まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第1章 日本脱出( 3 )

戦争が終わって

 私がいつの日にか日本を脱出しようと決心したのは、14歳のときである。
 太平洋戦争が終わった、まさにその年だった。

 終戦を迎えたのは広島県の呉市である。
 その年の3月までは家族と共に神奈川県の横浜にいて、ミッションスクールの紅蘭女学校(現在の横浜雙葉学園)に通っていた。入学したころから戦争も激しくなり、行き帰りの電車の中でも空襲警報がなり出すようになった。その頃には、もうお菓子も店から姿を消していて、子どもたちは「欲しがりません、勝つまでは」と歌っていたものだ。
 
 私の父、村上数一は東京高等商船学校を出て「日本郵船」の船長をしていたが、戦争が始まると海軍にはいって南方のトラック島に派遣された。その父がいったん日本に戻って今度は広島の呉湾に待機していた戦艦「青葉」に乗りこむことになったという。
 そのため、1945年、3月の東京大空襲のあと、一家は横浜から呉市に疎開した。
 その後「青葉」は沈みかけ、父は重巡洋艦「利根」に副艦長として乗り移ることになった。
 まだ14歳の私にも、なんとなく感じられたのは「商船学校出の予備将校である父を500人乗りの軍艦に乗せるようでは、戦局も切羽詰まってきた」ということだった。

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▲祖父母一家と。後列左から3人目が私。

 当時の女学生たちは学校での授業など受けられず、学徒動員といって、勤労奉仕に駆り出されていた。14歳の私もその最後の世代の一人で、横浜にいたときは東芝の川崎工場で地上受信機の部品を作り、広島では、広島と呉の間にある吉浦にあった「時限爆弾工場」に毎日働きに出て、爆弾の部品を作らされていた。

 この工場は海軍第11潜水艦基地に隣接していたので、毎朝その基地の前を通るたびに、これから出動する長さ10メートルくらいの一人乗り潜水艦(人間魚雷と呼ばれていたもの)を見かける。
 私たち14、15、16歳の女生徒が50メートルほど離れた岸を通りかかると、まだ19か20歳の若い乗員が海軍旗をたたみ、我々のほうに向かって手旗信号で「話したい」「サヨナラ」と通信してくる。私たちも手をふって一生懸命、答えた。

 あの時はゆっくり考えるひまのない無我夢中の毎日だったけれど、あとで彼らの任務は「出動すれば帰れない命令」だったと知った。各潜水艦に一人ずつ、爆弾を一つずつ積んで、出ていくのである。ガソリンは半分、往きの分しか入れない。もし生き残ることができても、海の中ではもうどうしようもないのだ。
 あれが今生の別れの挨拶だったのだと思うと、今でも思い出すと涙がこぼれてしまう。あの戦争は、若い男の子たちにも、本当にひどいことをしたのである。

 7月になって戦争は最終段階に入り、昼間はアメリカ軍の戦闘機が呉湾、広島湾にいる軍艦を攻撃、夜は呉市が空襲を受けるようになった。
 父はもう何週間も家に帰ってこない。
 吉浦の工場からはるか水平線に見える「利根」は、少し横にかしいでいるのと、マストが折れているのが見えた。父のいない夜、私たち一家は防空壕で過ごすことが多くなった。

 8月6日、午前8時、私たち女生徒が海軍士官の朝の訓示を聞くために工場の庭で整列しているところへ、B29が一機やってきた。
 その機体が、筒のようなものをぶら下げたパラシュートを投下したのが見えた。それは呉と広島の間にある山の向こう側に消え、私たちが工場内に戻って作業をはじめたまさにそのとき、すさまじい閃光が炸裂した。
 みな、すぐ外に出る。と、途端にすごい爆音。
 広島の方角に大きなきのこ雲がのぼるのを見て、全員がガタガタとふるえた。
 やがて30分ほどしただろうか、海軍放送局からアメリカ軍が新型爆弾を使った、という報告が流された。
 広島市と山ひとつ隔てていたおかげで、私は命拾いしたのだった。

 
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▲両親と弟とともに。

 だが日を追うごとに呉市内も焼け出され、港は火の海となり、もうこれまでという事態にまで来てしまった。
 8月15日、日本は降伏し、父も無事でようやく家に帰ってきた。
 戦前からアメリカを知っていた父が「人には言ってはいけないよ、でもこの戦争は勝てない」と密かに言っていたとおりだったではないか。
 なぜ大人はこんな勝ち目のない戦争をしたのだろう。
 戦争が終わって心からうれしかったけれど、私の中には大きな疑問が生まれていた。

 大人が信じられない。親の世代への信用をすっかりなくしていた。
 ほかの国ではどうなのだろうか。
 いつか外国に行って、自分のこの目で見なければ気が済まないと思った。そのためにも英語の勉強をしなければ、と心に決めていた。
 私がそんな風に考えるようになったのは、父親からの影響がとても大きい。

 父は四国愛媛県今治の出身で、伊予の村上と呼ばれていたが、先祖はその昔瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍の血をひいている。
 子どものときに、父からよくその話を聞かされたものだ。父の四、五代前までの村上一族は瀬戸内海を通行する船を止めて、「通行税」を取っていたという。
 だがついに天皇の命令に従って陸に上がり、それからは紺がすりを売ったり豆腐屋になったりして今に至るのだが、もっと昔はかなり悪かったらしい。
 奪ったものを大三島の神社に貯めていて、その宝を南方へ売りに行っていたのだ。タイあたりまで行って、バーターシステムで物々交換して砂糖を手にいれたりしていたという。
 陸に上がった父も結局は海の男になった。1966年に66歳で亡くなったが、60歳まではずっと現役のキャプテンだったのだから。

c0174226_23501660.gif そして私にも、海と空の違いこそあれ、その血は流れているのだと思う。 
 1930年の10月に、父・数一と母・九子の長女として生まれた私は、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。母が子どものころ非常に厳しく育てられたので、その反動だったのかもしれない。母の実家・徳島の渡辺家では娘を3人とも船乗りに嫁がせている。

 初めて父の故郷の今治に連れられていったのは、たしか5歳の頃だった。
 今でもよく覚えているのは、本家のいとこたちと一緒に小船に乗り、浜から沖へ出たとき、いとこたちはみな海に飛びこんで平気で泳ぎ出す。私だけが船に残されて怖くなって泣き出した。見ると水中では彼らが私の臆病さを笑っている。
 私は急に悔しさがこみあげてきて、
「塩があるから浮くんだ。おぼれやしないよ」
といういとこたちの声に、ちょっとためらったものの、初めての海に飛びこんでしまう。海水をかなり飲んだようだが、いとこたちに助けられ無事に砂浜にたどり着いた。
 どうもこれは生まれつきの性格らしく、そののち20歳を過ぎても、人から笑われると悔しくて激しく反発したものだ。

 6歳のとき、弟が生まれ、母の愛情を独占できなくなった。
 その頃には木登りが大好きだった私は、叔母たちがあきれるほど、いつも2歳年下のいとこと一緒に近所で評判の乱暴者、いたずら者として有名だった。
 ところが弟のほうは、のちに母の台所仕事を自分から手伝うほどやさしい性格だったので、まわりの大人たちからは「男と女があべこべだ」と言われ、自分でも「これは神様がお間違いになられた」と思うようになり、女に生まれたことを嘆いたものである。

 あの頃、どうしてあんなにじっとしていられない性質だったのかと考えれば、どうも父が欧州航路だった頃で、オランダのチーズ、ベルギーのチョコレートといつも御土産を持って帰ってきて、チーズを食べるのが私だけだったので、栄養過剰だったのかもしれない。 
 そんな私の性格をよくわかっていたのか、父は「今にきっと必要になる」と、戦争中から私に英語を教えてくれていたのである。12歳の私に「ガリバー旅行記」や「ロビンソンクルーソー」などの原書を与え、私は英単語の拾い読みなどをしていたのを覚えている。

 思えば16歳までに、私は自分のやりたいことのリストをこしらえていたのだった。
 英語、ドイツ語、ロシア語に、タイプも習おう…。
 お金がたくさん欲しいわけではなかったが、自分の道を切り開くためには、「道具」は手に入れなければならない、そう考えていたのだ。

  c0174226_23455493.gif敗戦後、それまでの呉の海軍基地にはオーストラリアの部隊が駐留するようになり、基地のゲートには海軍の兵士の代わりにオーストラリア兵が立っていた。
 ある日、私はその門まで行って、「エクスキューズミー、どなたか英語を教えてくれる人はいませんか」と大胆にも聞いてみた。とにかく、怖い物知らずで行動してしまうのだ。

 すると、「オーストラリアの英語にはなまりがあるから、この人にしたら」と、その部隊にいたハワイの日系2世の山本さんという人が、毎週水曜日に英語を教えてくれることになった。
 求めよ、さらば与えられん、というのを地でやったのだ。

 そのオーストラリア部隊は6カ月でアメリカ軍と交替し、今度はGHQが来た。そこでまたある日のこと、私は基地に出かけて、「エクスキューズミー、デモクラシイとは何ですか」とゲートの兵隊に聞いたのである。

 すると、制服に星のいっぱいついた人のところに通され、「そんなに知りたければ、あなたの学校の生徒みんなに教えましょう」ということになって、後日、私の通っていた広島県立第一高等学校で、通訳付きで2時間の講義が行われた。
 そのとき「何か質問は?」という彼らの問いに、たどたどしい英語で質問したのは、私だけだった。知りたいことがあるとどこまでも突き進んでいくし、こんなことしたら恥ずかしいという気持ちもない。おかげで校長先生からはあれこれとずいぶんにらまれたものだ。

 そうして広島の県立高校を卒業したあと、18歳で東京の津田英語塾の理科に入学した。   
 英語をやろうと思っていたのに、なぜか、第二志望の理科にまわされてしまったのである。正直言って多少不満であった。
 だがこの「理科」を選択したことが、あとあと就職のときに役に立つことになる。

 私は初めて家族と離れて、学校の寮に入って勉強をすることになった。おなかがすいてグーグーいっているのに、積分だ微分だ、なんて勉強をしていたのだから、たまらない。なかなか身が入らなかった。
 このころになっても日本の経済はまだ立ち直らない。家族に経済的な負担をかけないために、私は学校を辞めて働こうと考えはじめた。1年後、さっさと津田塾を中退し、19歳で自立する道を選ぶ。
「お嫁に行く前に女が家を出るなんて」と、家族はもちろん猛反対であった。
 このときばかりは、日頃からしょっちゅう世の中のことや生き方を巡って意見を戦わせていた父を、泣かせてしまったのである。
 だが、私は一度決意したら、もうあと戻りはしない性質であった。

 最初は、中央郵便局に勤めていた叔父や叔母のツテを頼り、当時そこに置かれていたGHQの検閲局で仕事をもらう。
 ファイリング・クラークといって、社会の不穏な動きに敏感だったGHQが、手紙を開封してチェックする、その手紙の管理だった。
 次は、東京中央電話局の英語のオペレーター・長距離交換手(トウキョウ・ロング・デイスタンスと呼んでいた)になった。
 面白かったのは、採用のときに記憶力テストがあって、電話番号を2つ、パッと一瞬見せてそれを復唱させる。私はどういうわけか記憶力が抜群だったので、60人もの応募があったうち、採用された15人に残ることができた。

 この長距離電話交換手は、時差の関係で夜中の仕事だった。
 そこで昼間にはお茶の水にあったアテネ・フランセに通って、英語とフランス語を勉強することにした。このときがフランス語を学び始めた最初である。
 そうこうして1年もたたないうちに、ある貿易会社が、フランス語と英語の両方を喋る秘書がほしいといって声をかけてきた。
 その会社はジャガイモからアルコールを蒸留するという特許をもっていて、それを日本の酒造会社に売っていたのである。
 私は理科系の勉強もしたから特許も扱えるということで、これはいいと雇ってもらえることになった。これでやっと本当に自活できることになった。

 さらに、その会社にいた東京外語大出の先輩から
「外国語が話せても、速記などほかに特技がないとどうしようもない」
と忠告をされたために、それではと、独学で速記の勉強も始めることにする。
 埼玉県浦和のカトリック教会のマクシム・シレール神父様が、カナダからグレッグ式速記の本を取り寄せてくださった。グレッグ式速記は英仏語両方に適用できるので、便利なのだった。

 英語とフランス語に速記。
 その3つを武器に、ある日、新聞で募集広告を見た「フランス大使館秘書」に応募すると、すんなりと採用がきまった。21歳になっていた。
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by eridonna | 2009-12-30 16:10 | 第1章 日本脱出

フランス人との恋

 私は自分に語学の才能があるとは知らなかった。
 いつか外国に出ようと決めた以上、英語も仏語も母国語ではないから、ハンディキャップが大きいことは明らかだ。だからそれなりに一生懸命勉強はしたと思う。
 だが特別言葉の勉強で苦労した、という記憶はない。一度聞いたら単語を覚えてしまうというくらい、たしかに耳がよかったかもしれないのだが…。
 でも私は留学を希望する今の若い人々のように、外国語を学ぶために外国に出たわけではなかった。なぜなら日本にいるときから、すでに話せるようになっていたのである。

 どうしてそんなことができたのかとよく聞かれたが、外国語を話すということは、知識だけでなく「度胸」も大きく関係しているのではないかと思う。
 例えばフランス大使館に勤めているとき、こんなことがあった。

 あるときフランス大使の通訳で、帝国ホテルのロータリークラブの国際シンポジウムに出席することになった。日本とフランスの友好的な経済関係について述べる大使のフランス語を、日本語に訳すのである。
 ところがでは始めようという段になって、大使は「忙しくて、スピーチを紙に書いておく暇がなかった」とおっしゃる。
「それでは、少しずつ区切ってお話くださいね。お願いします」 
 すると大使は、
「わかった、わかった。できるだけそうするよ」
 しかし、約束してくださったにもかかわらず、たくさんの聴衆を前に熱弁をふるっているうち、通訳のことをすっかり忘れてしまわれた。
 私は大使のほうを見てなんとか合図をしようとするのだが、大使はちっとも私のほうを御覧にはならない。気がつくと20分以上のスピーチはすべて終わってしまっていた。
 そこでようやく私のことを思い出した大使は、あ、そうだった、ととてもすまなそうな顔をなさったのだが、時すでに遅し…。

 だがそんなことを、ゲストのみなさんに悟られては絶対にいけない。
 私は涼しい顔で覚えている限りの要点をつなげて、どうにかこうにか通訳を終えた。
 会場からはわれるばかりの拍手! にこやかに壇上を降りられる大使。私も笑顔で役目を終えてホッとした。
 とはいえ、このときは、さすがの私もだいぶ冷や汗をかいたのだった。
 やれやれと、会場の隅でパーティーのお料理を夢中で頬張っていると、そこへ若いアメリカ人の記者がやってきた。
「やあ、素晴らしい通訳でしたね。メモもなくて、どうやってあんなに長いスピーチを訳すことができるのですか? 何かコツでもあるのですか」と聞くのである。

 そうなのだ。私は手元にメモさえ持っていなかったのである! 
 仕方ないので、白状した。
「Well,I did my own speech.」(「はい、だって自分のスピーチをしたんですもの」)
 彼の笑ったこと、笑ったこと! まわりの人が一体どうしたんだろうと見るほどの大爆笑であった。
 私は肩をすくめて、にっこりした。

 c0174226_16554791.gif▼フランス大使館の女友達と。

 もうひとつ、語学力の進歩に関連して、触れておかなければならないことがある。

 アテネ・フランセでフランス語を習っていた頃、新聞に「仏語個人教授」という広告を見つけたので、こちらから連絡してみた。
 それがそもそものきっかけで、11歳年上のジャックというそのパリ育ちのフランス人に出会った私は、生まれて初めて恋に落ちてしまったのである。

 ジャックは新聞記者で、柔道を習うためもあって日本に来ていた。私といえばそのときはまだ20歳になるかならないかの若さだった。

 とにかく私は、彼に夢中だった。寝ても覚めても彼のことばかり、彼に追いつきたい、何とかして彼についていきたい、と一生懸命なのだった。
 それまで男を差し置いて「木登り大好き」というおてんば娘だったのが、急に色気付いておしとやかになってしまった。親戚の者があきれるほどの変わりようだったという。

 彼と対等に話したくて仕方がない。
 彼をなんとか理解したいと努力するので、確かにフランス語はここで格段の進歩をしたのである。
 初めの頃は英語を混ぜて会話していたが、そのうちフランス語だけで会話ができるようになり、休日には水道橋の「講堂館」に行って三船十段(?)やその他の先生方とのインタビューの通訳をしたものだ。彼自身も黒帯の三段だった。
 九州まで一緒に自動車旅行をしたり、彼のフランスのパイロットライセンス(そうなのだ、彼がパイロットだったのである)をもとにして、日本での事業用ライセンスを取るため、日本語の航空法規を訳してあげたり、「東京しののめ飛行場」(今はない)での遊覧飛行を手伝ったりした。     
 だが世の中のことをまだ何も知らないに等しい私には、この恋は荷が重すぎた。

 彼は生粋のパリっ子で、おまけに気むずかし屋ときていた。彼にとって、私という娘はいわば「帯に短し、たすきに長し」という相手だったのかもしれない。
 しょっちゅう文句を言われるのである。たとえば戦後数年しかたってない日本では、当然ながら服装も野暮ったかった。
 ある日、三越だったか、デパートを歩いているとき、私にぴったりのドレスを着たマネキンが立っているのを見て、彼がそのドレスを買ってくれたことがあった。そこでそれからは、ホテルのアーケードで洋装店をやっていたいとこに、いろいろとドレスを注文するようにした。
 なんとか彼にふさわしい「文明人」になろうと、私は必死で努力したのである。

 ところが彼は一方で、数多い女友達に囲まれた「パリ式の生き方」をする人なのだった。初恋で片思いの私には、それがどうしても理解できなくて、見て見ぬ振りをするしかなかった。

 あるときには、銀座4丁目にあった「高島屋PX」(連合軍とその家族しか入れないデパート)に連れていってくれたのは良いが、そこでフランス語を教えている他の女生徒に出会い、その人と一緒にそのまま出ていってしまったことさえあった。
 一人残された私は、外国人の同伴なしには出られない。閉店まで待っていたら、通り掛かったアメリカ軍の人が、気の毒に思ってくれて私を同伴してPXの外に出してくれた。

 1960年、ジャックは英仏日の3カ国語の会話の本を自費出版した。
 日本は居心地が良くなったらしく、ひと月ほどフランスへ帰ってパリの空気を吸ってまた戻ってくると、こんどはフランス政府の仕事についた。
 この頃には父がまだ外国航路の船に乗っていたので、私が父に頼んで、船長の特権で彼の車をフランスのル・アーブルから横浜に運んでもらったこともある。
 私がフランス中小企業団について大阪に出張しているときなど、彼は一人でも私の両親の家にやってくる、という気安い間柄にもなっていた。

 ところがそれなのに、依然として、彼の生き方は変わらないのである。
 ことに、フランス経済顧問の下で働き出した彼と、同じ局で通訳する私が毎日顔を合わせるようになると、また新しい女性との交際が目につき、私はこれ以上の屈辱に耐えられなくなった。

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私はこんなにも彼を愛しているのに、あまりに態度がおかしいから、ある日ジャックに質問したことがある。
「あなた、私を愛しているんでしょうけれども、程度問題ってことなの?」
 笑いながら答えた彼の言葉は、
「愛していないとは言わないけれども、完全に愛しているとも言えないんだ」

 結婚するほど愛してないということは、それほど愛していないと言う意味だと私は理解するしかなかった。自分を犠牲にしてまで、自分のものにはしたくないのだ。
「それなら私を嫌いだと言ってくれたら、私は喜んで出ていくのに」と言うと、
「それは困る。君を嫌いなわけじゃないんだ。出ていっては困るよ」 これでまたいつもと同じ堂々巡りになる。

 彼なしでは生きられず、彼がいても生きられない。
 彼と付き合っていた12年間、私は楽しいどころか、苦しくて苦しくて、生きた心地がしなかった。彼は結婚してくれるわけではないから、私ばかりがどうにもならない恋に身を焦がして、出口がなかった。両親もそれとなく忠告してくれていたが、私の意思を尊重し、ただ見守っているだけしかできなかった、という。

 私は何に対しても全勢力を集中する質なので、その無我夢中の自分をコントロールすることができなかった。曖昧にしたまま、適当に過ごせれば楽だったのかもしれない。
 でも、私にとって一番大事なものは、私にとっての「真実」だった。
その頃はまだ若くてわからなかったが、じつはその「真実」ほどハードなものはない。だが、どんなにつらくても、私は自分にとっての「真実」が欲しかったのだ。
 
 ある夜、長いこと、泣きながら一人で車を運転していた。
 パジャマの上にレインコートを羽織った格好だった。彼との関係に心底絶望していた。
 どこをどう走ったか、覚えていない。暗い場所に車を止めて、ただぼんやり泣きじゃくっていたらしい。あたりは真っ暗で、星だけがよく光って見える夜だった。

 突然、懐中電灯をもった人物が近寄ってきて、コンコンと窓をたたく。
「もしもし、こんなに夜遅く、どこへ行くんですか」 見れば、お巡りさんである。
「ただ、ドライブしているだけです」
「でもあなた、すぐそこはもう多摩川ですよ」
 えっ、と外を見て、私は急にわれに返った。
 そのままあとわずか数メートル進んでいたら、私は車ごと、真っ暗な冷たい川に真っ逆様に落ちていくところだったのだ。
 気がつくと、こんな天気のいい日なのに、私はワイパーも動かしていたのである。

 私はギアをいれ、エンジンをスタートさせると車をバックさせた。すんでのところで声をかけて現実に引き戻してくれたお巡りさんに、心の底で感謝しながら。

 東京方面に車を向けて走り出しながら、急に長い間の憑き物が落ちたように、今の自分の姿がよく見えた。私ったらいったい、今まで何をやっていたのだろうか。あの、私らしく、目標に向かっていつも真っ直ぐ進んでいた自分は、どこにいってしまったのか。
 その瞬間、彼のことはもうどうでもよかった。生きよう。
 こんなところで死んだりしたら、育ててくれた父と母に申しわけない。
 
 そんな出来事のあったあと、はじめてジャックに会ったとき、不思議と何の感情も湧いてこなかった。口に出てきたのは、
「今まで私があなたを慕ってついてきましたが、もうここでやめます」
「では、もう僕を愛していないの?」
「そうです。私にとってこの恋はもう終わりました」
「では、僕を憎んでいるの?」
「いいえ、もう私には関係ありません」
 私がこう言った途端、気の毒な彼は、何かなくしものをしたときのように怒り、その場でびっくりするほどいきり立った。私といえば、ただ黙って、そんな彼をながめていたのである。

 今考えると、あの苦しい恋は、神様が私に与えられた試練だったということがよくわかる。
 強情で自信満々の私の目を覚ますには、あれしか方法がなかったのだろう。でもその渦中にいるとき、そんな風に自分から気が付くのはむずかしい。
 私はそれから10年、「失恋」というコンプレックスに悩むことになる。
 
 そんな失恋の苦さを味わいながらも、彼と付き合っていたおかげで、私の語学力のほうは着実に進歩していった。
 フランス大使館に勤めながら、国際会議などの同時通訳のアルバイトも始めた。
 当時外務省に雇われる同時通訳者で、日本語と英語をすぐフランス語に訳せる人間は、たった3人しかいないと言われた。
 あとの二人はフランスで育った人で、日本から一歩も出たことないのは、私だけだった。
 もちろんそれはちょっぴり誇らしくもあったが、私の本当の目的は外国に出ることなのだから、とても自慢するどころではなかった。

 ただその外務省の通訳はお金になった。
 当時、1時間50米ドルという破格のギャラだったと記憶している。
 しかも昼間はフランス大使館で働き、夜は夜で、英語とフランス語、それに速記も教えていた。午後5時に港区の大使館を出ると、街で簡単な夕食を済ませてから、渋谷にあった学校に飛び込む。
 毎日毎日、ものすごく忙しかった。家に帰ると真夜中の12時だ。でも若かったから、私は平気だった。20代の後半、若いときには、そんな風に働くのもいいと思う。
 そして、こうして、私はフランス行きの旅費を準備することができたのだ。
 
 ジャックとの恋は、私の人生にもう一つ、思いがけない運命の扉を用意していた。言うまでもなく、彼こそが飛行機乗りだったからである。

 彼との長い苦しい恋が終わっても、「私もいつか、パイロットになりたい、なってやる」という決心だけは、私のなかに強く残った。

 当時、神奈川県の藤沢に小さな飛行場があって、元海軍の兵士が教えてくれるというので、頼みにいったことがある。
 海上航空の小川操縦士という方から30分間、生まれて初めて空を飛ぶ手ほどきを受けた。機種は小さなパイパートライぺーサーという小型機。それが1961年のことだった。
 そしてそれが病みつきになった。
 
 だが1時間教えてもらうのに費用は1万円。1回飛ぶのに3カ月分のお給料が飛んでしまうのだ。外国なら、もっと安く、訓練することができると聞いていた。
 それになにしろ母が心配症で、いくら私がおてんばでも「飛行機に乗る」などという危険なことを受け入れるには耐えられないらしかった。母をいたわる父からも「どうか危ないことは遠くでしておくれ」と懇願される。

 いよいよこれは、出発のときが来たらしい。
 ちょうど、日本に来ていたフランスの貿易会社の社長から3カ月の雇用契約を取り付け、フランス大使館も辞職して、私はパリをめざすことになった。
1964年8月、私は33歳になっていた。
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by eridonna | 2009-12-29 16:44 | 第1章 日本脱出

パリの1人暮らし

 1964年は、ようやく日本人のパスポートの発行が一般に解禁になった年だ。今の若い人には信じられない話だろうが、当時は海外へ出たいと思っても、ただの旅行ではなかなか政府の許可さえおりなかった時代だった。
 1USドルは円に替えると360円。貴重な外貨を持ち出すなんてとんでもない、と言われ、あなたの海外渡航が日本にどんな利益をもたらすのかとまず聞かれた。海外に誰か保証人がいるか、結婚か、相当の理由がないとむずかしかった。
 私の場合はとりあえず、当面の雇用約束を得ていたので、それならまあいいだろうと、パスポートを発行してもらえたのだ。ただし、持ち出すことのできる外貨はたった500ドル、それが全財産だった。

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 フランスに向かうためには、横浜から船に乗った。英国船のアルケディア号で横浜を出港し、太平洋を東へと渡ってサンフランシスコに着く。それからグレイハウンド・バスに乗って広いアメリカ大陸を横断した。貴重な500ドルをなるべく使わないように、食事はスープとクラッカーだけで我慢した。おかげでニューヨークに着いたときはとても細くなって、きれいになっていた。はいていた高いハイヒールが似合ってよかったと思った。
 ニューヨークからいよいよエア・フランスの飛行機でパリに到着。横浜を出てから、1カ月半かかったことになる。
 ドゴール空港では、約束した会社から女性秘書が私を迎えに来ているはずなのだが、声をかけてくる人は誰もいない。仕方ないので一人でタクシーに乗り、オペラ街のその会社に自分から出向いた。
 社長室に通されると、さっきゲートのところで見かけた女性が入ってきて私を見るなり、「あなたは日本人だったんですか」と言って笑い出した。
「そうですよ、どうして?」「だって日本人は小さいのが普通でしょう。ですからまさかあなたが日本人とは思わなかったのよ」

 ところがその貿易会社では、はじめの約束通り3カ月で雇用契約は終わりになった。表面上は確かにそれで構わないのだが、本当は社長の思い通りに動かない私に対する処分でもあった。
 最初に日本で契約したときから、どうやら相手にはいわゆる「下心」があったらしい。当時のフランスでは結婚していても、双方で「愛人」という言葉が当たり前のようにささやかれていたのだ。そんなことなど思いもよらない私にしてみれば、外国に来てまで誰かの囲われ者だの、パトロンを持つ身になどなりたくないので、さっさとその会社をあきらめ、どこか仕事を探すことにした。

 当時、外国人は入国するとすぐ中央警察庁に出頭し、面接試験を受けなければならない。そのときに労働証明書を発行してもらうのだが、私の書類には、セーヌ県、セーヌ・エ・マルヌ県、そしてセーヌ・エ・オワーズ県の3県で秘書として活動してよい、と記入してあった。アルバイト程度の仕事はすぐに見つかった。エコール・ベルリッツという有名な語学校で、日本語の文献を翻訳したり、通訳を頼まれたりした。だが、飛行機の訓練ができるほどの余裕なんてまだまだ先の話、という状況であった。

 この頃の私は、パリに来るときは永住するつもりできたのに、あまりにも自分が日本人過ぎてこれではフランス人にはとてもなれない、と思い詰めていた。ノイローゼのように泣いてばかりいるので医者に行くと、これはホームシックだと言われた。薬をもらったが、飲んでみたら眩暈がするほど強いので全部捨ててしまった。

 そんなある日、シャンゼリゼ街を歩いていると、なんと東京時代の友人、モニク・ランドリにばったり出会った。かつてフランス大使館で一緒に働いていたことがあるモニク。 
 二人とも狂喜して、不思議な偶然に驚き、話に花を咲かせる。
「今、何をしているの? 仕事は?」と彼女が聞く。
「アルバイトはあるんだけれど、今探しているところ」
と悩みを打ち明けると、モニクは、
「あなたは正直すぎてパリには向かないわ」と言うのだった。
 ともかくそれから数日後にモニクから電話があり、ユダヤ人家族が経営するエレクトロニクス会社(電子部品製造)の仕事を見つけてくれた。

 ここでちょっと奇妙な体験をした。
 あるときこの会社が展示会に外国の部品を出品した。私は日立製作所の部品の係になり、3日間会場で立っていた。
 すると毎日、ある中年の男性が私の前に立ち、何か理解のできない言葉では話しかけてくるのである。私は首を振って、「フランス語、英語、または日本語でお願いします」と言った。
 
 展示会もおしまいになり、そのこともとうに忘れかけた頃、この男性が会社の出口で待っていて、すぐ近くに住んでいる私のホテルまで付いてくるのである。
 私はほとほと閉口した。2回、3回、とやってきて、3回目にはとうとう彼は、自分の家に一緒に行って叔母さんに会ってくれと言う。
 あまりしつこいので私も折れて、彼についていくことにした。地下鉄に乗り、20区の終点ポルト・ド・バンブで下車、私の住む8区から20分ほどかかった。彼のアパートに着いて驚いた。

 ドアを開けて中に入ると、壁には帝政ロシア時代の高官の服を着た写真と、コザック兵の持つ刀がかかっている。彼はすぐ私の目の前に大きな写真帳を持ってきて、家族ひとりひとりを指で差しながら「覚えていない?」と聞く。

 彼はどうも1917年の10月革命で倒された最後のロマノフ皇帝の親戚らしい。一家はちりじりバラバラになって逃げたために、そのとき赤ん坊だった娘がどこにも見つからない。いまだに行方を探しているのだと言うのである。
 そう言えばロマノフ家(ツアーの血族)は、コザックが混じっているので黒髪が多い。骨格が蒙古人なので、私をその娘だと思い込んだらしい。
 村上家は祖父の話では、30代以上前に蒙古(ジンギスカン一族)の残党と混血したという。骨格やからだの大きいことで間違えられたのだ。そこで私は両親とも日本人であること、父親は日本郵船の船長であることも話した。

 すると、突然彼は立上がり、隣の部屋から何かを持ってきた。
「もしあなたが本当に日本人なら、これは一体なんだ?」と聞く。
 それは、船内で乗客に食事を知らせるベル(鈴)で、
「NYK(日本郵船の会社イニシアル)ASAMA MARU October 1929」と記してあった。
 私はびっくりした。
 父と母が結婚したのがちょうど1929年の10月。その頃父は一等運転士として浅間丸の船内装飾の仕事があって、新婚旅行に行けなかったと聞いていた。そして私が生まれたのは1930年の10月、話が合う。これもおかしな偶然だった。

 私の話を聞くうちに彼もようやく納得し、私がロシア人でないことを認め、帰るときにそのベルを私にくれた。2年後に日本に帰ったときに父にこの話をしてベルを見せると、父も驚いていた。戦争前まで客船だった浅間丸の乗客の一人が、記念にと持ち帰ったもので、どこかの蚤の市で手に入れたものらしい。
 その後、この中年のロシア人が私の目の前に現れることは2度となかった。

▼ドゴール空港にて
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 35年前のパリは、地球上の人間のサンプルを1カ所に集めたような都会だった。
亡命人が多いこと、芸術家の多いこと。ことにパリ人は他人のことには絶対といってよいくらい干渉しないし、ゴシップに夢中になるのは文明人のすることではないと思っていたらしく、外国人としては住みやすいところだった。
 私は着いた日から小さなホテル「ホテル・ド・ユーロップ」の屋根裏に一部屋借りて、そのほうが安上がりなので、毎月家賃は前払いすることにしていた。右や左隣にどんな人が住んでいるのか、全く知らなかった。

 ある日、同じホテルに住むどこかアフリカの首相らしい人(彼は亡命中だった)が私に書類をタイプしてくれと頼みに来た。紙やタイプライターなど必要なものを全部運んできたのを見ると、それはフランス語の文書だった。恐らくホテルのマネージャーから聞いたのだろう。私の国籍がヨーロッパのどこの国とも関係がなかったからかもしれない。
 仕事が終わると、内容については一切口外しない、と約束をさせられ、お礼にとレストランへ食事に誘ってくれた。
 注文したお料理が運ばれてきても、彼とその側近の人は豚肉が入っているといって、一口も食べなかった。気の毒なことをした。
 私は彼らが回教徒だとは知らなかったのだ。
 
 それからしばらくして、今度は英国空軍のアエロバティック隊(空中曲芸)の連中が、この同じホテルに2、3日滞在したことがある。1965年パリ・エア・ショウに出演のためだった。
 ホテルのマネージャーは英語ができない。パイロットたちはフランス語ができない。お互いに困っているところに私が通りかかり、通訳してあげることになった。
 その晩、どこで外食したらよいかわからない5、6人の隊員を全部引き連れ、シャンゼリゼ街へ出かける。英国空軍の制服を着た隊員を連れた私を、通りがかりの人がいかにも不思議そうに振り返って見るので閉口した。

 3日目の朝、彼らはブルージェ飛行場へ移ったが、3日間のエアショウの開催中、その中の一人、コリン・パークというパイロットがブルージェからジープでやってきたので、パリ見物の案内をした。彼は左側に駐車して、ジャンダルム(警官)に注意されていた。英国はフランスと反対の左側通行なのである。
 彼は何のこだわりもなく話ができる人で、ほんの通りすがりの人なのに、私の心を見透かしてモニクと同じようなことを言った。
「パリはあなたには合わないところですよ」

 実は自分でもとっくに気が付いていたのだ。そろそろ行動しなければならないと思った。 ともあれ「芸は身をたすく」という諺があるが、いつもこんな風に人と出会い、忙しくしていた。パリの一人暮らしでも、それほど寂しいと思うヒマはなかった。
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by eridonna | 2009-12-27 21:48 | 第1章 日本脱出