まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:あとがきにかえて( 2 )

 2011年現在、80歳になられる村上千代子さんは アルバータ州のブルックスにお元気で暮らしていらっしゃいます。さすがにもう飛行機の操縦捍は握っていませんが、70歳をかなり過ぎるまで、免許の更新もされていました。

 私が村上千代子さんの存在を初めて耳にしたのは、1996年初夏、取材でカナダのバンフに立ち寄ったときのことです。「アルバータに飛行機学校の校長先生をしている日本人女性がいる」というのです。
 その当時は海外で活躍する日本人女性を取材してまわっていたので、ぜひとも会いたいと思いました。翌年、日本の弟さんのところに里帰りされた村上さんに初めてお会いすることができ、そのときは取材と、埼玉県桶川の本田の飛行場を背景に撮影もしました。

 さらに翌年、1998年、実際にカルガリー近くのブルックスのご自宅に伺って、連れて行った二人の息子ともども3人で泊めていただき、村上さん操縦の自家用飛行機(本文にでてくるチェロキー)に乗って、ブルックス上空や周辺の広大なバッドランドの風景を楽しみました。
 この二回の取材をもとに、海外関連の雑誌に4ページの記事をまとめ、その雑誌をお手元に届けたところ、やがて村上さんから「私の人生にもし興味があるなら」と最初の原稿が送られてきたのです。

 村上さんの人生は本文にあるとおり、本当にドラマティックな稀有なものです。
そこで、村上さんの手書きの元原稿と、私が取材した10時間分ものテープをもとに、共著で本にしようという企画をスタートさせました。それが2000年のこと。
次々郵便で送られてくる原稿は私がワープロ(やがてコンピュータ)に打ち直し、同時並行で友人たちにテープ起こしを依頼してできあがってきたデータから、いろいろエピソードを取り混ぜたり、現代的な表現にわかりやすく言い換えたり(何しろ村上さんは33歳からずっと降海外暮らし)、とりあえずまとまった分から順繰りにカナダに郵送して修正をいただき(私の夢見がちな情緒的な表現を、村上さんはパイロットらしく、事実をもとにしたきっぱりした表現にたびたび校正されました)、さらに追加はファックスでやりとり…。

 そのプロセスは時間がかかり大変でしたが、ドラマティックな村上さんの足跡をたどるのは、ある意味でとても楽しいものでした。

 しかし、できあがった原稿を数社にもちこみ、結局古巣のK社にいちおうの了解をえたものの、最後の最後に出版原稿として整理できなかったのは、じつは私自身の問題によるものでした。(なので このブログにアップしているわけです)

 ひとつには、この10年の個人的な波乱(離婚、子育て、起業の失敗と再生など)もありましたが、もうひとつは、「信仰」の問題でした。
 村上さんの原稿のところどころにある、神への信仰の力、読者のみなさんに伝わっているとうれしいのですが、それは、村上さんの人生の後半を支えてきたゆるぎない力であり、目覚めによる意識の転換のすばらしさ、生きることの意味そのものです。

 初めて村上さんにお会いしたとき、この神への信仰を強く表現される言葉に正直、面喰い、とまどい、抵抗した私がおりました。というのは、私自身が年少の頃からカトリックの教育を受けたものの、10代の途中で宗教のあり方に疑問をもち、子どものころからの祈りの習慣も教会に通うこともすべて、いつのまにか意識的に遠ざけてきたからなのです。
 神について考えることへの拒否感、それは私にとって、思いがけなくとても大きいものでした。

 しかし、村上さんの生き方を語るのに、神への信仰を避けて通ることはできません。原稿をまとめながら、私の中の葛藤は最後まで続きました。ですからできあがった原稿は、じつは村上さんご自身にとって、かなり歯がゆいものであっただろうと思います。表現上、私がかなりその意図やインパクトを薄めてしまったからです。
クリスチャンが人口の1パーセントにも満たない日本の読者にとって抵抗のない表現にする、といういちおうの考えはありましたが、それより何より、私自身が許容できる範囲、という編集のバイアスがかかっていると思います。

 一方で、この10年の間、私は自分が苦境に陥るたびに、村上さんの原稿の言葉にいつもいつも、励まされてきました。何度も清書しているので、暗記してしまうほどですから。

「いくら押しても開かないならそのドアはあなたの道ではない、開くドアはひとつだけ」
「自分がすべてコントロールしているのではない」
「神はあなたのほしいものはくださらないが、あなたの必要としているものは与えてくれる」

 原稿には書きませんでしたが、こういうのもあります。
「もしあっちこっち探して鍵がみつからなかったら、3度目には神に祈ってごらんなさい。きっと自然に目に入るから」
そして、笑っちゃいますが、いつもほんとうにその通りになりました。

 自分の執着しているもの、自分のこだわりをはずしたら、神様はきっとあなたを助けてくださる。村上さんに何度も言われた言葉です。

 この10年の間、自分に起きたことはここには詳しくは書けませんが、私はいつのまにか、神という概念について、自分のなかで問答するようになりました。
神は存在するのか、神とはなにかと頭で考えていると、神は是か非かとなってしまいますので、その方法では決して答えはでません。

 でも自分に起きてきたことを振り返るとき、私はどうしても自分の力以上の何か、偶然というようなものでなく、ある法則が働いていることを認めないわけにはいきませんでした。お金に困っていたとき、仕事がなくなってしまったとき、どうすることもできない窮地に陥ると、どこかから不思議な助っ人が、思いがけない展開が私の目の前に振ってきて、その窮地を脱することができたのです。
今の私は、村上さんのような強いゆるぎない信仰はもちえませんが、認識として、私は神に近付いている、という気持ちが正直なところでしょうか。

 さらに。私は10年前からあるきっかけがあって地域でゴスペルを歌いはじめました。英語だとまったく抵抗なく「神への賛歌」が表現できるのでうれしいです。
 この始まりも考えれば奇妙なものでした。別居した元夫(ボイストレーナー)が、ある日「自分が教えるから、ゴスペルを歌う会をはじめないか」、と言ってきたものです。彼も10代の頃クリスチャンの洗礼をいったんは受けたものの、いつしか教会からは離れた人間でした。私たちがスタートさせたそのサークルは、今では10周年を迎えるコミュニティクワイヤとして地域に根付いています。
 男と女としての結婚生活は破たんしましたが、多くの仲間とゴスペルを歌う時空間において、音楽の力を理解し、音楽を通じて人として信頼する、という新しいご縁が続いています。関係を組み替えることができて、お互いに憎みあったり非難しあったりすることなく、相手の幸せを祈って生きていけそうなのでした。

 そして、このゴスペルをはじめた年に私は新約聖書をあらためて読み直しました。上智大学のアルフォンス・デーケン神父の講座にも通って、聖書について再び学ぶ機会をもちました。その結果、やはりクリスチャンにはなりませんでしたが、自分なりの表現で神について意識するようになりました。

 それは究極的には、神(宇宙といってもいいし、すべてといってもいい)のエネルギーを信じ、おまかせする、ということでしょうか。
これなら、村上さんも、今の私を許してくださるような気がしています。


編集と文責  田中えり子
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by eridonna | 2009-11-09 21:12 | あとがきにかえて

信仰について

では、最後に、信仰についての、村上さんの言葉をいくつか追加しておきたいと思います。

「信仰について」

 あなたは宇宙、人間、あらゆる生物を創造されたもの、つまり創造主が存在すると思いますか。もし存在しないと思うなら、目に見える物象の世界はすべて偶然にできている、目的もなく、ただ生まれてきて死んでいく、を繰り返しているだけでしょうか。

 現在の天文学者の発見によれば、この地球の存在があまりに意図的で、ほんの一寸でも4つの基本の力が異なると、地球上の生物は死に絶えるとはっきり計算されています。
つまり、創造主はひとつの目的をもって計画的に宇宙をつくられた、そういう結論に達しているのです。

 私は自由に生きたい一心で狭い日本を飛び出して以来、14年、この段階でやっとすべてが神のおはからいであったことに気がつきました。つまり、なにごとも神のご許可なしではおこらないということです。
こんどは自分の自由意思を神にお返しすると同時に、これからの残りの一生は、キリストにあっての自由(free in Him)ということになります。
 若いときから型にはまった宗教に入らなかった私は、ここまで導いてくださった神の執行人である御子キリストを個人的に信じて、彼に従うことを決心したのが洗礼の意味でした。

 神を敬愛するのに、いろいろと人間がつくった宗教がありますが、聖書によると、心から神を信ずることと、宗教人になることは、意味が違うことです。
宗教家とはその宗教の定めたパターンに従うことです。神を信ずることは心の奥に、神を招じ入れること。
最初の人間アダムとイブが神にそむいて以来、万物創造主である神と人間の間の直接通信ができなくなりました。
 その子孫である我々は、地球上に一度来られ、33年余り過ごされ、すべての人類の罪を背負われて、十字架にかけられたキリストの死を信じ、受け入れたとき、初めて、神との平和が得られるのです。どんなに宗教家として向上しても、行いの正しい人でもキリストを直接受け入れないと、心の平和を得ることができません。

 特定の宗教ではなく、毎日聖書だけを頼りにざんげし、神をたたえ、そして祈りながら生活する。バイブルクリスチャンという表現がありますが、私はそれです。


「聖書について」

 理解しにくいことは本当で、ごく表面的な歴史的な意味、シンボリックな意味、そして深い精神的な意味の3通りがあります。そのなかのどこで理解するかは、各々の信仰の深さによります。若い時、私は自分の意志を通すのに忙しく、抵抗する暇もなく、宗教とは、弱い人がもつものと思っていました。力つきてはじめて自分も弱かった、と納得しました。
 聖書を全部理解するのは不可能です。海を飲むような大仕事です。過去、現在、未来の人類のすべてをひっくるめての体験と問題に対しての教え、とでもいいますか。ユダヤ人ではない我々、独身の私には当てはまらないところもあります。
 ジグソーパズルと同じで、全人類の通った生涯を一緒にまとめるとひとつの模様になるのですが、自分のまわりにある小さな模様が見える程度ではないでしょうか。

ヨハネ伝3章16句
神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。

ヨハネ伝3章3句
はっきりと言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の王国を見ることはできない。

「真実について」(Spirit of Truth)
どんなに小さいと思われることでも、分析していくと、なにか固いものにぶつかる。それを愛し、辛抱強く追及していくと、根源にある真実につきあたる。それは神の一部であり、神から発するものであり、神ご自身である。

ヨハネ伝14章6句
イエスはおっしゃった。「私は道であり、真実であり、命である。何人も私を通らなければ、父なる神のもとに行くことはできない」

ヨハネ伝14章16句~17句
私(イエス)は父なる神に頼んでもう一人のヘルパー(助けとなるもの)をあなた方に送る。永遠にあなたたちとともにいるためである。それは真実のスピリットである。世の中はこのスピリットを受けいれることができない。しかしあなたがたはこのスピリットを知っている。あなた方の内にいるからである。

ヨハネ伝15章26句
父(神)の元からあなた方にヘルパーがつかわされるとき、それはSpirit of Truth (聖霊)、神なる父から発するもの、私(イエス)について証しをするものである。

ヨハネ14章26句
私(イエス)の名において、父(神)がつかわすへルパーは、あなたがたにすべてについて教え、私が話したことをすべて思い出させてくれる。


聖書を読んで、見て、私は理解したのです。何度も聞こえたあの小さな声は、ヘルパーの
Holy Spirit (聖霊)だということを。

神を限りなくたたえます。 Praise be to God forever

by Chiyoko Murakami
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by eridonna | 2009-11-08 21:21 | あとがきにかえて