まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第11章 終章( 5 )

チャーリーの天気予報

 1988年の3月。飛行機の保険料はさらに値上げされ、生徒の数はそれに反比例するように減っていった。

 そこでついに、「公共責任保険」という最低限の保険だけを契約することになってしまった。飛行機の破損は対象にならないので、生徒たちにはあらかじめ言い渡しておいた。
「もし誰かが飛行機を壊したら、そのときに閉校になりますからね」
そのせいか、みんなよく忠告を守って、注意深くなっていたようだ。
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 ところがまたもや私には次の試練が待ち構えていた。
ドクターGに私は子宮ガンだと診断され、4月17日、メディスンハットの病院で手術を受ける。
 手術後、最初に目覚めると、まず生徒の一人の心配そうな顔が目に入った。わざわざ1時間15分の道のりをドライブして来て、付き添っていてくれたらしい。
 メディスンハットのフライトサービスステーション(FSS)からは花が届けられた。10年前にカルガリー国際空港で教えた生徒の一人も見舞いに来てくれた。
 人のやさしさがうれしく、心温まる入院の日々であった。

 手術後の経過はとても順調で、6日目の朝、FSSのスタッフが、彼の飛行機でブルックスまで私を運んでくれた。
 長い距離をバスに揺られなくて済んだのでありがたかった。
 ブルックス空港に降りてハンガーをのぞくと、空っぽで誰もいない。
「みんな、どこへいったのですか」と聞くと、メディスンハットの病院へ、私の見舞いに行ったというではないか。
 まさか6日で退院するなんて、誰も思わなかったそうだ。
 
1989年になった。
生徒は4、5人はいるのだが、それぞれ生活に追われていて学校に来る時間がなかなか見つからないらしい。
 前の年と比べても、1カ月の飛行時間はかなり減ってきていた。

▼ブルックスの町 1500フィートから
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 あれは5月9日の夕方だったと思う。私はちょうど4、5人の生徒を相手に、教室で教えていた。ナビゲーションのクラスだったので、みんなして地図を広げて計算しているところだった。
 そこへ外からチャーリーが帰ってきた。
 とても興奮した様子で、生徒たちの顔を見ながら「ミャーオウ」と大きな声で2回、叫んだのである。
 計算機を使って作業をしていた生徒たちは、そんなチャーリーの顔をのぞき込むと、
「わかった、わかった、突然嵐が来るんだね」
 みんないっせいに地図をたたみ、本をしまうと、
「では、来週また続けます。嵐の前に農場を見まわらなくてはならないので」
と言って、みんな帰ってしまった。

 その夜のことである。
 風速50マイルものすごい風がブルックス一帯を吹き荒れた。
 私はランプにパークしてあるCF―WUPを守るために必死だった。縄を3本張って機を地上に固定したり、飛行機の前にトラックを停めて、少しでも風の勢いを遮断しようと試みた。
 その晩はとうとうターミナルで一夜を明かした。

 次の朝、電気は切れ、たくさんの木の枝や、屋根の一部までがランプに落ちていて、嵐の強さを物語っていた。
 吹流しは、根元からちぎれてどこかに飛んでいってしまった。
 飛行機は風に向けてパークして置いたので、何とか無事だったが、風の力だけで飛びあがってしまったらしくて、前の車輪が何度も浮き上がったあとが地面に残っていた。
 自然の力の偉大さ、強さにあらためて目を見張る。

 その日、ブルックスからダッチェス村まで帰る途中、道路の脇にある電柱はほとんどが倒れていた。電柱を立て直し、電気が復旧するまでに10日以上もかかった。
 あのときチャーリーは動物の本能で、自然の急変を予測したようだった。
 チャーリーを見ていると、気象庁よりも確実な天気予報になることがあった。急に気圧が下がりだすと、彼は絶対、外には出ないのである。

 ▼夕暮れの空港
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 吹流しを1本、新しく注文しなければならない。ブルックスの町役場に頼みに行った。
 そのときにわかったことだが、このあたり一帯は強風で有名な場所なのだから、普通の25ノットの風用では1年ももたないというのである。そこでひとまわり大きな40ノット用のものを購入した。
 
 新しい吹流しがくるまでの2、3日のあいだ、飛ぶのを嫌がる生徒が何人かいた。私は
「知らなければ、別に恐れることもないじゃないの」とからかった。
 もしかぶっている帽子が飛ばないようなら、15ノットの風。このくらいは覚えておけばいい。

 また飛行中に風の方向を知るのは簡単だ。アルバータ、サスカチュワン、マニトバの3州では農道がそのまま地図の東西南北を指している。
 農道に沿って2、3分飛んでみれば、どの方向から風が吹いているのか、すぐにわかるものだ。
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by eridonna | 2009-11-10 20:52 | 第11章 終章

不可思議な力

 もうひとつ、不可解なことが起きた。
 あるとき生徒の一人C氏が「私はいつ単独できそうですか?」と聞いた。
「そうですねえ。あなた次第ですが、今晩かもしれない。夕方の気流の静かなころ、6時に来てください」
と私は答えた。

 さまざまな理由から、普通は「初単独」の時期は生徒には知らせないものである。
 フランスのビドゥーユも、ほかのどの教官も同じである。
 ある日突然、それまで一緒に乗っていた教官が飛行機の外に出て、「さあ、あなたは今から単独をしなさい」と生徒を驚かすのがどこでもお決まりのパターンだった。

 世の中に、これほどガッツのいる仕事はほかにないと言ってもいい。生徒にとってはもちろんのこと、それを命じる教官は責任感にさいなまれ、生徒が無事に着陸するまで、心配顔でずっと滑走路の端に立っているのである。
 
 そんな「初単独」だから、前もって本人に知らせると、心理的に緊張しすぎてうまくいかないのである。ひどい場合は病気になってしまう生徒だっているのだから。
 これまでにはたった一人、ブランプトン空港で「あと何時間で僕は単独できそうですか」と聞いてきた17歳の生徒がいた。
 私はちょうど彼に単独をさせようと考えていたときだったので、内心ギクッとしたが、
「さあ、どうでしょうねえ」とその場はごまかした。
 そして車輪が地上についた途端、「ストップ」と言うと、そのまま外に出て「では一人でサーキット2回してきてください」と、彼を初単独に送り出した。
 その少年は私とはたった4時間、同乗しただけだった。私の個人の記録では一番短い訓練であった。
 彼は例外中の例外で、99%の生徒は初単独の時期について、自分からは聞かないものなのである。
▼ダッチェス村 800フィートから
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 ところでその晩、6時になっても、その生徒C氏は現れなかった。
 7時になって電話が鳴った。生徒の一人でドクターのR氏からだった。
「あなたの生徒のCさんのことなのですが……」
「ハイ、彼がどうかしましたか」
「さっきヘリコプターでカルガリーの病院に運びました」
 その日の夕方5時ころ、彼の農場で、ガソリンタンクが彼の体の上に落ちてきて、左の肩の骨と左の肋骨全部、左の腰骨を折ってしまったというのである。幸いタンクはほとんど空だったが、彼はそれから数ヶ月、ICU(集中治療室)から出られなかった。
 
 8月に退院すると、痛み止めの薬が必要なくなるのを待って、彼はまた訓練にはいった。
もうそろそろ単独にいけるかな、と私が思い始めたころ、彼はまた同じことを聞いた。
「いつ単独できるのでしょうか」
「そうねえ、あしたの朝はどうかしら」
と言ってはみたものの、正直に見て、彼は最後の着陸寸前に飛行機のコントロールがうまくいってなかった。さて、どうしたものか。
 
 ところが次の朝、9時になっても彼はこなかった。
そのうち生徒の一人が、情報を持って教室にやってきた。ラジオのニュースによれば、C氏の家族が早朝、カルガリーの手前20マイルのハイウエイで自動車事故に遭ったという。家族は軽傷で済んだが、C氏は前と同じ病院のICUにまた運ばれたのだ。

 さっそく病院に見舞いにいくと、彼が言うには、居眠り運転をして中央の分離帯の壁に激突、車は3、4回も回転したそうだ。前の晩にほとんど眠れなかったからだと言う。
 これを聞いて私は真剣に考えた。
「単独が頭にひっかかって眠れない人が、どうして2回も単独のことを聞くのだろうか」

 さらに2ヵ月後、10月も終わりになって、C氏は杖をついてやってきた。
 そしてどうしても離着陸の訓練をして欲しいという。そこで20分ほど同乗飛行をした。けれども以前とまったく同じ状況で、何か彼の中には心理的に厚い壁があり、そこにアプローチすることができない。
 フライトを済ませ、コーヒーを沸かしながら、私は迷っていた。
 彼はフライトの理論をのみこんでいないか、それともその理論を現場で実際に使えないのはなぜか、これ以上伸びない……。

「あの、ちょっと話したいことがあるのですが」と私が口火を切ると、
「実は僕もです」と彼が言う。
思い切って話しだしたら、考えてもいなかったことがすらすらと口から出てきた。
「申し訳ないけれど、どうも私はあなたに教えられないようです。もっと太くて長い滑走路のある、メディスンハット空港で訓練してごらんなさい」
 すると、
「僕もちょうどそう思っていたところです」

 それから彼はパイパーチャージャーという235馬力の飛行機を買って、メディスンハットでめでたくライセンスを取った。
 最後には解決がついたようだが、このC氏に起こった出来事は、いったいどういうわけだったのだろう。
 
 彼は結局、私のところでは「初単独」をする運命ではなかったのだ、と私は考えた。人間の目には見ない次元で、不可思議な力が働いたとしか考えようがなかった。
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by eridonna | 2009-11-09 21:13 | 第11章 終章

飛行機の時代の終焉

 1990年からカナダ西部の経済不振はいっそう深まり、新しい仕事を求めて、ブルックスの町を出て行く若者が増えていった。
 ブルックスの人口が減っていくのである。
 訓練の途中で町を離れる生徒も多くなり、常連の生徒は2人になってしまった。

 私は毎日飛行場へ行く必要もなくなり、チャーリーが糖尿病にかかったこともあって、ダッチェス村の自宅にいることが多くなった。
 必要なときだけターミナルビルに行く生活では、ターミナルビルの面倒も見られない。そのせいか、数ヶ月後には地下室のボイラーが過熱してボヤを起こした。煙の被害だけでおさまったので、壁や床のカーペットの張替えをして、2カ月で元どおりになった。
 この仕事を保険会社から請け負ったカルガリーの夫婦が、同じキリストを信ずる者同士、すぐに親しくなった。彼らは報酬の10%を寄付してくれた上に、とても親切に対応してくれた。
 イスラエルに行くと言っていたが、その後どうしただろうか。

 1991年は静かな年だった。
 中央アフリカで生まれたという若い生徒が学校にやってきた。両親は宣教師で、マラウイにいると言う。この生徒とは聖書についてずいぶん話し合った。貴重な思い出で、とても印象に残っている。

▼ブルックス。ロデオの日のパレードを見る
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 1992年の終わりには、日本から訓練生が一人やってきた。
 1993年になると日本からはさらに4人が来て、ブルックスに長期滞在しながら、パイロットのライセンスに挑戦した。
 だが、衰弱したカナダドルのおかげで、飛行機の整備費用が極端に値上がりした。飛行機の部品はすべてアメリカ製だからである。
 それに大都会から離れたブルックスでは、日常的にはすぐに整備ができない状態で、必要なときに55マイル南のテーバー空港から整備員を呼んでいたが、それも次第にうまくいかなくなった。
 1994年5月。いよいよ学校を閉めるときが来たようだ。

▼空中操作中
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 民間航空の訓練事業はその国の経済状態を敏感に反映していて、かつて全盛だったのは60、70年代だった。私がライセンスに挑戦したのは、まさにその黄金期であった。それが85年を境にして、あとは下る一方となった。
 今ではパイロットの訓練費も5年前の2倍である。
 教官の数も減って、大都会のエドモントンかカルガリー付近の空港でないと、飛行学校は運営できなくなってしまった。
 人口の多い場所なら経済的に余裕のある人もいるが、ブルックスあたりでは1回100ドルの訓練費用を出せる人がいないのである。

 1985年以降、セスナ社もパイパー社も、一番人気のあったセスナ150、セスナ172、パイパーチェロキーの生産をストップした。

 その昔、セスナの172が3万カナダドルで買えた時代があった。今は同じものがほしかったら発注するしかないから、15万から20万ドルはすると思う。これではいくら飛行機が好きでも個人の手の届く値段ではなくなってしまった。
 最近では量産の単発機の生産は、エンジンの180馬力以上の大きい飛行機だけとなっている。値段も10万USドル以上のものばかりで、これまた庶民の需要とは縁遠い製品である。
 しかもその飛行機の値段の3分の2は保険なのである。何か事故が起きたときのための、
訴えられないための保険だ。

 そうしたさまざまな時代の変化の中で、飛行機は車に取って代わられるようになった。
 飛行機はスピードは車の2倍でも、ガソリンは3倍かかる。整備費用も必要で保険も高いとなると飛行機を維持するのは大変だ、それなら車でいいや、と人々が考えるようになったのだ。
 もしデザイナーが従来の飛行機とまったく違う機種をデザインし、保険をそれほど必要としないならば、また小型機に乗る人も増えるかもしれない。
 
 だがそんな夢のような日が来ない限り、カナダではもう小型機の需要は終わりだろうと思う。
アメリカではそこまで事情が切迫していないので、小型機のオーナーパイロットもまだかなりいるはずだ。西海岸では、ヨーロッパから訓練に来る人もいると聞いている。
 だがここでは、私の役割はもう終わりに近づいていた。
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by eridonna | 2009-11-08 21:38 | 第11章 終章

はるかな道のりへの感謝

 学校設立のときから私のよき友だったチャーリー。
 生徒たちはこう言うと笑うだろう。なぜならチャーリーは私のボスだったからだ。そのチャーリーは1992年の10月に12年と4カ月の生涯を終えた。
 
 振り返ってみれば、1981年からの10年間は、気楽で楽しい日々だった。

▼年末パーティ。テーバーから整備員も参加した。みんなの好きなメニューは、とんかつにちらし寿司、照り焼きチキン。

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▼私の誕生日には、生徒たちがびっくりパーティを企画して、ランウエイケーキ(?)を焼いてくれた奥さんがいた。

▼農業新聞に「ブルックス・エアポートのチャーリー」という記事が載ったので、アメリカのモンタナ州から、はるばる自家用機でチャーリーを見に来たパイロットがいた。

▼1年に1度、7月はじめの日曜日は、フライング・イン・ブレックファ―ストと称して、南アルバータのパイロットたちが朝食のパンケーキを食べに来る日。みんなしてランプ(操作場)でパンケーキを焼く。私はラジオの係で、飛んでくるトラフィックの整理で大忙し、卒業したオーナーパイロットたちが集まって、旧交をあたためた。

▼ある日、狩に出かけた生徒が鹿を一匹しとめて来て、教室の机の上に置いた。感激したチャーリー君、鹿のそばで一晩明かす。
▼ブルックスへやってきたカルガリーのオーナーパイロットが、着陸時に車輪を出すのを忘れて、着陸事故。生徒一同が彼を助け、なぐさめ、温かい友情が芽生える。

 まだまだここには書ききれないほどのたくさんの思い出がある。


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 いつか自由に空を飛びたい、と、そればかりを願って日本を飛び出してから、なんという長い道のりを来たことだろう。
 フランスで初単独を経験し、カナダの空を飛びながら、とうとう憧れのパイロットの最高クラスのライセンスまで手に入れることができた。
 
 広大な大陸の東から西へと移動するうちに、たくさんの生徒に空を飛ぶ技術を教え、最後はこの大草原の真ん中で、18年間も飛行学校を運営してきたのである。
 この「CMフライトサービス」だけでも、200人以上の生徒が出たりはいったりした。その中の100人は自家用パイロットのライセンスを取り、7人がコマーシャル・パイロットに進み、中にはカナダ航空に就職したパイロットもいる。

 そして今、どこまでも広がる大草原の真ん中に、立っているのは私だけだった。

 現在ほとんど人の来なくなったターミナルビル、そして飛行機の音のしない空を見ると、寂しさで胸がいっぱいになる。
 それでも、一人でぽつんと誰もいなくなった教室を見まわしながら、私は考えた。

 人に見せられる財産を作ったわけではなく、わが手に残ったのは1機のチェロキーだけ。だが今の私には、無事に任務を終えたという、その平和な気持ちもたしかにあるのだ。
 
 そしてそれは私がやり遂げた仕事ではなく、すべては創造主である神のはからいであったと私は理解している。

 本当によい勉強をさせてもらった。生徒と共に深く感謝したい。
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by eridonna | 2009-11-07 21:58 | 第11章 終章
 人が一生のあいだに生き方を学んでいくプロセスと、飛行学校における学びのプロセスはとてもよく似ている。
 違うのはそれぞれの学校ですごす滞在期間である。

 人生の学校は卒業までに何年も何十年もかかるが、飛行学校のほうは短くて、速い人なら4カ月、遅くともほぼ1年あれば、最初のライセンス(自家用ライセンス)をとることができるだろう。
 飛行学校の訓練では、単に飛ぶための技術だけではなく、精神的にも学ぶことが多く、それまで気づかなかった自分を知るチャンスが何度もある。 
 
 その成長のプロセスは、大きく分けて3段階である。

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第一段階 初単独飛行。

 このとき初めて、本当の意味の自由を使いこなす機会が訪れるといえる。
 そばで怒鳴っていた教官が、飛行機から降りてしまい、生徒は一人で自分の命と飛行機の責任を取らねばならない。
 この日が来るまで、自分の中のいろいろな欠点を教官に指摘されるが、それを正直に受け入れない人は上達しない。

 中途でドロップアウトするのは、経済的困難なケースも含めて2割ほどいる。また過保護に育った若者で、短期間に集中する経験をあまりしたことのない人など、初単独したあとでドロップアウトするケースも1割。
 またアルコール中毒者や麻薬使用者は訓練生として適さない。
 かつてマリファナ常習者の生徒がいたが、過度に感情的になりやすく、訓練が続けられなかった。本人の性格がそのときによって変わってしまう、現実から離れてしまうなどの問題があり、安定した積み重ねができないのである。


第二段階 単独ナビゲーション。

 一人で3時間も、250マイルもの距離を飛び、他の2カ所の飛行場に着陸して帰ってくるという訓練である。
「人間は結局一人旅だということが、体験によってわかりました」とは生徒の言葉。


第三段階 フライトテスト。

 テストそのものよりもその前に行う模擬テストが非常にハードなので、この段階で「こんなにつらいなら、ライセンスなんかいらない」と文句を言った生徒もいる。
 これまでの訓練過程をすべておさらいして再検討するので、いろいろなプレッシャーをかけると、その人の一番弱いところがまず試されることになるのだ。
 
 特にプライドの強い人は、まず進歩が遅れる。そしてそのまま長い間放置しておくと、正直に現実を見つめるのに時間がかかり、それがついに事故のもと、となってしまう。
「今日は何を学ぶのだろう」という受け入れの態度でフライトをすれば大丈夫だが、「私は何でもできる。何でも知っている」という態度でいると、もっとも危険なことになる。
 ここでは、教えるほうにもかなりの忍耐が要求される。

 人生の学校も同じである。
 
 私はずいぶん自分は忍耐強い教官だと思っていたが、私みたいな飲み込みの悪い者を辛抱強く導いてくださった神こそ、けた違いに偉大な教官だと思っている。
 
 傲慢になり反抗的な態度で臨んでいるときは、思いがけない事故にあう。エゴが勝っているときは、あの小さな声も聞こえない。
 安全なパイロットを目指す者にとって、一番邪魔になるのは、実はプライドなのだ。

 大いなる流れに向かって、「私の進む方向はどちらなのか、教えてください」という素直な気持ちでただ祈るとき、新しい道はきっと見えてくるものである。     (おわり)


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by eridonna | 2009-11-06 22:03 | 第11章 終章