まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第4章 トロントの新生活( 4 )

トロントの夜間飛行

 
 トロントでバスを降り、新聞広告を見て、すぐにフランス語関係の本屋に仕事を見つけた。
 フランス語圏のカナダから移ってきた私であるし、やはりフランス語を生かした仕事のほうが早く見つかるのだった。
 1週間後、給料として最初の90ドルをもらって、イタリア人街にあるユーゴスラビア人所有のアパートに帰り、台所でビールを飲みながらひと息ついているうちに、つい涙があふれてきた。
 ポケットの中にはわずか20ドルか30ドルしか残っていなかった。
 
 しばらくして電話のベルが鳴った。
 のろのろと、仕方なく出てみると、思いがけないことに、それは東京の母からの電話であった。

 私は日本の両親に新しい住所をまだ知らせていなかったのだ。
 何の連絡もしない私のことを心配した母は、モントリオールの職場で一緒だった日本から来た電気製品のエンジニアたちに、私のトロントの電話番号を聞いて、かけてきたのだった。
 直感力の鋭い母である。何も説明しなくても、
「もういいかげんにして日本に帰ってきなさい。飛行機のキップを送りますからね」と言う。
 私も落ちこんで、ちょうど弱気になっていたところだったので、つい「お願いします」としおらしく言ってしまった。

 けれどもそれから数時間して、ビールの酔いもすっかり覚めたとき、これは大変なことを言ってしまったと気がついた。
 このまま帰るわけにはいかない。私は今ここで、飛行機を捨てるわけにはいかないのだ。
 
 母には、「本当に申し訳ないけれど」とその場ですぐ手紙を書いて、「弱音を吐いてすみません。さっきお願いしたことはどうぞ忘れてください」と謝った。
 あとで弟の嫁である容子さんから聞いた話によれば、「航空会社のキップを送ろう」と主張する母に対して、まだ私の手紙が届かないときだったにもかかわらず、私の心を察した父は反対したのだと言う。
 遠くにいても娘の困難を知って何とか助けようとする母。そして私がころんでも黙って見ているのが一番いい、と判断する父。

 私は19歳のときから自立して生活していたので、このとき初めて、両親が実によく子どものことをわかっている、と感心してしまった。親というのは本当にありがたいものだ。
 それからは、私はどこに住んでいても、両親の愛情を意識して暮らすようになった。
 子どもが困難に立ち向かっているとき、あまり早い時期に親が手を出してしまうと、子どもの自立する力を損なってしまう。ぎりぎりのところ、どこまで待って助け舟を出してやるのか。
 親としては心配で心配でたまらない自分の気持ちも抑えつつ見守るわけだから、その判断のタイミングはとてもむずかしい。
 
 のちに私自身、教官として生徒を訓練するときに、あまりに早く手を貸すと生徒の上達が遅れてしまうし、そうかといって手を貸すのが遅すぎると事故につながる恐れもあるという、きわめてむずかしいこの問題に幾度も直面することになった。

 
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 トロントは同じ国際都市でも、モントリオールとはずいぶん違っていた。
 町の中ではドイツ人、ギリシャ人、イタリア人が多く、フランス語はほとんど聞こえてこなかった。ここでは英語でもそれぞれの国によってアクセントが違うので、たとえ自分の英語になまりがあっても、ちっともコンプレックスを感じないのだった。

 トロントの街が気に入った私は、再び元気を出して、飛行訓練を続ける決意をした。
 今度はダウンタウンからフェリーボートに乗り、向かい側の島にあるトロント・アイランド空港に通うことになった。電車、地下鉄、フェリーで通うので、車も必要なかった。
 3本の滑走路をもったこの飛行場は、オンタリオ湖に浮かぶ島で、トロント市内に用事のあるビジネスマンには都合のよい空港だった。
 国際空港までわざわざ行かなくとも、市の中心まで近いので便利なのだ。
 けれどもそのせいでトラフィック(航空機)の多いこと、いつも5、6機が近くを飛んでいるという状態であった。

 ある日の午後、フライト中に下を見ると、一隻の船がトロント港に入ろうとしているのが目に入った。よく見れば、白地に赤の2本線をつけたなつかしい煙突、あれは間違いなく日本郵船のものだ。
 飛行場に戻ると、そのとき一緒にセスナ150に乗っていたドイツ人のフレッドを誘って、ちょうどトロント港に停泊したばかりの船を訪問した。
 それは赤城丸だった。数年前まで父が乗っていたことのある船である。現在の船長も父のことを知っているとあって、フレッドと二人で乗船して日本のビールをご馳走になった。

 またある静かな夜には、一人で夜間飛行に出た。
 トロントの夜景やオンタリオ湖の上に浮かぶ島を眺めて楽しんでいるうちに、あっという間に1時間以上が経ってしまい、気がつくと午後11時をとっくに過ぎていた。
 そろそろ帰らなければいけないと、マイクロフォンをつかんで管制塔を呼ぶ。

「アイランドタワー、こちらはCF―SZD、5マイル東、着陸します」
 答えてくれたのはマーガレットさんの声で、
「SZD、こちらはアイランドタワー、滑走路26へ直接進入、ほかにトラフィックなし」
 彼女は当時、トロントでただ一人の女性のコントローラー(管制官)だった。
 男性ばかりの職場に紛れ込んでずいぶんと苦労をされたことだろう。
 とてもユーモアのある人で、あるときカモの群れが滑走路を横切ったとき、そのあと着陸する飛行機に、「乱気流に注意せよ」と言ったことがある。
 普通、大型飛行機の離着陸した直後2分間くらいは、滑走路に大きな渦巻きが発生するので、小型機は非常に危険なのである。
 そのときはマイクを通して、パイロットたちの楽しそうな笑い声が聞こえた。

 その晩の私は音も立てずに静かに着陸して、マーガレットさんに、格納庫までタクシーする許可を求めた。すると彼女は、
「機を止めたあとで、管制塔に出頭せよ」と言うのである。
 私はセスナをセントラル・エアウエイ社の格納庫に入れ、いったい何ごとだろうと思いながら、タワーの螺旋階段を登った。
 私の顔を見るなり、マーガレットさんは、
「ああ、よかった。ちょっと下を見てごらんなさい」
 言われたとおりに下を見ると、島の向こう側にあるフェリーボートの発着所のパーキングに、車が4、5台停まっていた。
 時刻はもう夜の12時近い。島にいる人間は3人、そのうち生徒は車のない私一人だった。彼女は続けて、
「あの車は、あなたが飛んでいることを知っていて、下で待っているパイロットたちなのよ。もしどれかの車に乗ったら、あなたは今夜家には帰れませんよ。今夜は私が車で送ってあげましょう」
と言って、アパートまで本当に送ってくれた。
 それほど親しくもない女性から親切にしてもらって私は感激し、その後もひまを見つけては管制塔を訪問した。

 
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by eridonna | 2009-12-19 12:20 | 第4章 トロントの新生活
 
 このころ、飛行場で元自衛隊のパイロットの岡本さん一家と知り合いになった。
 ちょうど私は自家用パイロットの次のレベル、コマーシャル・ライセンス(事業用免許)を取ろうとしているところだった。
 事業用免許があれば、ライセンスを片手に仕事ができるのである。
 だがそのためには、まず資格として「200時間以上空を飛んだ」、という飛行記録が必要だった。資格を手に入れるためには、とにかく飛行時間を延ばすしかないのだ。
 私はあるだけの全財産をクロスカントリー飛行に費やしていた。

 岡本さんは日本ですでに3000時間も飛んでいるという先輩である。ときたま飛行場に来られて、一緒に数回飛んだことがあったが、とてもよいコーチだった。
 彼はカナダでATR(定期航空操縦士免許。パイロットの免許のうち、最高クラスのもの)を取り、しばらく北極圏のアイスパトロール飛行をしていたが、数年後に日本に帰国して日本航空の沖縄線に乗られたと聞いた。

 このとき、彼からいろいろとアドバイスをもらった私は、1年後にはトロント国際空港で、彼と同じ学校に入学することになった。
 コマーシャル・ライセンスの後に、さらにむずかしい「IFR(計器証明)」、そして究極のライセンス「ATR」を取るためである。

 10月31日、CF―VRQという登録番号のセスナ150(上翼、単発エンジン、100馬力、2座席、スピードは時速110マイル)を借りて、一人でトロントからニューヨークのロチェスターへ飛ぶフライトプランを立てた。
 長距離を飛ぶときには、その飛行計画をFSS(フライト・サービス・ステーション)の事務所に提出する。トロントからロチェスターまではおよそ 150マイル、約250キロの距離だった。予定では約2時間のフライト予定であった。
 
 飛行機で飛ぶ場合、目的地までかかる時間の目安をあらかじめ割り出しておくのは、とても重要である。なぜなら、それによって積んでいく燃料の量が違ってくるからである。
 距離が何キロだから何リットル必要、と単純な計算はできない。飛行機が動いている間、つまり飛んでいる時間によって、燃料の必要な量が決まってくるからだ。
 目的地までいったい何時間かかるのか。
 車と違って渋滞の心配はないが、さまざまな気象条件によって、これが時には大きく変わってしまう。
 
 特に大切なのは風の影響で、進む方向に対して、そのときどちらの方向から風が吹くかによって、速度はかなり違ってくる。
 追い風なら早く進むし、向かい風なら遅くなる、では横風だったらどうなるか。
 そこで出発前にあらかじめ風向きを計算し、飛行時間を予測して必要なガソリンにプラス、安全のために45分間分を余計に積むのである。
 さらに飛行中にも風を読み、風の影響の計算をしながら飛ぶ。
 残りの45分間の燃料を使わずに最後まで安全に飛べるかどうか、知っておかなければならないからだ。
 
 それならあらかじめたくさん積めばいいかというと、これがそうとも言えないのである。たくさん積めばそれだけ機が重くなるので、スピードが遅くなってしまうからだ。

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 ▲ナイアガラフォール
 
 私にとってははじめてのクロスボーダー(国境を越える)長距離フライトだった。
 飛行機の準備以外に必要なのは、日本のパスポート、昼食のサンドイッチ、そして水筒を用意して空港を飛び立つ。

 単発のエンジンでは海や大きな湖の真ん中を越えて飛んではならない、という規則があるため、オンタリオ湖の海岸線づたいに対岸のアメリカを目指す。
 陸から離れて海の上を飛ぶには、安全上二つ以上のエンジンが要求される。万が一、片一方のエンジンがダメになっても、もう片方が生きていれば何とかなるからだ。
 
 ナイアガラの滝の雄大さを眺めながら、私はサンドイッチをほおばった。
飛行は順調で、西風に乗って予定より10分早くロチェスター管制区に入った。私はマイクロフォンを握り、合間を見て呼びかける。

「ロチェスタータワー、こちらはCF―VRQセスナ150、10マイル西、着陸許可を求む」

するとコントロールタワーのあわてた声が、
「ランディング ライトをつけて、南西のランウエイ(滑走路)にアプローチ(接近)せよ」

今度は近くにいる大型旅客機のキャプテンの声。
「セスナが見えない。どこにいるんだ?」
 
 私は急に心臓がドキドキと鳴り出し、この飛行場は普段は小型機が入ってこないところだと悟った。
 私の機は小さくて動きが遅いので、公安妨害になったのだった。

 指示どおりに着陸したあと、滑走路を出てタクシー路に入り、空港ターミナルビルまでタクシーする許可を求めた。管制塔からの返事がこれまたとても長い。

「左へ折れてBタクシーに入り、右へ折れてDタクシー路、突き当たって左へ折れ、まっすぐ……ゲート11号へ行け」

 とても全部は覚えられないどころか、半分も忘れてしまい、私はかろうじて、
「この飛行場は初めてで不案内なので、誘導してください」と、頼む。

 そうこうしているうちに正面から大型機のDC8がやってきて、私の小さなセスナと鼻を突き合わせる格好になった。
 するとコントローラーのヒステリックな声。
「カナディアンVRQ、今出てきたところへ戻れ!」

 どうにかこうにかやっとゲート11号にたどりついてエンジンを止めた。正面のドアを押してターミナルビルの中に入る。

 移民官や税関の事務室などがずらりと並んでいる。まず税関に顔を出した。係官は私のパスポートを見ながら、
「何か申告するものはありますか。あるいは何か持ってきましたか」と聞く。

「何もありません」と私。係官はちょっと驚いたように、
「何も持ってこない?」
「ああ、えーと、サンドイッチを持参しましたが、食べてしまいました」
「誰かこの町に知り合いでもいるのですか」
「いいえ、いません」

「ではなぜここに来たのだね。目的は?」
「飛行訓練です」
「ああ、そうか。飛行機はどこに置いたのかね?」
「ゲート11号です」
「では、その飛行機を見に行きましょう」
 と、言いながらドアを押して外に出た。

 小さな二人乗りのセスナ150を見ると、驚いた係官は私の顔をあきれたように見て、
「これでどうやって日本から来たのか」と質問する。
 私は笑いたいのをこらえて、
「フライトプランをカナダのトロントで提出してありますから、ロチェスターのFSSにも通知が来ているはずです」と答えた。
「ああ、日本からではなくオンタリオ湖の北海岸のトロントから、というわけですか。では今度来るときは、もうちょっと大きくて早い飛行機で来てください」

 このフライトでは、私の無謀なプランが他人の迷惑になったことをとても後悔した。世の中には書類や本などにかかれていない事実やルールがいろいろあるのだった。
 次に遠くへ飛ぶときには、もっとよく研究するなり、ほかのパイロットに意見を聞くなり、ちゃんと準備をするべきなのだ。
 体験してみてはじめて思い知る。それが私だった。
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by eridonna | 2009-12-18 13:00 | 第4章 トロントの新生活

新しい恋人

 
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▲スティソン CF-GEN 160馬力

 飛行時間も200時間を越えると、ようやく自分のやっていることの意味が、わかるようになってきた。つまり教科書で習った知識ではなく、体で覚えた技術として備わってきたのである。

 そろそろ自信がついてきたころである。

 ある日曜日、ローカルフライトからアイランド空港に戻る途中、セスナ150より少し速い飛行機がうしろから追ってきた。
 すぐ私のうしろでファイナルコースに入り、私より数秒送れて着陸、機体のナンバーは、「CF―GEN」と聞こえた。
 飛行機を格納庫にしまってカフェテリアに入り、自動販売機からコーヒーを注ぐ。朝の挨拶をひとこと二言交わしていると、目の前の男性の声が、さっき追いかけてきたパイロットの声だとわかった。

「あなたがCF―GENですか」
「そうです。すみません。あなたを追いかけたようになってしまって」
 それがオーナーパイロット(自家用機を持っている)のサンディ君だった。

 それから私たちは親しくなり、彼はよく電話をかけてくるようになった。
 あのころ、トロント アイランド空港では、女性パイロットでコマーシャル・ライセンスを目指して訓練していたのは私だけだった。
 つまり、それが周りの男性の興味をそそり、互いの競争心をあおるようになっていたという。   サンディ君があとで言うには、
「カフェテリアであなたがサングラスを床に落としたとき、5本もの腕が伸びてそれを拾おうとしているのを見て、僕は飛行機であなたを追いかける以外に近づく方法がないと思ったんだ」

 サンディ・ディ・ゾルジー氏はイタリアの北部生まれ、一家の長男で、子どものころ両親に連れられてカナダに移民してきた。
 第二次世界大戦中にはカナダ空軍のメンバーとして英国で双発のランカスターに乗り、航空士(ナビゲーター)としてベルリン爆撃に行ったと言う。 
 英国で結婚し、戦後、カナダに戦争花嫁として一緒に戻ってきた奥さんは数年前に亡くなっていた。
 その後、彼は自分で飛行機を買って、カナダの空を飛びまわるようになったという。彼の飛行機は1940年ころのスティソン、160馬力で、とても珍しいものであった。
 サンディ君は、私よりも18歳も年上なので、何かにつけてよき相談相手になってくれた。

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 ▲サンディ君

 サンディ君は、週末には必ず、トロント北部の潅木地帯のハリバートンにあるコテージ(山荘)に出かけるのが趣味だった。
 車なら3時間のドライブ、彼の飛行機で行けば1時間15分で着く。
 彼がこのコテージを自分の手で建てはじめてから20年近くたっていて、毎週出かけるたびに、さらに少しずつ手をいれていくのである。専門家ではない私の目から見るともうほとんど完成しているように見えた。

 このあたりでは、いろいろな種類の野鳥やカモ、ガンが多く、サンディ君が自分でよく仕留めてくるので、私がフランス式に洋酒をかけて丸焼きにした。サンディ君は喜んで、となりの家の人々も呼んでみんなで楽しくテーブルを囲んだ。
 コテージは湖にも面していて、バスというフナの一種の淡水魚がよく釣れた。
 彼は、毎週末ごとに私にも一緒にきて欲しいようだったが、私のほうも、だんだんと飛行訓練に熱が入り、週末に時間を作って遠出するのはなかなか大変だった。

 カナダでは秋はいそいで冬になり、コテージは深い雪の下に埋もれる。
スノーモービルでないと山道を通うこともできなくなり、春まではしばらくコテージ通いはおあずけ、ということになった。
 近所に住むラクーン(アライグマ)の一家が、屋根裏で冬ごもりをするはずだった。
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 クリスマス近くになると、サンディの家族、母親のマリアさんと妹たちとも親しくなった。
 マリアさんは70歳を過ぎた方で、誰もが言うように本当にやさしい人だった。よくイタリア料理のポレインタを作って私に食べさせてくれた。
 そのマリアさんがある日、とても面白い話をしてくれた。
 
 彼女は時間があると、トロント総合病院でイタリア語の通訳ボランティアとして活動していた。トロントはイタリアからの移民がとても多いのである。
 ある日、女性ばかりの産科病棟に行くと、なぜか年配の男性がベッドに寝ているのを見かけて不審に思った。マリアさんはイタリア語でその男性に「どこか悪いのですか」と話しかけた。すると彼は、
 「ああ、言葉のわかる人に会えてよかった。実は娘がお産で見舞いに来たところなのですが、こちらの言葉がわからないまま、いきなりガウンを着せられて寝かされてしまったんですよ」
と言ったのであった。

 このころでも私の質素な生活はあまり変わっていなかった。
vもらったお給料はできるだけ飛行機の訓練費用に回し、食費を切り詰める。
 ふだんはスープにパンだけというような私の質素な食事を見かねて、サンディ君はよくおごってくれた。そんな彼があるとき、
「今まで食べたことのない変わった料理を味わってみたい」
というので、私はいつものお礼にと、わざわざニューヨークから生きたうなぎを取り寄せたことがあった。

 私のアパートのキッチンで、くねくねとのたくりまわるうなぎを、ティッシュを片手に必死に捕まえる。うなぎの頭を落とし、おなかを裂いてなんとか調理しようと奮闘する私を見ているうちに、彼は次第に顔面蒼白となり、ついにしばらくするとソファに横になってしまった。

 それなのに、蒲焼にしてほかほかのご飯の上にのせたら、彼は「おいしい」と言って、ちゃんと全部きれいに食べたのである。「いったいどういうわけなの?」と問い詰める。
 彼が弁解することには、カナダでは、彼のように魚を処理するのをひどく嫌がる人が多いということだった。
 特に女性はその傾向が強いらしい。そのくせ、カモやキジ、シカやムースなどを自分の鉄砲でドカンと打ってきて、ガレージの中で処理するのは何でもないという人々である。まったく矛盾していると思った。
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by eridonna | 2009-12-17 13:17 | 第4章 トロントの新生活

父の死と青い鳥

 サンディ君と私はよくいろんなことで意見を言い合ったものだ。
特に議論したのが、「自由意志」についてだった。彼はよくこう言うのである。

「人が良い行いをするのも、悪い行いをするのも結局はその人の自由だ。人が自分で決めたこと、その人の自由な意志について、他人がとやかく言っても始まらないんだ」
 
 当時の私には、彼のこの言葉はすぐには受け入れられなかった。

 日本が公式にデモクラシイを取り入れたのは第2次世界大戦後の1945年だ。そのころの私は15歳。
 それから20年以上経ったこのときでも、民主主義とは何か、人間の自由とは何か、まだわかっていなかったのだ。   

 人口密度の高い狭い日本の社会では、個人の自由を認めてはいても、いざそれを実行すると、周囲との摩擦が大きくなってしまう。
 だからみんな、小さな自由に甘んじているか、あきらめてしまうことが多い。個人の意志を圧殺しても、全体の利益を優先する。
 これは本当の意味のデモクラシイではないのである。

 一方カナダやアメリカでは、最初の移住者たちが、古い伝統をもつヨーロッパの祖国との絆を断ち切ってやってきた。
 主にプロテスタントとカトリック教徒の人々は、聖書の教えを基本として、創造主からいただいたそれぞれ個人の自由意志を尊重した社会をこの新天地に作ろうとした。
 文化も習慣も違う人々が一緒に暮らす多民族国家である。お互いに知恵を出し合い、話し合い、お互いの自由を尊重する国家としての憲法を作ったのだ。
 自由とはその範囲内でのことで、他人の自由を侵害する行動をとればもちろん法に触れ、法廷で裁かれる。

 勝手気ままに育った私は、いつも自分の自由意志を押し通そうとして、周囲との摩擦を起こしていた。それで日本を脱出して外国へ逃げてきたようなところもある。
 外国に来てしみじみわかったことは、自由意志の裏には、それに伴う行動に対する責任が付きまとう、ということだった。

 つまり自分が決めたこと、やったことに対して、全責任を自分が負わなければならないのだ。他人を責めたり、言い逃れしたりすることはできないのである。
 厳しい社会だが、そうすると自分の行動の結果がよいか悪いか、すぐ結論が出るということでもあった。
 それはすっきりとしていて、とても私の性には合っていた。
 西欧の社会のあり方、個人の自由の意味、そしてデモクラシイの深い意味について、だんだん納得がいくようになってきた。
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▲コマーシャルパイロット訓練中

 このころの私はカナディアンプレスという新聞社に勤め、収入も週給から月給となり、
月に400ドル以上ももらえるようになった。
 3月に入ると、そろそろコマーシャル・ライセンスのフライトテストの日が近づいてきたので、
私もかなり緊張していたときである。

 3月10日、チーフパイロットのミラー氏と模擬テストをする予定だった。
 朝5時前に目がさめ、お風呂場で窓の外を見ながら、何となく父のことが思い出された。2年前に帰国したとき、父自身が「あと2年くらいの命だろう」と言っていたこと……。

 7時になって電話が鳴り、母が取り乱した声で父の急死を知らせてきた。
 その日、ともかく模擬テストを受けたものの、心身ともに宙に浮いているような状態だった。いそいで日本に帰らなければならない。

 私が突然帰国しなければならないことを知ると、サンディ君は、
「日本に帰る前に僕と結婚して欲しい」
と言い出した。

 私にとって、彼との結婚は、ずっと決めかねていた問題であった。私は彼との年令が離れすぎていると思っていたのだ。
 だがそれにしても、こんなときに人生にとって重大なことを決めるのはどだい無理な話だった。

 「そのお話は父の葬式から帰ってからにしましょう」
 私はそう彼に告げると、翌朝にはバンクーバー経由で東京に帰った。

 私が家に到着したとき、父の葬儀はちょうど終わったところだった。
 親戚や数多い父の友人に会う一方、父の外国人の友人たちに、父の死を知らせる手紙を書くのは、私の役目だった。
 父を失って、一人になってしまった母は、心細そうだった。私が日本に住んで、母と一緒に暮らすことが出来たら、母はどんなに喜んだことだろう。
 親不孝な自分が恨めしかったけれど、祖国を離れてもうすでに5年もたっている。日本に戻って仕事を見つけることなど断念した矢先であった。
 幸いなことに、長男である弟はよく私の事情を理解してくれて、母を説得し、母は大阪で弟一家と一緒に暮らすことになった。
 母には「できるだけ何度も会いに来るから」と約束して、4月のはじめに私は再びトロントへと戻ったのである。
 
 さて戻ったところで、サンディ君との結婚話をどう考えたらいいか、私は悩むはずだった。
 ところが、ほんの数週間離れただけなのに、彼は出発前に私に結婚申し込みをしたことなど、すっかり忘れたようだった。一切、話題にしないのである。

 それならそれで構わない、と思った。
 私は初恋の痛手の大きさもあって、自分から男性に対して積極的になるということがどうしても出来なかった。
 彼とはボーイフレンドのまま、過ごしていくことになった。
 
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▲フライトテスト
 
 これまでに私が付き合った男性は、じつは3人ともパイロットであった。
 パイロットという世界は、ある意味で男も女もない世界のはずである。技術においても忍耐力においても、女の人が男の人に劣っているとは私は思わない。
 かえって女のほうが慎重な分、安全飛行ができるくらいだと思っている。

 だが、女が男と対等に立とうとすると、どうしても男の人のプライドが邪魔して、どこかで女を自分より一段下におこうとするのである。
 これは私の経験だが、男性ばかりの職場に女性が入っていくと、競争心が征服欲に変わってしまって、女性と男性が対等な仲間同士という間柄にはなかなかなれないのだった。

 一度だけ、サンディ君と一緒にオタワ空港に飛んだことがあった。
 戦争中、サンディ君と同乗員だったパイロットのロバート・クロチェ氏がそのころ俳優として有名になり、ちょうどオタワで公演中だった。
 クロチェ氏は普段はバンクーバーに住んでいたのでめったに会えない。そこでトロントに住むサンディ君は、オタワで旧友に再会しようというのだった。

 オタワに着いたその午後、私たちはクロチェ氏を乗せて、3人でオタワ飛行場を再びトロントに向けて飛び立った。
 ところが温暖前線が北上してきて、視界がわずか1マイルにまで落ちてしまった。サンディ君は高度を1000フィート以下に落とし、なおも高圧線に沿って飛ぼうとする。
 冗談ではない。
 私は黙ったまま彼から操縦桿を奪い取り、オタワ空港に引き返した。 

 2、3分も経たないうちにたちまち豪雨となり、飛行機の車輪が地面に着いたときは、もはや視界はゼロだった。
 その晩、二人して汽車でトロントに戻ったが、サンディ君は怒ってしまって、私とはずっと口をきかなかった。このときばかりは彼の自尊心をひどく傷つけたようだった。

 これまでも私はいつだって、幸福の「青い鳥」がどこかにいるはずだと、あちこち迷いながら探し求めてきたのである。
 私が探していたのはどんな男性なのか? 外見など、どうでもよかった。

 心の奥底からコミュニケートできる、偽りのない人。
 欠点も長所も含めて、私のあるがままの姿を許してくれる人。
 私が私らしく、私のありのままに振舞ったとしても、そんな私を愛してくれる人…。

 だがそのような寛大な男性はこの世に存在しないらしかった。
 青い鳥なんてそんなもの、所詮見つからないのだ。それならいっそ、一人でいたほうがいい。

 そんな風に、男の人と親密な関係を作ることをあきらめてしまうと、当座はもうほかにすることがなかった。

 そうなると勉強にもよく集中できるもので、やがて挑戦したコマーシャルパイロットの3時間の筆記試験も、私は無事パスすることが出来た。
 そして5月26日には、ついに2時間のフライトテストを受けて難なく合格することが出来たのである。
 
 これで私も、とうとうプロのパイロットの仲間入りを果たしたことになる。さすがに張り詰めていた体中の神経が、一度にゆるんだ気がした。

 
 その後、妹さんから「サンディ君が心臓麻痺で亡くなった」という知らせを受けたのは、私がバンクーバーに住んでいた1976年のことであった。
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by eridonna | 2009-12-16 15:26 | 第4章 トロントの新生活