布パイロットも「それ来た!」と言いながら走ってきたところであった。
 縄を貸してもらったお礼をいいながら、自己紹介をする。そこはキニバー・スプレイサービスという会社で、奥さんが入れてくれたコーヒーを私たちもご馳走になった。

45分ほどの休憩をしたあと、風が30ノットに弱まったので、帰ることにする。
機体のところに来ると、白いはずの飛行機は砂をかぶって真ッ茶色になっていた。恐ろしい草原の嵐だったのだ。
このあと、このスプレイ会社のオーナーの次男も私の生徒になり、コマーシャル用の訓練をすることになった。


 
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by eridonna | 2009-11-22 23:03 | 第9章 大草原で暮らす

相棒チャーリー登場

1980年、整備員のJ氏がどこからか連れてきたネコが、私たちのハンガーに住みはじめた。ところがこのネコが成長するにつれて、毎晩野生化したいろいろな種類のネコがやってくるので、地上学校の時間がざわざわと落ち着かない。
 うっかりしていたのは、このネコが、メスだったのだ。

 ある日、細く開いていたハンガーの扉から入ったのだろうか、普通の大きさとは違うネコの毛が教室の中にいっぱい。ボブキャットが侵入した形跡だった。ボブキャットは北アメリカに数多く生息するヤマネコだ。
 夏になって、このメスネコが戸棚をあけて入ろうとするので、急いで中を空っぽにして私の古いセーターを中に敷いてやったら、彼女は安心して、その日のうちに4匹もの大きな子ネコを生んだ。7月1日だった。
 4匹とも、父親はさぞ大きいだろうと想像できるようなサイズで、全員タビキャット(しまネコ)。
 3匹は生徒にもらわれていったので、残った1匹を「チャーリー・アルファ・タンゴ」、略して「チャーリー」と名づけて私が飼うことになった。
 
 パイロットたちがアルファベットを発音するときの用語で、頭文字をとると「C・A・T」である。
オスネコ・チャーリーはやがてブルックス飛行場の名物ネコとして有名になった。

▼マネージャーのチャーリー君
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 ブルックス・エビエーション社は軌道に乗りだして、チャーター部の責任者のK氏が双発機パイパーセネカを1機購入した。
 この機を見た生徒たちが「5分でいいから」「サーキット1回でいいから乗せて欲しい」とせがんだ。どうしようかな、と考えていたとき、あの小さな声が聞こえてきた。
「この飛行機には触れてはならない」と繰り返し聞こえる。

「別にどうってことないのにどうして」
「ちょっとだけならいいんじゃないかしら」
 私の心の中では、この声を聞いても疑問が湧いてきて、じっと我慢するのが大変だった。
私としては、新しい飛行機なのだから、ぜひ試してみたい気持ちも強かったのである。
 
 ところがそれから3週間たったころ、3人のオーナー株主が、私たち飛行場勤務の2人の株主を呼んで、ミーティングが行われた。驚いたことに、
「先月、会社は7000ドルの赤字を出した」という報告。
 その赤字は学校の経営サイドの問題ではなく、チャーター部から出た赤字で、なんと新しい双発機のブレーキ修理のために必要な費用だという。
 
 それを聞いて私はひやっとした。もし3週間前に、たった5分でもあの双発機に乗っていたら、7000ドルの修理費の半分は確実に連帯責任として負わされていただろう。
 本当にあの小さな声がブレーキになって、災難を避けられたと思った。私を守ってくださったことに、深く感謝した。

 けれども12月11日、株主3人の多数決で、ブルックス・エビエーション社をバラバラに解体して売ることが決定してしまった。
 理由は単純だ。もうからないからである。そうした事実がだんだんわかってきたところへ、チャーター部の赤字。それが直接の引き金となった。

 航空業はもとから利益の少ない産業なのである。短期間に利益を出そうなんていうのは、とても無理な話なのだ。何しろ保険と整備費だけで運営費の70%近くを占めるのである。
 私たちパイロットは、飛ぶことが好きだから、たとえ利益なしでも安全であれば、この仕事がしたいと思うのだ。
 
 そして私には、できるだけたくさんの生徒にライセンスをとらせたい、という気持ちもあった。利益を目的にすると、その分、学費を値上げせざるをえなくなる。
 生徒の経済的な負担が大きくなれば、入学できる生徒は半分以下になってしまう。

 それでは私は今度こそ、学校のライセンスとパイパーチェロキー1機を買い取って、「CMフライトサービス社」をもう一度やってみることにした。
 ブルックス・エビエーション社に属していたCF―WUOの値段は1万2000ドル。
ところがチャーター部のK氏が「どうしても売らない」と言い出して、話がこじれそうになった。仕方がないので、彼には別に2000ドルを1年間で払うという約束手形を発行して1件落着。いわば手切れ金のようなものだった。
 
▼こんなホームビルド機がよくブルックスにやってきた(後ろが前のカナールウイング)
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 1年前に支払った株主の資金6000ドルと合わせると、学校設立の資金は全部で2万ドルということになる。
 前のローンはすでに返済済みだったので、今度の1万4000ドルのローンは保証人なしで借りることができた。
 だがこのときの銀行の利子は20%という途方もない高さだった。普通だったらとても払いきれない額なのだが、このころは生徒が一番多い時期で30人もいたので、このあと2年ほどで、ローンの支払いが完了してしまった。
 
 なんといいタイミングだったことか。
 結果的に災い転じて福となった。だがこの幸運は私の力ではないと、ひしひしと感じさせた。ただこういう成り行きになったのだ。
 チャーター部はK氏が買い取った。ブルックス・エビエーション解散と同時にハンガーや教室はT氏に売られてしまったので、私は毎月家賃を支払って使わせてもらうことにする。

 そして1981年1月、ついに学校のライセンスは「CMフライトサービス」(Chiyoko Murakamiの頭文字をとった)に移され、名実ともに私一人の責任で運営されることになった。
 経営の規模としてはとても小さな飛行学校だったが、生徒の数は30人。私はその学校の主任教官であり、オペレーターでもあった。
 ちょうど50歳の冬を迎えたところだった。
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by eridonna | 2009-11-21 23:20 | 第9章 大草原で暮らす