まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第5章 トロント国際空港( 3 )

DC8の大事故

 念願のコマーシャルパイロットのライセンスを手に入れた私だったが、なかなか仕事は見つからなかった。
 それではとその次のレベルアップを目ざし、「計器飛行証明」を取ろうという決心をして、岡本さんのアドバイスに従い、トロント国際空港の北側にあるカナディアン フライヤーズという学校に入った。
 まずは足の速いムーニイという飛行機で訓練をはじめる。この機は時速150マイル、エンジンは単発だが200馬力で4人乗りであった。

  ある夏の朝、これから飛び立つ前に、ランプ(操作場)にパークしてある飛行機の点検をしていると、滑走路32の南端上に、大型のDC8がちょうどアプローチするところだった。
ああそうだ、トロント~ロサンジェルス間直行便だ、と目の端でチラッと見て、私は油で汚れた手を洗うためにハンガー(格納庫)の中の洗面所に入った。

 ほんの10秒ほどたったころだろうか、このハンガーの頭上を大型機が通過した。窓から見上げると、着陸装置の足が出たままだった。
あらっ、今のはさっきのロサンジェルス行きの便かしら、と思った途端に、「ガガーン!」というものすごい爆発音。

「あれは今のDC8なのっ!?」
 事務所にいたマネージャーのウイルソン氏に聞くと、彼は険しい顔で、「こんな晴れた天気のいい日に事故を起こすなんて」と言いながら、あわてて外に飛び出していく。

 居合わせたものはみんな、外に出てあたりを探した。事故が起きたのは飛行場の敷地外らしく、付近には何も見当たらない。
 そうこうしているうちに、私の出発の時間がやってきた。
 誰か一緒に乗る人を探していると、ちょうどそこへ、「エア・カナダ」でセコンドオフィサーをしているバリー君がやってきた。一緒に事故の偵察に行こうと言って乗り込んできたので、私はエンジンを始動した。

 ラジオで管制塔とコンタクトを取ると、コントローラーはまだ興奮していて、
「ランウエイ23R(Rは右側の意味)へタクシー許可、90度の横風、30ノットだが離陸できるか、たった今事故があったのでランウエイ32は使用不可能」と言ってきた。
 「やってみます」と私は言って、タクシーを終え、離陸前の点検、離陸の許可と共に空へ飛び上がった。
 コントローラーから「低空飛行でランウエイ32の表面を調べて欲しい」と言ってきたので、すぐ機を左旋回させる。

 事故のあったランウエイの上空に来ると、端から端まで低空飛行を続けた。
 バリー君がマイクロフォンを握り、南端1000フィートほどのところにエンジンらしい物が転がっていること、あたり一面にガソリンと油が広がっていることを報告した。
 その後、私は近くのアイランド空港に向かった。ここでコマーシャルライセンスを取ったので、勝手を知っているため、20分ほど、風向きが変わるのを待つことにしたのだった。

 しかし風は相変わらず同じ方向から強くなるばかりだった。意を決して、トロント国際空港へ戻る。
 トロント国際空港は一時閉鎖されているため、誰も来ないという状況であった。コントローラーは、「ランウエイ32の北の半分を使って着陸せよ」と指示を出してきた。
 ハンガーに戻って気がつくと、飛行場北口にはポリスと救急車がいっぱい、道路は閉鎖状態になっていた。

 フライト621は、その日の朝、モントリオール発のトロント経由ロサンジェルス行きだった。機体はDC8ヘビー。普通のDC8よりも少し長いものだ。
 トロント市の南にあるハンバー湾上で高度を落として、そこからランウエイ32に直線コースで進入してきた。私がちょうどムーニイを点検中だった、あのときだ。
 事故の原因は、誤って空中でスポイラーを使用したため、2000フィートの高さから機体を落とし、ランウエイ(滑走路)上で跳ね上がってしまい、北側のハンガーの上を飛んでいるうちに、2マイル先で空中爆発を起こしたのだった。
 乗客乗員合わせて370人が乗っていて、事故の犠牲になった。

 あまりの事故の大きさに、そこに居合わせたものは全員真っ青な顔をして、しばらくは誰も飛行機に乗りたがらない。
 訓練飛行を続ける元気がなくなってしまった。
 この学校からはエア・カナダに就職した人がたくさんいるので、みんな熱心に運輸省が出す事故報告書を読んでいた。

(スポイラーとは、地上で飛行機の速度を落とすために使うもの。この事故のあとで、ダグラス社は空中ではスポイラーを出すことを不可能にする安全装置をつけ、オペレーターのエア・カナダは、オペレーション・マニュアルを変更した)
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by eridonna | 2009-12-15 16:12 | 第5章 トロント国際空港

たった一つのライセンス

 トロント国際空港は、東と南側が旅客や貨物など定期便会社の設備で、北側には「ジェネラル・エビエーション」といって、一般航空用のハンガー(格納庫)がいくつもあった。
 ほとんどはエッソとかシェル石油会社、または航空機の整備会社に属するフライトセンターで、1970年代までは個人で小さいジェット機を持ったオーナーもこれらのセンターを利用していた。
 あれから20年以上たった今では、もう国際空港を使用するオーナーパイロットは、ほとんどいないのではないだろうか。

 第一の理由は、それほど裕福な人たちの数が減っていること、第二に、トロント国際空港を使用する大型機のトラフィックが最大限に達していて、もう一般の小型機の利用はむずかしくなっていると思う。
 でも今から25年前には、このジェネラル・エビエーションのハンガーに、コマーシャルライセンス以上を持ったパイロットたちがよく集まる場所があった。
 ハンガーのラウンジ、つまり休憩室である。

 毎週末になると、何かチャーターフライトの仕事はないだろうかと、みんながやってくる。私はカナディアン・フライヤーズ(IFR専門の学校)があった「レブンスハンガー」に顔を出すことにした。そのころはもう双発機にも乗り始めていた。
 この日は、数人のオーナーパイロットとパートタイムパイロット(自家用機を持たない者)でにぎわっていた。コーヒーを飲みながらたわいのない雑談をしていたが、女性のパイロットは珍しいとあって、はじめて私を見る目はあまり親切なものではなかった。

 突然、一人の実業家が私に質問してきた。
「Who are you?(あなたは誰ですか?)」
「I am nobody.(誰でもありません)」
「ああ、ではちょっと質問しますから、その答えによって判断しましょう」
「いいですよ、どうぞ」
「質問その1、あなたのご主人はどんな仕事をしていますか?」
「私には主人はいません。私の仕事は鉱山会社の秘書で、週末にはパートタイムチャーターパイロットをしていて、収入はまあ、月に800ドルくらいです」

「では質問その2、どんな家に住んでいますか?」
「家は持っておりません。月250ドルのアパートに住んでいます」
「質問その3、どんな車に乗っていますか?」
「1962年型のGMマリブです」と、答え終わると、
「なるほど、おっしゃるとおり、あなたは誰でもない」
 と彼は肩をすくめると、行ってしまった。

 このお金持ちの実業家からは、冗談気味にシリアスなことを言われたわけだが、そのときの私は別に気にもならなかった。
 本当に、私には余分なお金もないし、家もなかった。立派な車ももってはいない。あるのはたった一つのライセンスだけだ。

 ただそう言われてちょっと身辺を振り返ってみたら、これまで私は社会の人々に認められようとか、人よりも上に出ようとして何かを一生懸命やってきたわけではなかった。
 ただ自分に何ができるのか、どこまで行かれるのか、どういう仕事をするのが自分にいちばん適しているのかが知りたかっただけなのだ。

▼双発機で
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 双発機を使用する、IFR(計器飛行証明)の訓練は、とてもつらいものだった。
エンジンが二つ付いている飛行機は、飛行中は点検するべきものが多いので、猫の手も借りたいほど忙しい。
 それなのに、「盲目飛行」という訓練では、左座席前方のウインドシールド(風防ガラス)に黒いプラスティック製のカバーを取り付け、パイロットにはまったく前方が見えない、という状態で飛行するものだ。

 右座席にはもう一人、チェックパイロットが乗って安全を確保するのであるが、左のパイロットは前が見えないまま、計器だけを頼りに航空路に乗って、コントローラーの指示に従って徐々に高度を下げてくるのである。

 あと数分で滑走路という切迫したときに、エンジンのひとつを切り、緊急操作を行って残ったエンジンだけで高度を下げつつ、何ごともなかったように着陸をしなければならない。
 この最後の数分がスムースにいかなくて、私は苦しんだ。
 どうもこれが限界、という壁に突き当たってしまったらしくて、数時間トライしても進歩がない。右座席にルイス君、またはラリー君と一緒に飛んだが、どうしてもⅡ級以上の腕にならなかった。

 ところがデイヴ君と一緒に飛んだら、彼はすぐに私のトラブルの原因を見つけた。
私の足が短いので、緊急操作のときに体がよじれてうまくいかないのだった。
 そこでそれまで使っていたパイパーアパッチ(1950年型、4座席、150馬力)から、パイパーコマンチ(1960年型、4座席、160馬力)に乗り換えた。 
 パイパー社の飛行機は先住民の部族の名前を機種につけている。そのコマンチにしてみたら、座席が低いので、クッションひとつで足がよく届くのである。
 思わぬところで救われて、それからまもなくフライトテストにこぎつけることができた。

 だがこのときに、私はギックリ腰という厄介な持病を抱え込んでしまう。足の長い人たちがうらやましかったけれど、人にはそれぞれ違った種類のトラブルがあるのだから、と気にしないことにした。

 一度、私が右座席のチェックパイロットとして飛んでいるとき、天気が急に悪化して雲の中に入ったり出たり、本番さながらの計器飛行状態になったことがある。
「どうせ何も見えないんだから」と私は手を伸ばして、左席に座っている訓練中のジョージ君の前方カバーを取ってしまった。
 すると彼はしばらく目をぱちくりさせていたが、「気が散って仕方がないから、どうかカバーを戻してください。何も見えないことを確認したくないんです」と言うのだった。

 さて、ついに双発機でのIFRのフライトテストの日が来た。
 一緒に訓練してくれたルイス君、デイヴ君たちも、テストの時間が近づくにつれて緊張しきって口数が減ってくる。マネージャーのウイルソン氏まで落ち着きをなくして、
「あと30分だけど大丈夫かね」などと言う。
 私といえば車の後ろの席に横になって休む始末。
 試験開始の5分前に事務所に戻り、試験官を待った。H氏がやってきた。

「さて、今日の志願者は誰かね。機種は何だ?」と聞く。
マネージャ―は声を何となく絞ると、すごみを利かせるように
「この学校ではじめての女性で、機種はコマンチです」と言った。

 途端にH試験官の顔が硬くなった。
 先週モントリオールで、試験官と生徒が同じコマンチの機種で墜落したニュースがあったばかりだったからだ。
 事故の原因はフラップ(下げ翼)だった。低速飛行中、浮力を余分に出して機を安定させるためにフラップを出して操作をし、それを引き上げたとき、片方のフラップが故障したため、左右がアンバランスになって墜落したのである。

 私は「フラップはまったく使用しません。ホールディングもアプローチも普通より10マイル速いスピードでやります」と約束した。
 彼は最初に、ああしろ、こうしろと言うだけ言うと、黙って乗っていた。
 2時間にわたる盲目飛行は何とかまとまったと思うが、視界なしで、高度に速度、そしてコースを最小限の誤差で保つことに全身汗だくになった。

 突然、大声が響いて、私は座席から飛び上がった。
「何ですか?」と聞くと、
「グッド!」
これには本当にびっくりさせられた。

その日、Ⅰ級の「IFR・計器証明」をもらった。

「では6カ月目にまたお目にかかります」(6カ月ごとに再テストがある)
とH氏に挨拶。
 レブンスハンガーに戻ると、同僚たち、教官たちに得意になってライセンスを見せた。
 誰かが、「試験官はもう1本棒を書くのを忘れてしまったのではないか?」と言って、私をからかった。
(ⅠではなくⅡ級だということ)
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by eridonna | 2009-12-14 16:39 | 第5章 トロント国際空港

コーパイロットの仕事

 こうしてIFRの証明を手に入れると、たびたびコーパイロット(副操縦士)の仕事をすることができた。

 たいがいは南に向かうアメリカ行きの仕事なので、まずニューヨーク州のバッファローで通関のために着陸する。
 ところがここで、私のパスポートが日本のものなので、アメリカの税関と移民局で質問と調査を受けているといつも30分近くかかってしまうのだった。
 あるときは機内で待っている6人の乗客は競馬に出場するジョッキーたちで、目的地のフィラデルフィアに到着する時間が遅れてしまうのではないかと、とても心配させてしまった。
 
そういうことが重なると仕事をする上でとても不便であるし、これはカナダのパスポートを手に入れたほうがよさそうだった。
 つまり国籍を日本からカナダに変更するのである。カナダに来てからすでに5年になる私は、移民法によってカナダの市民権を取れることがわかった。
 カナディアン・フライヤーズのマネージャー、ウイルソン氏が私の身元保証人になってくれた。
 裁判所に出向いて、カナダの地理と歴史についてあらかじめ面接試験があり、さらにひと月に1回開かれる宣誓式に出席しなければならない。聖書に手を置いて、カナダとイギリス連邦の元首であるクイーンエリザベス2世に忠誠を誓うのである。
 カナダは多民族の国家である。
 さまざまな人種と融合しながら、みんなで仲良く生きていこうというこの国の趣旨に心から共感した私は、1971年12月、カナダ人としての市民権を獲得した。

 
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 それからしばしば、チャーターフライトの仕事でデイヴ君と一緒に乗る機会があった。
 セスナ411という双発、300馬力、8座席の飛行機で、オンタリオ湖の対岸にあるフオートエリーの町まで1日に5回、往復したことがある。夏になると、この街では競馬が盛んに行われ、それに出かける人々の輸送であった。

 それは午後5時ころの最後のフライトだった。
 200ポンド(90キロ)以上はありそうなお客が一人最後尾に乗って、とても軽そうな女性が前の方の座席にいた。キャプテンのデイヴ君が、何とか客を説得して、前の女性と席を交換させてくれと言う。
 私は2度、3度、この大きい男性に丁寧にお願いした。が、彼は頑として動かない。競馬で損をしたのか、ご機嫌がとても悪い。しばらく待ったがどうしようもないので、デイヴ君は、現在の外気温と最大重量を使って、離陸距離は何フィート必要か、厳密に計算した。

 この飛行場の滑走路は2000フィートちょっと、風は5マイル、ぎりぎりあるいは少し足りないくらいであった。しばらく考えた末に、デイヴ君は離陸する決心をした。「ショート・ランウエイ・テイクオフ」という技術を適用すれば可能、という判断だった。

「エンジン全開、次にブレーキを離す、スピードが90ノットに達したら、コーパイ(副操縦士)の私がフラップを10度出す」
ということにして、滑走路のもっとも端の位置に着いた。
 デイヴ君が2個のエンジンを全開する音と共に、機体は走り出したが、滑走路の3分の2に来てもスピードは80ノットを下回っている。私は、
「ランウエイ エンドです。ハイ、10度フラップ」と言って、フラップのスイッチを押した。途端に機体は首を高く上げて空中にジャンプした。

 すぐ私とデイヴ君の4本の手が機首を押さえた。
 明らかにテールヘビー、お尻が重たいのだ。そのまま水平飛行して、18分でトロント上空に達し、すぐ着陸許可をとってランウエイ32に降りた。
 着陸装置が地面に着くと同時に、前の車輪が浮き、尾部が地面に着きそうになった。
 わずか18分のフライトでも、羽根の中に積んでいるガソリンが軽くなったために、テールヘビー状態がさらに悪化したのだ。コントローラーが、
「CF―YQS、セスナ411、いつ尾輪に改造したのか?」
と聞くありさま。
 笑いごとではなかった。2度とやってはならないことだった。

 このころ、エアカナダがボーイング747を購入し、その第一機がトロント国際空港にお目見えするというニュースが、運輸省の公報に出た。
 その日、私は空からジャンボジェットの到着を見ようと、パイロット仲間の3人と一緒に、ローカルフライトで飛びあがった。するとコントロールタワーから、
「あと15分で747がランウエイ32にアプローチする予定。訓練中のフライトはすぐ地上に降りろ」と命令が来た。

 何で空を空っぽにするんだろう?と私たちはいぶかしんで、もう一度わけを聞いてみた。
 コントロールタワーからの答えは、乱気流がどのくらい付近にいるエアクラフトに影響を及ぼすかまだわかっていないからだとのこと、しぶしぶフライトを終えてランプに戻り、双眼鏡を持ってきて、747が近づくのを待った。
 現在では誰もジャンボジェット機を珍しく思わないだろうが、28年前にはじめてその巨大な機体を見たときの印象は、みんな声をそろえて、
「うわあ、大きい! まるで太った猫みたい。あれを空中に浮かしてもいいのかしら」というものだった。
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 もうひとつ、忘れられないフライトがある。
6カ月ごとに行うIFRの再テスト、もちろん最初のテストよりはずっと楽になったが、また試験官H氏がやってきた。
 機種はパイパーアズテック。双発エンジン、250馬力、6座席。

 その日は朝から雪になり、視界は2分の1マイル。つまり、左座席前方のウインドシールドに例のカバーをつける必要なし、という本番の「計器飛行」になった。
 トロントの近くにロンドンという空港がある。そこで必要な操作のテストを行い、帰途に着いた。
トロントのコントローラーに連絡すると、現在、トロントの上空は視界ゼロということだった。

「ロンドン空港で天気回復を待つか、それとも今日は特別に空軍のレーダーオペレーターがいるので、GCAのサービスもできる」と言ってきた。

 GCAというのは、グランドコントロールアプローチの略で、エアクラフトの高度、位置をレーダーで把握して、管制塔がパイロットを滑走路まで誘導することだ。H氏は、「あなたの手さばきを見るよいチャンスだ」とGCAサービスを受けることに承諾してしまった。

 トロント国際空港から15マイルのところで、GCAオペレーターは10秒間隔で話しかけてくる。こちらは返答無用、ただそれにしたがって必死で操作をするのだ。
「CF FGT、ランウエイ05レフトに誘導します」
私は計器を05レフトのILS(計器で着陸するシステム)周波数にセットする。
「ランウエイ(滑走路)入り口までは5マイル、高度OK、左に修正」
 私は左足でラダ―(方向舵)を踏んだ。と今度は、
「高度ちょっと高すぎ、ILSはセンターでOK」
私はエレベーター(昇降舵)を少し押す。
「高度OK、右に修正」

 こうしてずっとオペレーターは話し続ける。気がつくと、セットしてある計器の針の動きは、コントローラーの指示より1、2秒遅れてそのとおりになる。
 なるほど、GCAとは正確なものだと思った。
 外は一面真っ白で、何も見えない。
 そろそろ着陸装置を出して、ファイナルチェック完了、滑走路の入り口から2000フィートのところにあるビーコン(信号灯)が鳴っている。

「ランウエイ上空10フィートです。数秒で接地します」
と言われたので、私は2個のエンジンを切って減速する。
 3つの車輪が地面に着いたのを感じた。機首のすぐ下に、センターラインらしい白い線がおぼろげに見えた。H氏はこの間ずっと黙っていたが、
「さすがに空軍の連中はうまい。ちゃんとセンターラインに乗っている」
と言って、感心していた。

 そこからさらにレブンスハンガーへ、ハンガーのドアから10フィートのところまで、まるで目の不自由な人を誘導するように、レーダーでガイドをしてくれた。
 私はこのときほど、一人のオペレーターを信頼してその指示に従ったことはなかった。
 何もかも無事に終わって、心底ホッとする。ラウンジでコーヒーを飲もうとすると、手がカタカタ震えて、しばらくコーヒーを飲むことさえできなかった。
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by eridonna | 2009-12-13 16:42 | 第5章 トロント国際空港