まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第6章 教官のライセンス( 5 )

教官の訓練 1972

 このころの私は、まだトロント市内にあるフランスの鉱山会社の秘書として働くかたわら、土、日曜日にはチャーターフライトをして、お金を稼いでいた。
 飛行機だけで食べていきたかったが、なかなか本雇いになるような仕事は飛行場では見つからない。
 その理由は、「これまでに女性を雇ったことがない」からであった。
 悔しかったが、カナダでさえ当時は、まだまだ女性に対する偏見はひどく、技術に対する信頼感なしという時代だったのだ。
 女は、チャーター便の仕事だけでは生活していくことが出来ない。
 
そこで、トロント国際空港から15マイルほど北西にあるブランプトンで、初心者を教える教官になるための訓練を開始した。
 教官に必要なのは飛ぶための技術はもちろんだが、それにもまして重要なのは、どうしたら生徒を安全に信頼できるパイロットに導いていけるか、ということであった。
 生徒との間にさまざまなやり取りが予想された。人間の心理を、その深いところまで理解しながら、教えていかなければならない。
 そこで、使用する英語の言葉自体を正確に選ぶ必要があった。私は母国語が英語ではないから、レッスンを1から終わりまで前もって書き出し、それを一生懸命記憶した。

 教官のライセンスを取ることができたのは、その年、1972年の10月だった。

 ところがこの教官(インストラクター)のライセンスを手に入れても、女性を雇うのにはまだ抵抗があるらしくて、翌年の1973年になるまで仕事は見つからなかった。
 2月に入って、運輸省の試験官のミラー氏が最初の仕事を見つけてくれた。オレンジビルという小さな町の草原のエアフィールドで飛んでいる飛行学校だった。
 そしてその1カ月あとにようやく、ブランプトンでも教官として、私を雇ってくれることが決まった。
 これで、どうやら飛行機だけで食べていくことができるようになったのだ。
 大喜びで秘書の仕事に終止符を打ったものの、ここで、初心者に教えるということはどんなにむずかしいかを、体験させられた。数年前のあのフランスでのビドウーユの忍耐力をよく思い出したものだ。

 ある日、オレンジビルの若者が、急旋回がよくできないから教えて欲しいというので、一緒に乗った。彼はかたくなって操縦桿を握りしめているので、45度の旋回中に私は、
「操縦桿から手を離してください」と言った。
 彼は目を丸くして私を見つめる。
 私は仕方ないので、操縦桿から彼の指を一本ずつはがすようにして取った。すぐに機首が落ちていくのが見える。
 そこで軽く手でエレベーター(昇降舵)を上げる。それですべてOK。
 彼はびっくりして、
「ああ、たったこれだけのことなんですね。なるほど。あなたはもう何年も教えているんでしょうね」と言った。
「いいえ、あなたが最初の生徒の一人ですよ」
と答えたら、彼はそれっきりやって来なくなった。
 本当のことを言うべきではなかったのかと私はかなり悩んだ。
  
 ブランプトンはトロント国際空港に近いため、エアカナダのパイロットたちが休みの日によくやって来ては、話に花を咲かせる。
 ある日、はじめて見る年配の男性が、私にセスナ150のチェックフライトをして欲しいと言って来た。
 ふだん、乗りなれていない飛行機に乗る場合、右側にチェックパイロットを乗せて、まず試しに一回飛ぶ。そして「確かにチェックフライトをした」というサインをもらってから、次に自分一人で飛ぶのが空のルールのひとつである。
 万が一、事故を起こした場合、このサインがあるかどうか、保険会社はまず必ずチェックするのである。だが中には、面倒くさがってこのチェックフライトを省略してしまう人もたまにいた。

 その男性の、セスナ150に対する質問が非常に専門的なので、私は思わず聞いてしまった。
「どこかのエアラインで飛んでいらっしゃるのですか」
「エアカナダです」
「で、いつもは何に乗っているのですか」
「747です」
 いちばん大きな飛行機に乗っている人がいちばん小さな飛行機に乗る。それでも慣れていない機種に乗るときはちゃんとチェックを受ける、その彼の態度に私は感心した。
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by eridonna | 2009-12-13 17:13 | 第6章 教官のライセンス
 
 ブランプトン・フライング・クラブでの教官としての生活も、次第に軌道に乗ってきた。

 朝8時から夕方6時まで、何回も空に飛び上がっては降りてくる、その繰り返しで忙しい毎日となった。ときには夜間飛行もあり、そんな日には家に帰るのが午後11時を過ぎてしまう。
 家に着くまでの30分のドライブの間につい居眠りをしてしまうほど、疲れていることもあった。

 でも好きな仕事をしているので、私は幸福だった。

 天気が悪くて飛べない日は、生徒が大西洋のサケを一匹持ってきてくれることもあった。カフェテリアで私がそれを料理すると、マネージャーや他の教官3人、そこに居合わせたラッキーな生徒たち、みんなでわいわいと食事をしながら本当になごやかなひとときを過ごしたものだ。
 はじめのうちは、女性教官に対する不安とでもいうか、一種の警戒心が何日か続くのが常だったけれども、生徒たちはすぐに私を受け入れてくれるようになり、そのうち大歓迎されるようになった。

 ▼ブランプトンの生徒の1人 ジョルゲン君c0174226_17513280.jpg 

 ある日、これから訓練に入るという新入生の初飛行の日であった。
 生徒は中年の男性で、さて飛んでみましょうと私が顔を出すと、彼は立派な三つ揃えのスーツという格好をしていた。
「あら、今日はどこかへお出かけになるところなのですか?どなたかの結婚式?」
と聞くと、彼は胸を張って答えた。
「いいえ、あなたと飛ぶからです」
私は恐縮してしまったが、
「今度からもっと自由に体を動かせる、スポーティな格好で来てくださいね」
とお願いした。
 生徒の数が増えるにつれて、昼ごはんを食べる時間もないほど、繁盛してきた。
 風の強い日や霧の降りた朝などに、やっと体を休ませることができる、という具合であった。

 ある朝、風がまだ強かったので、みんなでコーヒーを飲んでいると、新入生の一人がやって来て、「ぜひ飛びたい」と言う。
 彼の顔が少し赤みがかっていたのが気になったが、
「それでは飛びましょうか」とセスナ150に乗り込んだ。
 彼と機内に入ってはじめて気がついた。なんと、お酒くさいのである。そこで、

「アルコールは何時に飲んだのですか」
「もう10時間以上たっています」と彼は答える。規則では8時間以内には乗ってはならない、ということになっている。私は一瞬、ためらった。
 風がまだ強いことがその一、生徒が二日酔いらしいことがその二、われわれパイロット仲間でよく言われることに、悪条件が3つ重なると雪だるま式にトラブルがふくらんで そこから逃げられなくなリ、致命的な事故を起こす、というものがあった。

 私は2、3分考えてみたが、せっかく飛行機に乗ってしまったのだから、ショートフライトくらいなら、と思って出発した。
 案の定、上空では40ノットの強風に吹き飛ばされ、やっとランウエイ33に入る進入路に乗ったが、進まない。向かい風で車のスピードより遅いのだ。5分ほどたって、やっと滑走路の入り口に達してホッとした。
 タクシー路に入り、どこか風の届かないところにパークしようとしてハンガーの裏にまわった。
 そのとき生徒が、何か言いたそうな顔をした。と同時に操縦桿を握っていた手に小さな感触があった。「しまった!」遅かった。
「左側に電柱が」と生徒がどんよりした目で私に言った。

 左翼の先を電柱にぶつけてへこませてしまったのだ。たったこれだけのことで済んだから幸いだったものの、これは明らかに私の判断ミスだった。
 悪条件が二つ。今後は、雪だるま式の一歩を踏み出さないように、第一の段階でとどまらなければ、と肝に銘じる。
 マネージャーには、私が翼の外板の修理代金を支払って謝った。

 それからしばらくして、教官の一人もいないストラットフォードという空港から「ぜひ来て欲しい」と誘われ、45マイル西の町に移動した。ここは演劇と俳優たちで有名な町だった。
 ここでは教官の仕事だけではなく、ガス会社に雇われて、天然ガスのパイプラインのチェックという仕事もすることになった。
 地中に埋めてあるガスのパイプラインに沿って、100フィート(30メートル)の低空で飛びながら、ガス漏れがないかどうか、チェックする仕事だ。
 漏れていると地上の草木が枯れているからすぐわかる。パイプはまっすぐ伸びているとは限らない。枝葉のように直角に曲がっていくラインもある。低いので、電柱に気をつけて飛ばなければならなかった。
 
 カナダの北からアメリカの国境に近いところまで、途中、どこかで給油はするが、一日8時間もぶっ続けに飛ぶのである。針葉樹の森や、荒れ果てた原野の上を飛ぶ。
 人っ子一人いない大地に、眼下に狼の群れが走っているのが見えた。

 この仕事は週に1回で月に3000ドルにはなったから、わりといいお金にはなった。だが毎週8時間、これをやるのである。
 一度、生徒の一人が飛んでみたいと言うので、一緒に乗せたことがある。
 練習の時は1時間しか飛ばないから、8時間のフライトというのは彼には相当きつかったようだ。降りたときにまっすぐ歩けないくらいで、まさか自分がこんなに疲れるとは思わなかったらしい。車の運転ができないから少し休ませてくれと言って、しばらく横になっていたほどだった。
 当時の私は、12時間までなら大丈夫、という自信があった。ずいぶんスタミナがあったものである。

 ストラットフォードは予告なしに突然よく雪が降るところで、駐車してある車や飛行機の雪対策で忙しい冬だった。
 どこの空港でも、それぞれ独特の問題があるものである。
 それに加えて、ストラットフォードでの教官の給料は決してよくなかったので、私はブランプトンに電話をし、再び雇ってもらえるかどうか、頼んでみた。返事はOK。たった2カ月で、私はまたブランプトンに戻ることになった。

 
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by eridonna | 2009-12-12 17:30 | 第6章 教官のライセンス
 さて、ブランプトンに帰ってみると、教官としての私の仕事は、また以前にもまして繁盛してきた。うれしいことに女性の生徒も増えてきて、にぎやかだった。

 その日は、小学校の先生であるD氏と一緒に2時間半のクロスカントリー飛行に出ることになった。全部で135マイルのコースで、他の飛行場に2カ所着陸する、というナビゲーション(航法)である。D氏は、
「私はこのあたりの地理に詳しいから、あなたに教わることはない」とおっしゃる。
「わかりました。何も言いませんから」と私は言って、一緒に飛び上がった。
 確かに彼はよくご存知で、きちんと第一コースを飛び、最初の空港コリングウッドに着陸。着陸してすぐ離陸するタッチアンドゴー、そしてまた飛び上がって第2コースに乗ると、次の目的地キッチュナーへと向かった。
 これもコースにピタリと正確で、コントロールタワーとの交信も満点。
 確かに何も言うことはなかった。キッチュナーを出て第3コースの帰途に着く。これも上出来である。二人とも空の上で黙ったまま、そろそろ2時間になる。

 前方の地平線にプランプトンのハンガーの赤い屋根が見えた。3500フィートの高度で飛んでいる。10マイル手前のジョージタウン上空でタイムチェック、すべて順調。
 ところが気がつくと、どうしたわけか、D氏の頭が不動でどこか1点を見つめたまま高度も下げず、無線ラジオとも話さずにいる。
 そのうちプランプトン空港の真上を通過してしまった。ハンガーやクラブハウスが機首の下に見えなくなった。私は、
「今どこにいるかご存知ですか」と、はじめて口を開いた。
「いや、あなたはご存知か」
と言うので、私はついいたずら心が芽生えて、
「いいえ、見当もつきません」
と答えてしまった。
 すると突然D氏は急旋回して、さっき通ったジョージタウンを目指して戻っていく。
「5分前にはここの上空にいたんだが」
と言いながら、機首を北東のブランプトンの方向に向けると、赤い屋根を見つけた。
「ああ、あそこがブランプトンだ」
とホッとした様子だったが、すぐわれに返って、
「あなたはずっとご存知だったんですね。笑ってください」
「さっき、私たちはブランプトンの真上を飛んだんです。でも最初に何も言わないと約束したでしょう」
と言いながら、私はとうとう我慢できずに吹き出してしまった。
自信がありすぎると、思わぬところで落とし穴にはまる、というお手本だった。

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 ▲日本からきた菅原君の初単独

 ブランプトン空港の特徴といえば、毎年3月も末近くなると、日が長くなるので冬の間凍りついた土がいっせいに溶け出す。
 午後には気温が10度C以上になるので、滑走路といっても、草がただチョボチョボと生えているだけの草原は、泥沼となる。
 そうなってしまったら、飛び上がるのも降りるのも至難の業だ。アスファルトの立派な滑走路が出来たのは、この年1974年の夏だった。

 3月も下旬のある朝、マネージャーのウオレス氏が、出勤した私の顔を見るなり、
「チイコ、(私のニックネーム)大変だ。今日はみんなして、5機のセスナをほかの飛行場に移動しなければならない。この高温では、2時間ともたないぞ」
と言って、教室内を見回した。
 私ともう一人の教官のマイク、それに生徒が数人。
 ウオレス氏の指示で、トロント市内に住んでいた私が、家に近いほうのキングシティ飛行場へ3機を、マイクは反対方向のトロント西部にあるグエルフ飛行場へ2機を、それぞれ移動することに決まった。

 さて、それでは生徒の中からもうすでに単独飛行を経験したものを探さなければならない。若い生徒が二人、私のあとについて来たので、
「東へ95度の方向に機首を向けること、南風なので、おそらくランウエイ16に降りることになると思う。たった18マイル(24キロ)の距離だし11分で着くのだから、あまり接近しないようにして私のあとについてくること」
などと説明して、自分の機に乗り込んだ。

 もうすでに地面は霜が溶け出して、やわらかくなりはじめていた。
 もたもたしているひまはない。5機のセスナ150は、出来る限り大急ぎで、ブランプトン空港から離陸した。
 私は東側3マイルのところで旋回しながら、あとの2機がついてくるのを待った。
 2番機がラジオで「私のあとについた」と報告する。3番機は上昇しながら「前方の2機を確認した」と言ってきた。

 3機とも800フィートの高度で100マイルのスピード、一列につながって10分ほど飛んだ。直接進入して、無事キングシティ空港に着陸。
 私は南端にパークして、あとの2機を見た。2番機も3番機も同じように問題なく着陸して、3機が並ぶ。やれやれ、何とか終わった。

 マネージャーか誰かが車で私たちを迎えに来てくれるのを待っていると、3番機の生徒が顔を真っ赤にして興奮して言った。
「初単独って、こういうものだったんですね!」
 私はギクッとして、彼の顔をまじまじと見た。
「あなた、まさか…、まだ初単独していなかったの!?」
「ええ、この次が初単独だって、教官が言ってました」

 生徒の多い学校だったことや、急いでいたことが重なって、こんな間違いが生じてしまったのだった。
 私は驚きとショックで一瞬、背筋が寒くなった。
 本当に、何ごともなく無事にフライトを終えられてよかったものの、そうでなかったら、どんな複雑な責任問題を引き起こしていたか、わからない。
 1週間後には、ブランプトン空港の滑走路も乾いてまた元どおりの草原になり、私たちの毎日も平穏を取り戻した。
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by eridonna | 2009-12-11 17:30 | 第6章 教官のライセンス

チャーターパイロット

 1974年は、私にとってはあわただしい年だった。
週のうち5日間はブランプトンで教官をして、日曜と月曜はトロント国際空港でチャーター便の仕事、という忙しさであった。
 さらにたまに休日があると、トロント空港のスカイポートというハンガーで、双発機パイパーアズテックを借り、ブランプトンの生徒たちに双発機の訓練もしていた。
 前年の10月に、風邪が原因でマネージャーのウイルソン氏が急に亡くなられてからは、レブンス・ハンガーからは足が遠のいていた。

 あれは確か7月の半ば過ぎだったと思う。その日は教官の仕事は休みで、私は家にいた。
 昼過ぎに電話があり、アメリカのデトロイトまでチャーターの仕事があると言う。クライスラー社の車の部品を運ぶのだ。「どうしてトラックで運ばないの?」と聞くと、納期が過ぎていて間に合わないのだと言った。
 
 午後3時にハンガーに出向くと、すでに双発機アズテックが引き出されていて、荷物をいれるために中の客席シートが4つともはずされていた。自動車部品の入った大きな箱を天井まで一杯に積み上げ、飛び立つ。
 デトロイトは、アメリカではニューヨークのケネディ空港、シカゴのオヘア空港についで3番目に忙しい空港だ。
 私ははじめてなので、年長のパイロットのニコルソンさんがチェックパイロットとして一緒に来てくれることになった。
 デトロイトはIFR(計器飛行)でないと入れないのだ。

 デトロイトまでおよそ1時間半のフライト。トロントを出てから、私は高度8000フィートを保ち、西に向かった。まもなく雲の中に入る。
 オンタリオ州のロンドン上空で、位置報告。そこから20分もすると、もうデトロイト管制区だ。双発機の第1ラジオの周波数をデトロイトに合わせて待つ。

 なかなか呼びかけてこないので、しびれを切らしてこちらから声をかける。
「こちら、カナディアンCF―FGT」
すると、
「高度を6000フィートに落とせ」
とすぐ指示が来た。エンジンをしぼって高度を下げると、雲の中から出る。
 眼下に大都会が広がっていた。さすがに大きなデトロイトだけあって、管制官は息をつくひまもなく喋りどおしである。突然、
「カナディアンCF―FGT、ランウエイ23に着陸許可。交差しているランウエイの手前でストップを厳守せよ」
 冗談ではない。たった2マイルしかない距離のところから、どうやって6000フィートの高度を落とせと言うのだろう?

 私は緊急降下をした。エンジンをしぼり、サイドスリップ(横すべり)。着陸装置をまだ出していないので、警笛がやかましく鳴り続ける。 
 最初の交差点で完全ストップなんて、軽業師でなければ出来ないじゃないの、と内心思いながら無我夢中でブレーキを踏んだ。
 すると、私たちの前を、どこかのエアラインの大型機が横切って飛び立っていった。
 ああ、なるほどね、このためだったのか。
 やっと事情が飲み込めた。デトロイトの交通量はトロントの比ではないくらい多いのだ。ここの管制官は大変なのだった。
 
 税関を通り、またすぐに離陸。今度は15マイル先のデトロイト市営飛行場に飛んだ。
 本当の目的地はこっちだった。国境をまたぐので、まず税関のあるデトロイト空港に降りて、通関手続きをしなければならないのだった。
 クライスラー社のトラックに無事荷物を引き渡し、任務を終える。
 給油をして、帰りはカナダへ直行だ。トロントに戻って、ニコルソン氏は帰宅した。

 時計を見るともう午後9時を過ぎていた。私も帰ろう、夕食をどこで食べようかなと考えているところへ、なんとまたトラックがやってきた。
「すみません、もう一度デトロイトへ行ってください。まだ残りの荷物があったのです」
「ええっ、だって私、まだ夕食もすませていないのに」
 私は途方にくれた。依頼主は、
「僕も一緒に行って、荷おろしも手伝いますから、どうかお願いします」
と懇願する。仕方がない。また再び大きな荷物の箱を積みこみ、CF―FGTが滑走路に出たときはもう午後の11時を過ぎていた。
 すきっ腹をかかえ、昼間の疲れもたまっていて、おまけに外は真っ暗である。離陸許可をもらったのに、おたおたしていたらしくて、
「CF―FGT、もし滑走路が見つかったら、離陸してもよい」
と管制官が笑いながら言うのが聞こえた。

 さすがにもう真夜中を過ぎているデトロイト空港では、昼間のときとは違って入ってくる飛行機も少なく、着陸も離陸もスムースであった。
 再び市営飛行場に到着。昼間と同じことを繰り返し、荷物をおろし、給油をし、さてまた1時間半かけてカナダに帰る。
 若い依頼主は私の右側にすわって、ずっとタバコを吸いつづけた。煙のおかげで私は自分が燻製になった気分だった。

 ロンドン空港のあたりで、また位置報告。今夜のトロントの管制官は、私に教官用の訓練をしてくれたチャーリー君だった。会話も多少、オフィシャルではなくなる。
「ロンドンの今のお天気はどうだい?」
「上を見ても星は見えないし、下も真っ暗よ」
 ずっと雲の中を飛んでいるのだった。

 トロントの10マイル手前から、ランウエイ05Rへのアプローチに入った。高度1830フィートでビーコンを通過。ランウエイ入り口まではあと3・9マイル。
 ふと計器を見ると、ILS(計器着陸システム)の位置を示す針が大きく左へ動いているではないか。滑走路のセンターラインを示すビームよりも、右にそれて飛んでいるのだった。
 この位置で修正は不可能。私は自動的にエンジン全開、再び上昇した。

 アプローチのやり直し。今度はチャーリー君がビーコンまで誘導してくれた。私は全身に残っている力をかき集めるような気持ちで、ILSの針を見つめながら、高度を下げていく。
 もう地上から300フィートしかなかった。だが前方は真っ暗で何も見えない。

 どうしよう、代替飛行場へ行こうか……。ふと、5つだけ数えてみようという気になった。
 1、2、3……、あっ! まぶしいほどのトロントの夜景が目に飛び込んできた。いきなり雲の下に出たのである。地上から200フィート。
 ああ、助かった。

 どうも、朝早く発生する霧のようだった。時計は午前4時を過ぎていた。
 もう心身ともにクタクタで、やっとのことで家にたどり着いたときは、朝の6時になっていた。ゆっくり休む間もなく着替えをすると、8時からブランプトン空港で生徒の訓練をするために、私は再び家を出た。
 生徒と乗っている間、一日中私はうつらうつらしていたようだ。
「そんなに眠そうにしているなんて、一晩中、いったい何をしていたんです?」
とある生徒からは怒られてしまった。
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by eridonna | 2009-12-10 18:24 | 第6章 教官のライセンス

究極のライセンス

 1974年、この年、私はいよいよATR(定期航空操縦士免許)に挑戦することにした。

 パイロットのライセンスの最高クラス、国内線や国際線の定期便のパイロットになるには、このライセンスを手に入れなければならない。カナダでは定期便のキャプテンもコーパイロット(副操縦士)もATRをもっている。

 1970年代までは、JALなど日本の航空会社でもまだまだ外国人パイロットが多かった。このATRを持っている日本人パイロットが少なかったせいである。
 もちろん日本では女性は皆無、カナダでもATRを持っている女性パイロットはまだほとんどいなかった。
 このライセンスの試験を受けるには、当時は1500時間以上の飛行記録とIFR証明が必要だった。私は教官とチャーター便の仕事がフル回転で、ひと月に平均すると50時間、多いときには100時間も飛んでいたので、この飛行時間の条件は難なくクリアしていた。
 私の飛行時間は、当時でも1500時間をゆうに超えていたのだった。(現在ではカナダの労働規定で1日8時間まで、と決められている)

 だがそれだけ空の上を飛んでいるということは、裏返していえば、地上で勉強する時間がない、ということでもあった。

 ATRの筆記試験は、学科の試験が4科目、それぞれ3時間ずつあるのである。最初の科目は航空法規、二つめは航空力学、三つめが気象学、そして、最後が航法であった。
 私は1週間に1科目ずつ筆記試験を受けていったが、これにはさすがの私も相当に神経をすり減らし、ノイローゼになった。
 4週目になったときには、食欲もない、水すら飲めない、眠れない、という症状になってしまい、とうとう医者のところに出かけていった。

「胃の具合が悪くて気持ち悪いのです」
 まるでつわりの症状のようだと言われたが、身に覚えがない。ドクターは私に何時間くらい空を飛んでいるかと確かめると、処方箋をくれた。
そこには「3日間何もせずに寝ること」と書いてあった。
 とにかくこれは医者の命令なので、私は会社に3日間休みをもらい、家に帰ってぶどう酒を一杯飲むと、2日半、こんこんと眠りつづけた。

 ATRの試験は全科目において、70パーセント以上を取らなければならない。
 万が一落ちても、ひと月たてばまた受けることが出来るので、2、3回受験して合格、という人もよくいた。ふたを開けてみると、私は3科目ですべて70点以上を取ることができたが、最後の航法で69点という点数が出た。
 ところがよく調べてみると、持ち込んだコンピュータのミスによる単なる計算違いとわかった。「もう1回試験を受けてもいいか」と聞くと、OKと言う返事。そこでひと月待たずに翌日再試験を受ける。その結果、もらった点は80点であった。

私はATRに合格した。

 
 9年前、フランスのポール・ティサンディエ校でふりあおいだ山の頂上に、とうとうたどり着いた、という思いで一杯だった。
 雲がはるか下のほうに見える。これ以上登れないところまで、登ってきたのだった。

 それは、「私でもやれば出来るんだ」という、すがすがしい喜びであった。
 私は学校も中退しているし、いつもどこかで自分の力を疑っていたところがある。
 
 私には何が出来るのだろうか。私の才能とはいったい何なのだろう…。
 
 これまで努力しても手に入らないものもたくさんあったから、敗北感だってどこかに幾重にも積み重なっている。

 でも、好きなことなら、人間は相当がんばれるんだ、と思った。
 そのためにお金も使い果たし、家族からも遠く離れ、ほかのさまざまなことも犠牲にしてきたかもしれない。
 でも私は、生まれたときにもっていた自分だけの何か、自分が天から授かっているもともとの力、それを使わないのは、何かに対してずっと申し訳ないような気がしていたのだ。
 山の頂上にたどり着いた喜びとは、「自分」というものをフルに使って、何かをやり遂げた喜び、なのだった。

 ただここまで登るには、若さも必要だったと思う。
 どうせやるなら続けざまにやってしまわないとダメだ、とわかっていた。
 山に登るには7合目くらいがいちばん苦しいのではないだろうか。途中で少しくらい休んでもいいのではないかと何回も誘惑にかられた。が、そのたびに、一気に駆け上がらないと出来なくなると、自分に言い聞かせていたのである。
 あと5年遅かったら、私は果たして出来たかどうかわからない。
 ATRを取ったとき、私は43歳になっていた。

 ほかの誰でもない、「自分」に対する責任を果たしたと言う意味で、私は大きな解放感に包まれた。

 レブンスハンガーの昔の仲間にライセンスを見せに行った。デイヴ君もルイス君もとても喜んでくれた。このときもまた誰かが、
「チイコが自分で印刷したんじゃないの?」などと冗談を言ってからかった。

 
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by eridonna | 2009-12-09 18:24 | 第6章 教官のライセンス