まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第2章 初単独への道( 3 )

いよいよ飛行訓練

 ポール・ティサンディエ飛行機学校に向かうため、サン・ラザール駅のいつものプラットホームから急いで電車にとび乗った。と、その電車は全く方向違いに走り出したので、私はあわてた。隣りの乗客に聞くと、出発する電車の行き先とプラットホームは毎回変わる、サインボードをよく見なさい、と言われてしまった。今までは偶然同じだったというだけで、自分の早合点だったらしい。恥ずかしかった。
 それなら車でも買ったほうが遅れずにすむのではないかしら、と思いつく。
 その頃勤めていた電子部品会社の社長の運転手の世話で、1960年の型のルノーを買い求めることができた。確か600フランだったと思う。当時の月給が1200フランだったから、ひと月の収入の半分、というわけだ。

 2日前に免許証もとれたという日、意気揚々として、得意顔で午後2時のパリ市内の真ん中を試運転することにした。
 ところがコンコルド広場に出たものの、広場をぐるぐるまわりながら、なかなか出たい道路に出られない。外側の車道に入りたくて合図しても、誰も私を入れてくれようとしないのだ。私は日本にいたときも車を運転していたから、運転技術にはある程度自信があったのだが、パリのドライバーは日本のドライバーとだいぶ勝手が違うらしい。

 仕方なくコンコルド広場を3回もぐるぐるまわってしまった。と、どこからともなく警察のトラックがフランス特有のあの音(プーカープーカー)を鳴らしながらやってきて、私の車の前で止まる。ポリスが二人出てきて、
「免許証は?」
「はい、これです」と見せると、
「ああ、とりたてのほやほやだね。車検証は?」
「はい、これ」
「あれ、これも今日発行だ」と言うので、
「たった今、車を買ったところなんです」と、弁解する。もう一人のポリスが
「ライトをつけなさい」と言う。私はすっかりあがってしまって、
「どこにスイッチがあるか、わからないので、見つけてください。でも今は昼間なのに」と言うと、一人が座席に手をいれて、
「マドモアゼル、これです。車の練習をするのはいいけれど、パリのど真ん中で午後の3時に運転するには、よほど腕が立たないと行きたいところに行けませんよ。まあ、朝早く、午前3時頃ならだれも通らないから、その時刻に練習なさい」
 と言うと、さっさと去っていった。

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 やれやれ、そこでなんとかパリ1区から当時住んでいた8区に出て、ホテルの近くのロケピーヌ街で駐車場を探すが、見つからない。さんざん考えたあげく、ナポレオンのお墓のあるアンバリッド広場に行ってみた。

 おやまあ、同じことを考える人のなんて多いこと! どこもいっぱいだったが、やっと2、3日置いても大丈夫そうな場所へ停めることができて、手帳に場所を書きとめる。
 そこから地下鉄で2駅乗ると、私の住んでいるロケピーヌ街だ。パリの真ん中で車を持つことは大変なんだと、あらためてわかった。

 週末には朝早くアンバリッドに出て、車を探す。あった、あった。私の車。

 ところがよく点検すると、ホイルキャップがひとつ足りない。そこへポリスが歩いてきて、「マドモアゼル、何かトラブルでも?」と顔を突っ込んできた。
 あ、またジャンダルム(ポリス)だ、ともかくパリ市内にはやたらと多いのだ。すかさず、
「だれかにホイルキャップ一個、盗まれました」と訴えると、
「そのくらいですめば軽いほうですよ。なにしろここはアンバリッド(傷病兵という意味もある)と呼ばれるところだからね」
 と、冗談を言いながら行ってしまった。

 パリ郊外に車を走らせ、エコール・サンシールに8時頃着くと、もう2、3人の生徒たちが先に着いていて、父親役のビドゥーユの命令のもとに、格納庫から飛行機を出していた。
 この学校では、1940年代にキャンバス地を張って作られたパイパーJ3という古い小型機を使っていた。

 3機とも狭い格納庫にしまっておくのだが、とても奇抜でおかしなことに、機体のしっぽにチェイン(鎖)をつけて、天井からつり下げる形で格納していた。つまり、3機とも逆立ちした格好でしまっておくのだ。そうすればたしかに狭い格納庫におさまるのだが、出し入れの時には、相当の注意が必要だった。 
 こんな例はいまだに、日本でもカナダでも私はほかに見たことがない。パリのこの学校だけである。

 ともかく、飛行機を格納庫から無事に引き出すと、ビドゥーユは一日のフライトスケジュールをみんなに話す。私はその日は午後2時までフライトなし。
 すると、ギュットマンという69歳の男性が「二人して南部のほうへ飛びましょう」と言ってくれた。彼は第1次大戦で活躍したパイロットで、年齢のせいもあるが、かなり長い飛行時間の保持者でもあって、耳がだいぶ遠くなっておられた。ご自分では「私はエンジンの音さえすればなんでも聞こえるんですよ」と妙なことをおっしゃる。

 さて、そこでムッシュウ・ギュットマンと私は二人で出発した。そのフライトから戻ってきたのは12時をとっくに過ぎていた頃…。
 私たちは昼食の時間に遅れたお詫びを言いながら、みんなが待ってくれていた食卓につく。ビドゥーユは一人も欠けている者はいないねと確認して、
「では、ボンヌ・アペティ(いただきましょう)」
 突然、あたりに音が響いた。ナイフとフォークがお皿の上でカチャカチャと小刻みに鳴っている。誰だろう? 確かめるひまもない間に、ビドゥーユが、
「わかった、わかった、マドモアゼル・カミカゼ。いったい何が起こったのかね?」
と聞くのである。
 そこでやっと我に返った私は、なんと音を立てていたのは自分だったのか、とはじめて気付いた。仕方なく、ことの次第を報告することになった。

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 その朝、ムッシュウ・ギュットマンと私は、ミニカブという、フランスで流行っていた「2座席、低翼、単発(エンジンがひとつ)、60馬力のホームビルド」の機種を点検し、乗り込んだのだ。
 この飛行場はあたりが広い草原で、2機が同時に離着陸できる広さがあった。管制官(コントローラー)は滑走路の脇で、黒と白のチェックの旗をふって、離陸の許可を与える。(自動車レースと同じ)
 ムッシュウ・ギュットマンは、離陸後、東へ出て右旋回、南に向かった。

 空から見るとあちこちに昔の城があり、寺院がありと、ヨーロッパらしい美しい景色が広がっている。 
 彼はこの飛行機がいかに操縦しやすいか、見せてあげようと言って、機首を上げ、エンジンを切った。たちまち機は失速する。首を下げて、水平飛行に戻る。また機首を上げ、失速、機首を下げて水平飛行、とこれを繰り返しておもしろがっていた。

 それが20分も続いただろうか。そのうち「この辺にエア・フランスの代替飛行場(旅客機緊急着陸用)があったはずだが」と探しはじめて、「あった、あった、こんな長い滑走路をだれも使わないとは勿体ないじゃないか」と言いながら、高度を下げていく。
 ラジオのないホームビルドの機種なので、一度滑走路の上を30メートルくらいの高さで飛んでからファイナルコース(進入路)に入ると、管制塔から緑色のライトが光って着陸許可がでる。 タッチダウンして滑走路の上を半分ほど転がしてから、彼は再びエンジン全開、数秒で離陸してしまった。

 その時だ。突然、私は頭がやけに冷えるので上を見た。
びっくりしたことに、前方のキャノピイ(天蓋)が開いているではないか。このまま飛んだら、数秒後にはキャノピイ全体が吹き飛んでしまうだろう、と咄嗟に頭で考えた。そうしたらたちまち失速し、墜落する……。
 私は反射的に両手をキャノピイの下の端にかけ、自分の全体重でぶら下がってそれ以上キャノピイが開かないように必死で押さえる。次に左腕でムッシュウ・ギュットマンの右手を押した。気が付かない。もう一度。2度目にやっと彼は目をあげ、ことの成り行きを即座に理解した。すぐに左旋回し、緊急着陸。停止。
 滑走路の真ん中でストップしたまま、外れた錠をかけ直し、何ごともなかったように再び離陸すると、飛行学校まで戻ったというわけだった。

 飛行機からおりても、私はひとことも言葉を発しなかった。頭の中で、何も考えられなかったのかもしれない。
 食卓に落ちついてはじめて、からだ全体にふるえがきた。それで手にしたフォークやナイフが自分でも気がつかないうちに、小刻みに音を立てていたのだった。体の深いところに刻まれた恐怖は、表面に出るまでは時間がかかるというが、本当だった。

 私はとても怖かったのだ。
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by eridonna | 2009-12-26 22:07 | 第2章 初単独への道

ジュリエット…

 この学校の生徒は、ほとんどが仕事をもっている人々だった。
 そこで、毎週木曜日だったと思うが、夕方の8時から9時半まで、フランス空軍本部で行われる「地上学校(つまり学科)」にみんなで通っていた。ほかの飛行機学校からやってくる生徒も加わっていつも30人から40人が集まり、空軍の将校から「航空力学」「航空機について」「航法(ナビゲーション)」それに「気象学」の4課目の講義を受けていた。空軍が民間人の教育を受け持つのはフランスだけだろうと思う。
 私にとって、この地上学校はとても和やかで楽しいひとときだった。

 こうして私もだんだん、単独飛行へと近付いていった。ある秋の日、飛行場に着くと、主任教官ビドゥーユが、「すまないけれど、今日はあなたがいつも乗っている飛行機には乗れないんだ」と言う。
 機種はどれも同じパイパーでも、飛行機にはそれぞれ癖があるものだ。そこで初単独飛行が近付くと、もっぱら同じ機種だけを使って訓練する習慣があった。
 よくよく事情を聞いてみると、さっき、若いM君が初単独飛行に挑戦していよいよ着陸、というとき、最後の機首の引き起こしのタイミングが遅すぎて、機体が大きくバウンスして跳ね上がり、10メートルも上ってしまったと言う。
 放心した彼は、そのまま機を地上に落として大破させてしまったのだ。幸いケガはなかったようだが、M君の自信は相当に傷ついてしまっただろうと察せられた。
 その日の私はいつもと違うパイパーに乗換え、教官と一緒に乗る「同乗飛行」で訓練を重ねた。

 私が訓練を終えてクラブハウスに戻ってくると、そこにはしおれているM君がいた。あまりにも落ち込んでいるので、一緒にパリに帰ることにする。
 M君が「ちょっと僕の家に寄っていかないか」と言うので、シャンゼリゼの近くに車をパークして、彼のあとに続いた。
 彼の家というのは、驚いたことにその華やかなシャンゼリゼ街に面していて、昔はさぞ立派だっただろうと思われる城の、ごく一部が残ったらしいお屋敷跡だった。石の壁の真ん中にある扉から広間に入ると、そこには美しく威厳のある女性たちの肖像画がずらっと並んでいる。
 思わず息をのんで「この女性たちはどなたですか?」と尋ねた。

「これが僕の母、これが祖母、そしてあれが曾祖母……」と、彼の説明は十代もさかのぼる。それにしても全部女性というのは、どういうわけなのか。
「お父様の絵はないのですか」と聞くと、M君は言いにくそうに、
「僕の家は貴族で、僕が生まれるまで、十代の間、男の子がまったく生まれなかったのです」と答える。
 そうなのだ。フランスでは結婚すると女性の側の家名が消えてしまうのだ。そこで名家では、家名存続のために、結婚しないで子どもだけを得るという方法がとられる。M君の話にもその名家のせつない努力がうかがわれた。

 彼はフランソワ一世の時代からあるという古い楽器をもってきて、奏でてくれた。それは今でいうギターなどの弦楽器の初期の形といえるような楽器で、なんとも寂しい音色がした。今日、初単独飛行に失敗した彼の心境そのものをあらわしているようなもの悲しい響きに、私の胸はM君への同情で一杯になる。

 その年も、雨がよく降る季節に入ってしまった。こうなると、もう空を飛ぶことができない。
 地上学校へ行くたびに、飛行場が閉まっていると聞かされ、仕方なく家にこもる週末が増えてきた。
 ある晩、だいぶ前に、エコール・ベルリッツの通訳の仕事をしたときにお目にかかったフランス公認会計士会の会長から、電話がかかってきた。
「ぜひ、晩の食事を一緒にしたい」と言う。

 このところ数カ月間、週末はホテルの自室にいないので、ずっと私がつかまらなかったらしい。ほかにも何度も電話してきた友達がいるのかもしれないと思って、申しわけなかったと思う。でも、この会長は70歳くらいの白髪の紳士で、いったい何の目的の食事なのだろうと、内心不思議に思って出かけていった。

 約束の場所へ行くと、先に来て待っておられた会長はニコニコ笑いながら
「またいったいどんなわけがあるのだろうと、驚かれたでしょう」と言う。そして
「実は私が若い頃に、ある人ととても馴染みでよくデートしたんです。その人にあなたはそっくりなんですよ」と言うのだ。
 さらに彼は続けて、
「パリに来て、誰かに似ていると言われませんでしたか」
 そこで私は急にあることを思い出した。
「あっ、そう言えば、地下鉄の改札口で並んでいたら、後ろから『ジュリエット!』と呼ぶ人がいました。女は私一人だったので振り返ると『パルドン(すみません)』と言って、その人は黙ってしまったんです。あるときは町の中で『ジュリエット、今夜は何を歌うのですか』と聞いてくる人もいました」
 彼はすかさず、
「ほら、ごらんなさい。あなたはジュリエット・グレコというシャンソン歌手によく似ているんですよ。特に後ろ姿はそっくりなんです」

 グレコ女史は日本にも来たことがある歌手で、ジプシーとの混血で、長い黒髪、低音の独特の声の持ち主だった。
 会長はボルガと言う大きなロシア料理の店に案内してくれて、大変ご馳走してくださった。バイオリン弾きが私たちのテーブルにやってきて、何かリクエスト曲があるかと聞く。会長が「どうぞ何でも」とおっしゃるので、私はつい自分がグレコ女史になったつもりで、
「それではツィゴイネルワイゼンはできますか?」と聞くと
「やってみましょう」と言って弾いてくれた。
 会長さんがあとで50フランもお礼を差し出したので、私はずいぶんむずかしい曲を注文してしまったんだと思って、すこし後悔したのだった。     


 その年のクリスマスの休暇は、勤めている会社の電話交換手、ニコルと一緒に過ごした。ダンスパーティに行って、朝の4時までダンス、ダンス、ダンス。足が痛くてもうこれまで、というところで、熱いオニオンスープをいただいてホテルに帰った。

 そのニコルが「チヨコはボーイフレンドがいない」と会社の職員にもらすので、まわりの男性たちが3人やってきて、
「いったいチヨコはどういう人を探しているの?」と私に聞く。

 私はタイプをしている手をちょっと止めて、男性たちを見上げながら、
「みなさんはもうちゃんと結婚していらっしゃるでしょう」と言うと、
「そんなことは問題ではありません」
 一人が言えば、みんなしてそうだそうだ、とうなずく。

「チヨコは金持ちの男性がいいんでしょう?」
「いいえ、いいえ、お金で買われるなんて、情けないことです」
「わかった、頭のよい学歴の高い人がいいんだ」
「いいえ、私自身が専門学校中退ですから、そんな博士みたいな人のいうことなんて、理解できません」
 するといちばん若い男性が、
「わかった、チヨコはハンサムな男が好きなんですね」
 私は困ってしまって、下を向いた。すると3人して
「それではいったいどういう男性を探しているの、チヨコは?」と迫る。

「あ、ひとつだけ、求めるものがあるけど」
「何、それは、何なのか、言ってください」
と、3人とも興味津々で私の顔を見る。

「それはね……言ってもいいのかしら」
「どうぞどうぞ、言ってください」
「それはSで始まる言葉で……」
「Sではじまる言葉?」
「はい、それはSincerity(誠実)な人」
と言って見上げると、3人とも
「はあ……?」

「それは私たちの専門ではないですね。マドモアゼル、あなたはパリに来て、いろいろな人間の集まる都会にいるのでしょう。今日はフランス料理、明日はイタリア料理、その次は中華料理というように、違う雰囲気とエキゾチックな味を満足して味わえばいいじゃないですか」
 ついに私はこらえきれなくなって、
「どんなにまずい料理でも、中身が何かわかるほうがいいんです。つまり、貧乏でもハンサムでなくても教育の足りない人でも、誠実な人なら愛せます!」
 私があまりにはっきり言ったので、3人ともびっくりする。
「ああ、それではマドモアゼル、あなたは間違った場所に来てしまったんだ」
と言って、自分たちの席に戻っていってしまった。
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by eridonna | 2009-12-25 22:41 | 第2章 初単独への道

ついに単独飛行!

この頃、モニクがしきりにカナダへ行け、と勧めた。
 当時の私には、カナダなんて白熊の国でしょ、というくらいの知識しかなかった。 
 「ちゃんと人間もいるわよ。あなたはフランス語と英語が両方できるんだから、大丈夫」。 
そこで試しにオペラ街にあったカナダ大使館に情報を集めに行ってみた。すぐその場で申請書に書き込んで担当の事務官に差し出すと、
「あなたの場合、カナダに行ける可能性はかなり高いです。近いうちに呼び出し状が着いたら、ここへ身体検査と面接に来てください」と、いとも簡単に言われたのである。
 
 カナダ大使館からは2週間で通知があり、あらためて出頭すると、小1時間の仏語、英語のテストと身体検査のあと、カナダ移民許可証を手渡された。最終到着日が1966年の2月10日とあった。あと2カ月もないので驚いていると、
「渡航資金がなければ、カナダ政府が前払いしてもいい」とまで言うのである。
 幸いこのときは母が東京でカナダ航空の切符を買ってくれたので、カナダ政府のお世話にならなくてすんだ。

 いったん決意してしまうと、いろいろなことが急に動き出したようだった。
 会社には、2月には仕事を辞めてカナダに行くことを知らせた。
 モニクはとても喜んでくれた。この2年後には彼女自身がニューヨークに行って結婚し、その後モントリオールで私と再会することになる。

 1965年の12月31日、私はモニクと彼女の弟と一緒に、私のルノーでシャンゼリゼ街で年越しをすることにした。夜の11時30分には、たくさんの人出で、どこのレストラン、カフェ、ビストロも足の踏み場もないほど満員だ。モニクの弟は赤いカーネーションの花を胸のポケットにさして、この混雑したカフェでダンスをしようと誘う。二人で踊っていると、モニクがいたずらっぽい微笑を浮かべながら言った。
「あなたが弟と何をなさろうと私は関知しないけれども……。忘れないでね、彼はまだ21歳ですからね」

12時2分前! あたりが一斉に車の警笛で騒々しくなった。普通はパリ市内で車の警笛をうるさく鳴らすと罰金刑なのだが、12月31日の真夜中から元旦の明け方までは特別に鳴らしてもよい、という許可がでているのだ。
 私たちは急いで通りへ出て、駐車してある車に乗りこんだがどうにもならない。もう1センチも動かすことができないのだ。どこから来たのか強そうな4人組がスペイン語で話しながら、私のルノーを持ち上げて歩道に上げてしまう。私たちが車から出ると、隣の車からも人が3、4人おりてきて、
「あなたは英語を喋りますか」と聞くので
「Yes,I do!」と答えると、懐かしそうに
「Happy new year!」と叫んで、頬にキスしていった。
 パリに来て気が付いたのだが、街の道路で会うアメリカ人は、私を見ると必ず日本人と見なす。どういうわけなのだろう。もちろん当たり前のことなのだけれど。
 シャンゼリゼ街は交通がほとんどとまってしまって、あちらこちらで「ボンヌ・アンネ」とか「ハッピー・ニューイヤー」という声が聞こえ、バックにはすごい警笛の交響楽。
 それでも1時間ほどして車はどうやら動き出した。アンバリッド広場に駐車して、歩いてホテルへ戻ったときには3時をまわっていた。1966年、元旦の朝だった。
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 パリも1月になると冬らしく、しばしば雪が降り、飛行機学校はますます休校の日が多くなった。それでも雪が溶けるとすぐ飛行場へ通って訓練を重ねているうちに、パイロットとして一生忘れることのできない日が、とうとうやってきた。

 1月の31日、私は会社も辞め、身も心も自由になって訓練に集中できるようになった。
2月1日、教官ビドゥーユの手を借りずに一人で離陸、場周(カナダではサーキットという、長方形のパターンで滑走路のまわりを飛ぶこと)、進入(滑走路へのアプローチ)、そして肝心の着陸ができるようになった。ビドゥーユも黙ったまま、今日はやけに静かになっている。
 この離着陸の訓練を4回、5回とやっているとき、進入の最中に教官が「今度でストップ」と言った。私は滑走路の真ん中で、機を止める。ビドゥーユはいきなりドアを明けて外に出る。そして
「今と同じことを2回やってごらん。ただし700フィート以上には上らないこと」と言った。あまりに突然だったので、
「明日にしてください、ほら、雪がちらついていますよ」
と私はしりごみするように頼んだ。ビドゥーユは
「はい、わかっていますよ、雪がパラついていることくらい。明日も単独だから、今日からスタート」
と言うと、外からドアを閉め、うしろも振り向かずにスタスタと行ってしまった。

 機内に一人ぽっちで残された私は、一瞬、彼から見捨てられたような気がして、とても心細くなった。だが滑走路の真ん中で長くとどまっていることもできず、機をタクシーしながら(地上をころがすという意味)出発点にもどった。
 管制官の旗が上がり、離陸許可が出る。
 エンジン全開、機がよろよろと転がり出した。機首が左右にジグザグに動く。目を落とすと両足がガタガタふるえていて、それにつれて方向舵(ラダー)が動いているからだ。 いつもの半分も走らずに、ふわッと浮き上がった。
 気がついたときは、雲の中、高度計は800フィートを示している。ビドゥーユに言われたことを思い出して、700フィートに落とす。雲の下に出る。
 左手に飛行場を見ながら左旋回を2度、コックピットのチェック、すべてOK。
 もう一度左旋回して、進入もしっかりと迷わず、滑走路上での引き起こしも、早すぎず遅すぎず……。いつ接地したのか、わからないくらい、ソフトに着陸した。
 ずっと滑走路の端で立っているビドゥーユの、ニコニコ笑っている顔が目に入った。
 またエンジンを全開して飛び上がり、今度は700フィートで何ごともなく、同じことを繰り返した。飛行機をパークして、18分の初単独飛行を終えた。

 ビドゥーユの顔いっぱいに満足そうな笑顔が広がっている。
外に出た私は「ビドゥーユ、あなたはずいぶん重いですね」と思わず口から出てしまった。
 彼は皮肉にとってか(フランス語で重いという言葉には、鈍感という意味もある)、
「メルシイ(ありがとう)。生徒はみんな言うけど、僕が降りると、機は羽のように軽くなるんだってね」と言ってまた笑った。

 クラブハウスに戻ると、待っていた生徒たちからたちまちお祝いのキスを受ける。そして、この学校のしきたりで、私は全員にコニャックを振る舞った。それでも足りず、3台の車いっぱいにみんなで乗り込み、シャンゼリゼ街へ向かって大騒ぎ!
 名前は忘れたけれども、高級レストランの一番いい席に、10人の飛行機野郎がなだれこんでワインを注文する。物珍しそうにこちらを見ている他の客は、美しいロングドレス。一方、我々ときたら、油の染み付いたズボンのポケットに手を突っ込んで、という格好であった。それでもだれからも文句は言われなかった。
 だれかが「マドモアゼル・カミカゼの初単独祝い!」と叫んでいるのが聞こえる。通り掛かったエア・フランスのスチュアーデスが「おめでとう! すばらしいわ」と握手を求めてきた。

(ここまで導いてくれた教官ビドゥーユの忍耐に、深く感謝しています)


 二日後、2度目の単独をすることになった。
 ビドゥーユのチェックフライトを10分したあと、一人で出ていく。すでに一度味をしめている私は、少し気持ちが緩んでいたらしい。
 4回目のサーキットをしているときに、進入してきてエンジンを切り、5フィートの高さで機首を水平にもってくる。そして徐々に機を沈めていって着陸するはずだった。
 このパイパーは尾輪の飛行機であった。(3つ目の車輪が後方についている型で、1950年以前はほとんどがこの形だった。空中では安全だが、着陸の際にブレーキを踏むと逆立ちしやすいので、今の飛行機はみんな前に車輪をつけるようになった)
 私は3点着陸(前輪と尾輪の3つを同時に接地する)をするために、機首を上げながら沈めていった。そうすると前方がよく見えなくなるので、滑走路に着地する瞬間までは数を数えてだいたいの見当をつけることになっていた。

「1、2、3……」 いつもならこのくらいで、お尻で「接地した」という感触が得られるのだが、「あれ、5、6、7、8、9……、滑走路がない!」
 左下を見ると、すぐ真下にあるはずの滑走路が、100フィート(30メートル)以上も下に小さく見えた。瞬間、「あ、失速する!」
 エンジンを切っているので、この高さからだと機首から真っ逆さま、まるで石ころのように墜落するのである。なんとか無事でいられるのはせいぜい10フィートまでなのだ。
 反射的に手が動いて、すんでのところでエンジン全開、やり直し。再びサーキットをしてきて、次には平常どおりにうまくいった。

 機をパークして何ごともなかったような顔をして、クラブハウスに戻ってきた。エンジニアのカラール氏がいたので、
「今の私の失敗を見ましたか」と聞く。彼はうなずいて
「ウイ(はい)。教官のビドゥーユがちょうど生徒と話している最中に、30メートルの高さから失速寸前のあなたを見たんです。電話に飛び付いて救急車をよんでいるときに、エンジンの音を聞いて、電話機をそのままもとに戻しました。彼は今は生徒と一緒に飛んでますよ」

 カラール氏は机の引き出しをあけると、20センチもある一本の巨大な消しゴムを取り出した。
「あなたは今日飛行場を消しましたね。これはその思い出です」
と言って私にくれた。「飛行場を消す」というのはフランス語特有の粋な言い方で、飛行場が下にちゃんとあるのに、まるでないかのようにむこうみずに振る舞う、というような意味なのだ。
 引き出しの中をのぞいて驚いた。なんと同じ巨大消しゴムがたくさんあったのである。ああ、そうか、私だけではないのだと気が付いた。
 失敗せずに何かを理解したり、上達する人は滅多にいない。そして、災難というのは自信満々のときに起こるものだと、つくづくわかった日だった。

 次の日、もう一度学校に行って、2、3人居合わせた生徒に別れを言って、明日カナダのモントリオールに行くことを告げた。
 みんな羨ましがって、
「私もあなたみたいに英語ができたら行きたいのですが」と若い女性。
「カナダはセスナ機がたくさんあるから、おそらくセスナでライセンスを取ることになるでしょう」と教えてくれた人もいる。
 ビドゥーユは
「あなたは自分に厳しい人ですね。もっと先に進んでよい性格です」
と言って、別れの言葉にしてくれた。その言葉をありがたく胸にしまって、パリを後にした。
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by eridonna | 2009-12-24 22:56 | 第2章 初単独への道