まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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カテゴリ:第7章 BC州のカレッジ( 8 )

カレッジの教官になる

 そこで誰かが、ブリティッシュ・コロンビア州(BC州)の州立の専門学校の航空部が教官を募集している、ということを教えてくれた。新聞の広告で見たと言うのである。
 私は早速電話で応募してみた。キャッスルガーという山の中の町にある、セルカークカレッジの航空部だという。
 数日もたたないうちに連絡があった。9月1日から、私はカレッジの教官として雇われることになった。

 さあ、大変だ、トロントからBC州に引越し、である。
 8月の半ばまでに現地に到着してアパートを探さなければならない。

 8月はじめ、ブランプトンの同僚やマネージャーに別れを告げていると、生徒の一人がやって来て、彼の母親がカルガリーのお兄さんのところへ行きたいのだけれど、私の車に同乗させてくれませんか、と聞いてきた。
 ちょうど、一人旅は居眠り運転をしそうで嫌だなあと思っていたところだった。それでは一緒に行きましょうという話になる。

 最後にスカイポートハンガーにも挨拶に行く。これまでよく双発機を借りていたオーナーパイロットのE氏に会って、
「未払いのものがあったら今、全部精算します。明日トロントを発って、BC州のキャッスルガーに行く予定ですので」
「おやおや、いい仕事でも見つけたのかね」
「はい、セルカークカレッジの航空部の教官です」
「なあんだ、仕事だったら、ここで僕が見つけてあげたのに」と言う。
「はあ、私は人にお願いするのが苦手の性分で。日本人によくありがちの……」
と、ここまで話したら、とつぜんE氏の顔色が変わった。

「あなたは日本人だったのか」
「ハイ、そうですが」
「僕はずっとあなたは中国人だと思っていたのだよ」
そして飛行記録書を手にとり、私のサインがムラカミとあるのを見ると、
「そうか、なるほどこれは中国人の名前ではないな」
E氏は少しアルコールも入っていたようだった。それまで穏やかだった彼の顔つきがゆがみ、
「僕はあなた方をとても憎んでいた。本当に、憎んでいたんだ」と強い調子で吐き出した。

 私は不意をつかれてたじたじとなり、言葉に詰まったが、勇気を出して問い掛けた。
「戦争中、あなたはどこにいらしたのですか」
「ビルマだよ。ビルマで、イギリス軍と日本軍は戦ったんだ。両方とも弾薬が尽きて、この素手でお互いに死ぬまで戦った」
と声をふるわせて言うのだった。
 彼は30年前の戦争を思い出していた。あの戦争の惨劇、そのあと何年も消えない恐怖や悲しみ。私が子どものときに感じた理不尽さを、彼はアジアの戦場で、兵士として体験していたのだった。
 憎しみと恐怖をいまだに忘れられない彼を目の前にして、私は心の中で願った。出来るなら私の前で全部吐き出してしまってください、そして、早く古い傷が治りますように……。
 
 けれども、私はかろうじてこれだけを言った。
「一部の政治家の決心した戦争に、罪のない国民がまきこまれました。
本当にひどいことをしたと思います。でもあなたが無事に生き延びられて、何よりです」
彼は少し、気を取り直したようだった。
「しかし、日本兵は強かったよ。なかなか降参しないんだ」
私に再び目を向けたときには、もうふだんのE氏に戻っていた。
「誰かBC州に知り合いでもいるのかね」
「いいえ、誰もいません」
「もしうまくいかなかったら、いつでもトロントに戻りなさい。僕が仕事を見つけてあげよう」
とまで言ってくれた。

 次の朝、車に荷物を、といっても最小限度の衣服や食器、それに航空関係の資料などを全部乗せて、生徒の母親を迎えに行った。
 二人して、まるで休暇にでも出かけるようにはしゃぎながら、住み慣れたオンタリオ州をあとにした。
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by eridonna | 2009-12-08 18:39 | 第7章 BC州のカレッジ

大陸の東から西へ 

 ブランプトンの生徒の母親と私は同じ年代だった。
 それまでは見知らぬ者同士なのにとても気が合ったらしく、この長いドライブ旅行でも、お互いにさほど疲れなかったと記憶している。
 彼女は少し貯金があるから、ガソリンとモーテル代を半分払うといって聞かなかった。私は、キャッスルガーに着けば仕事が待っているので心配しないように、と彼女に言ったが聞き入れない。グレイハウンドバスで行くよりもこの方がずっと楽しいから、と言うのだ。
 3日間の移動にかかる経費が半額で済むので、私は内心うれしかった。

 何かを計画して、当然のように必要な出費を覚悟していると、まったく予期していない人から助けてもらうことがある。フランスでもカナダでもたびたび経験した。
 どこかで誰かに守られているような、そんな気がしたものだ。

 BC州はカナダのいちばん西の端の州だ。キャッスルガーまでは、トロントから西に向かって大平原を越え、さらにロッキー山脈を越えて行かなくてはならない。
 まずトロント地区からそのまま北上して、ジョージアン・ベイに沿って、パリ―サウンドを通り、鉱山町として有名なサドベリーへ。
 五大湖の北のへりをたどるように、ブラインドリバー、アメリカとの国境スーサントマリーを過ぎる。海のように大きな五大湖のこのあたりには、いたるところに美しい島々が点在し、ドライブも楽しい。

 ここには水上飛行機の基地がたくさんある。
 夏はブッシュパイロット(人口のまばらな土地を飛ぶパイロットたち)の天国で、彼らは冬にも単発の飛行機にスキーをつけて先住民の部落に飛んでいく。観光や測量など需要はあるが、仕事としては決して多くはない。
 国道沿いにある小さな村で一泊した。
 
 翌日、五大湖の中でいちばん北にあるスペリオル湖に沿って、サンダ―ベイに到着。
 ガソリンスタンドで止まって車から外に出たら、8月だというのに、すごい寒さだった。大きな寒暖計の形をした看板が立っていて、そこにはマイナス79度Fと書いてある。よく見るとカナダでいちばん寒い場所、という表示があった。
 ここは北緯48度22分。カナダの中では南にあるのに北極圏よりも寒いとは、特別な気象条件でもあるのだろうか。
 一日以上もドライブしているのに、オンタリオ州から出ることが出来なかった。
 なんという広さなのだろう。

▼1962年型マリブでBC州へ移動。c0174226_1995120.jpg

 2日目、やっとマニトバ州に入り、フオートフランシスで時計を1時間遅らせる。
 ケノーラの町で休憩してはじめてレストランに入った。それまではピクニック気分で、道端で缶詰やパンなどを食べて過ごしていたのだ。
 この街はほとんど先住民の町であった。

 そしてマニトバ州の州都、大都会のウイニペグに着く。ここで2日目の夜を迎えた。
 翌日はトランスカナダハイウエイNO1をひたすら西へ。この道はカナダの西の玄関バンクーバーと東部を結ぶ、大陸を横断するハイウエイである。

 サスカチュワン州に入る。緑色の小麦畑が、見渡す限りどこまでもどこまでも広がっている。走っても走っても景色が変わらない。これがカナダの大平原なのだ。
 地平線まで続くこんなにまっすぐな道を走っていくと、ついついどんどんスピードが出てしまう。ムースジョー近くでタイヤが破裂してしまった。運の悪いことに日曜日である。
 仕方なく応急処置で予備のタイヤを自分でつけたが、この日はムースジョーで一泊することになった。翌日やっと見つけた店で新しいタイヤを取り替えて、また元気に走り出す。

 カナダでは夏は日が長い。
 夜の10時過ぎまであたりは明るく、私たちは走り続けた。

 3日目、ついにアルバータ州に入る。メディスンハットを通り、時計をまた1時間遅らせた。
 夕方やっと、カルガリーにいる、彼女のもう一人の息子さんの家に到着。夕食をいただいたあと、彼女と抱きあって別れを惜しみ、私は一人で先を急ぐ。

 南回りでハイウエイNO3を通って、いよいよロッキー山脈に入った。
 谷間の中を走るこのハイウエイは、つづら折りになって右へ左へ、さらにアップダウンもかなりある。私はアルバータ州側の小さな村のモーテルで一泊して体を休めた。

 4日目、BC州の州境を超える。
 昼前にはとうとうキャッスルガーに着いた。コロンビア川のほとりに広がる小さな山あいの町。 人口は近郊に点在する集落を含めても1万人もいないにちがいない。アメリカとの国境までは車では1時間もかからないだろう。のんびりしたところだ。

 まずは空港を探しに行く。エアポートという道路標識にしたがって行くと、すぐにわかった。
狭いすり鉢型の谷間の底にある、1本の滑走路。そしてそのまわりには、8000から9000フィートの山々が空港を囲むように連なっていた。

 ショックが私を襲った。こんな遠くまでやって来て、カナダでも最悪の条件のエアポートに就職するとは、思ってもみなかった。
 これでは生徒に教えるどころか、まず私自身が、マウンテン・フライング、つまり山岳地帯の飛行訓練をしなければならないではないか……。

 最初の日から、私はキャッスルガーに来たことを後悔していた。
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by eridonna | 2009-12-07 18:52 | 第7章 BC州のカレッジ

熊のいる飛行場で

 9月1日になって、セルカークカレッジの新学期が始まった。

 私は23人もの優秀な生徒に接して、ともかくここに来た以上はやってみよう、という気持ちになっていた。
 この航空部のスタッフは、カナダ空軍を引退したキャプテンが二人、民間航空からの教官が私をいれて4人。使用するエアクラフトは、セスナ150が3機、単発のパイパーが2機、そして双発のビーチクラフトトラベルエアが1機。

 これで生徒にコマーシャルライセンスと、双発機でのIFR(計器飛行証明)を1年間で取らせて卒業させる、というかなりハードなコースだった。
 卒業生は成績の順にエアラインに就職できるというルートがあって、はじめからそれを視野に入れた訓練をするのである。
 
 ある朝8時前に飛行場に出かけていった。
 生徒が集まる詰め所に行ったが、姿が見えない。ランプ(操作場)を見ると、パークしてあるセスナ1機の中に人影が見えた。
 私は外に出てランプを横切り、セスナの右ドアを開けた。

「何をしているんですか、ミスターC、出発前の指示は詰め所で行うはずでしょう?」
 するとC君は何かにおびえた顔つきで、
「く、く、……熊です」と言った。私は急いで右座席に入ってドアを閉めるなり、
「ど、ど、……どこに?」

 朝7時ころに、C君がセスナの点検をしていると、突然黒い熊があらわれ、こちらに走ってきたと言う。彼はあわててセスナの中にはいったまま、怖くて外に出られなくなってしまったのだ。
 まだ熊がそこらをうろうろしていないかと、しばらく待って私もまわりを見回したが、熊はもうよそへ行ってしまったらしかった。

 キャッスルガーはどこにでも熊が出没する場所だった。
 熊といっても非常に獰猛で危険な灰色熊(グリズリー)から、むやみに驚かさなければ危険の少ないブラウンベアまで種類はいろいろだが、とりあえず、私はその日から、ウインチェスター銃を買って、車の中に入れて飛行場に通うことにした。
 当時は、毎日夕方になると町はずれのごみ捨て場が、熊の一家の食堂になっていたものだ。
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▲キャッスルガー空港 8,000フィート上空から

 秋もだんだん深まってくると、たしかにこのあたりの山々の姿は美しく、私はカナダの大自然の贈り物を楽しんだ。

 10月にもなると、フライト中に、よくカナダガンのV字型飛行の編隊に出会った。
 あるとき、カナダガンの群れが3500フィートの高さを飛んでいた。そこで私たちは何のためらいもなく、彼らの上に出て、4500フィートにのぼった。
 すると突然ものすごい上昇気流に乗せられ、飛行機は毎分1000フィートで急上昇、私はすぐにエンジンを最小にしぼって機首を下げろ、と生徒に指示した。
 それでもまだ上りつづける、と思った次の瞬間、今度は毎分1000フィートの下降気流に乗って落下。エンジン全開、機首を上げる。それでも飛行機の高度は落ちていく。
「カナダガンの群れがなぜ3500フィートで飛んでいるのか、理由がわかった」と私は生徒に言った。彼らは上空に気流の乱れがあるのをちゃんと知っていたのだ。

 「谷の真ン中の方へ、移動してみたら」と提案する。
 ふと生徒の指を見ると、手が固くなって指の節が真っ白になっていた。強い回転気流(マウンテンウエーブ)に巻き込まれたらしい。
 左翼が上がり右翼が下がる、かと思うと次の瞬間は左翼が下がり右翼が上がるという具合で、生徒は補助翼を使って何とかしようとしていたがタイミングが悪い。
 ついにはほとんどさかさま状態になってしまった。
 私はとうとう生徒から操縦桿を奪いとると、キャッスルガーの北方にあるネルソンの上空から一旦南下して、西風の吹かない谷間を選んで飛んだ。
 アメリカとカナダの国境まで出て、それから北上。約40分にわたる苦闘の末、キャッスルガー空港に帰った。
 ふだんは吸わないタバコを、誰かに1本もらって吸った。張りつめた神経を休めるため、そんなものが必要になるほど、その日はおそろしく疲れたのだった。

  それなのに次の日、教頭のU氏に呼ばれて、「なぜ操縦桿を生徒から取り上げたんだ」と叱られたのである。私は「生き延びるためです」と答えるしかなかった。
 事情を説明するため、キャッスルガーの気象観測所に問い合わせた。
 すると、ちょうど昨日の同じ地域で、エアカナダのDC9機の乗客の一人が座席から投げ出され、頭に傷を負ったと言う。
 それほどの乱気流が出ていたという報告がされていたわけで、私に関する疑いもすぐに晴れたのだった。
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by eridonna | 2009-12-06 17:02 | 第7章 BC州のカレッジ

山の中の軽飛行機

 キャッスルガー空港の特徴は、こんな狭いすり鉢型の盆地に、カナダ航空のDC9(30人乗り)が一日に2本もやってくるということだった。
 私たちのように小型機で訓練をするものは、その到着時間をわきまえて、なるべく避けるようにしていた。
 というのは、この狭い飛行場近辺に大型機が1機入ると、ほかの飛行機の入るスペースがもうないのである。

 運悪くかち合ってしまっときには、私たち小型機は8000フィートの高さで上空にやってきて、DC9が着陸したのを確かめてから、らせんを描くように降下して着陸態勢に入る。
 このときはもちろんラジオが必要で、大型機と同じ周波数に合わせてその到着を確認するのである。
 困るのは、ときたま20マイル北東の町、ネルソンから谷間に沿って3500フィートの低空でキャッスルガーに飛んでくるキャプテンもいることだった。セスナに乗っている生徒に「5500フィート以上を保っていてくれ」と話し掛けるキャプテンの声がラジオから聞こえたものだ。

 ある午後のこと、3機のセスナが全部出動してそれぞれ訓練に出た。
 1機は南へ、2番機は東へ、そして3番機は北へ、それぞれが狭い空でかち合わないように別々の方角に飛ぶ。
 私は北に出て、1時間の訓練を終えて予定よりも少し送れて空港に戻った。
 今日の課目はスローフライト、最低限のスピードで飛ぶ訓練だった。フラップを20度出して60マイル以下のスピードでゆっくり景色を見物しながら、低空でアプローチするのである。
 あと2分の一マイルで滑走路入り口、というときに、DC9が一機頭上を飛んだ。ひやっとしたけれども、幸いなことに乱気流(タービランス)はなく、無地に着陸。
 
 詰め所に戻ってコーヒーを飲んでいると、チーフインストラクターのN氏がやってきた。
「心配することはないよ。エアラインのキャプテンも、こんな小さな飛行機で生活を立てている我々の気持ちにもなってもらいたいものだ」
「心配することはないって、いったい何のことですか?」

 私はきょとんとして質問した。さっぱりわからなかった。
「君は聞かなかったのか。キャプテンが着陸やり直しで、さんざん文句を言っていたのを」
「いいえ、何にも聞こえませんでしたよ」
 私たちはすぐに立ち上がって、私が載っていたセスナの点検に行った。
 案の定、ラジオが故障していたのだ。知らぬが仏、の出来事だった。

 山岳地帯の軽飛行機の航法(マウンテン・ナビゲーション)は、平らなオンタリオ州とはまったく違っていて、とてもむずかしいものだった。
 雲の中に入ったり山の近くを飛んだりすると、山にぶつかる恐れがあるため、いつも「有視界飛行」(VFR)をしないと危険だった。
 つまりそれは、命が惜しければ、「気象条件のいい日に飛ぶ」、ということなのだ。

 キャッスルガーの谷から西に向かい、次のオカナガン湖周辺の谷へ出るまでには、7500フィートの山を3つ、越えなければならない。
 一直線なら距離は90マイルのコースだから、時速100マイルで飛べば54分で着く。だが、キャッスルガー空港からまず9000フィートの上空に達するまでの時間を加えると1時間と10分になる。
 しかし9000フィートの高さで長く飛ぶと、高山病と同じで空気が希薄なために、疲れてしまう生徒がいる。(軽飛行機では1万フィートを30分以上飛んではならないという規定がある)。
 
 そこで少し南にまわって、山の低いところを選んで6500フィートで飛ぶと、コースは140マイル、所要時間は1時間半になる。
 また谷に沿って飛ぶ場合は必ず右側通行で、反対側から来るトラフィックとぶつからないようにするというルールもあった。
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 ある朝よく晴れて、西風のないとてもいい天気の日だった。
 私と同乗の生徒、さらに単独飛行の生徒の2機がオカナガン湖ほとりのペンティクトン空港まで飛ぶことになった。
 南回りのコース、トレイル市の上空で右に折れて、アメリカとの国境に沿って西に向かう。グランドフォーク、オソヨ市を見て右に曲がり、オリバーの上空にさしかかる。ここからペンティクトンまでは、機首をずっと北に向けて谷の中を進むのだった。

 いつか経験したような恐ろしいマウンテンウエーヴは、山に直角に当たる西風が引き起こすものだが、今日はその西風の心配もなかった。

 ところが、生徒と二人外の景色を見ながら飛んでいると、
「なんだかちょっと変です」と彼が言った。
「まあ、ほんとだ、景色が反対側に動いているわ」
 私はすぐにマイクロフォンをつかむと、「ペンティクトンタワー」を呼んだ。
「地上の風はどのくらいですか」
「地上の風は北から75ノット。7000フィートの高度では、100ノットと予想されます」と答えてきた。

 どうりで、強い風に吹き流されて、2機とも後方に引っ張られているのだ。後ろの生徒は黙って何とか私たちについてきている。そこで高度を4000フィートに下げ、山のほうに近寄って飛んだ。少しずつだがのろのろと前進する。
 ようやくペンティクトン空港の滑走路の入り口にたどり着き、エンジンを入れたまま、ヘリコプター式にタッチダウン。2機とも滑走路の南端でエンジンをかけたまま、ブレーキも踏んで、風の鎮まるのを待った。

 20分ほどたつと、風が35ノットに落ちた。よし、これなら飛べる!
コントロールタワーは「その場所から離陸してよい」という許可をくれた。面白いことにエンジン全開、機首を上げただけでふわっと離陸してしまった。
 帰りは風に乗ってあっという間にオリバー上空に達し、あわてて左に曲がり、来たときと逆方向に今度は東へ向かって、無事帰還した。

 オカナガンの谷は、ペンティクトンとオリバーの間に南北に走っている。その同じ方向に風が吹くと、谷の中央は一時的に風が強くなるのである。ちょうど水道管の中を通る水と同じ原理で、パイプの中央がもっとも速く水が流れる、というわけなのだった。
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by eridonna | 2009-12-05 17:30 | 第7章 BC州のカレッジ

訓練も命がけ

 ある日、生徒のC君が同じコースの航法を単独で飛行した。
 私たち3人の教官はキャッスルガー近辺の訓練を終え、午後4時にはみんな詰め所に戻っていた。4時半になったがC君だけが戻ってこない。手の空いている教官はみんなパークしてある飛行機に乗って、彼を探しに行くことになった。

 私がちょうど自分の飛行機のプロペラをまわしだしたときに、C君のセスナが空から降りてきた。しかし着陸はできてもガソリンが空っぽだったので、みんなで手で押してランプに戻さなければならなかった。

 彼の話によれば、ペンティクトン空港を無事に出て、帰りにオリバーを見たことまでは覚えていたと言う。ところが、ふと下を見るとオカナガン湖がいつもよりなんだか小さい。どうしたのかと思いながら左に曲がり、いつもの谷を探した。
 すると山々の形が見覚えのないはじめて見るものだった。不安がつのった。
 しかもガソリンはあと4分の1を示している。どこかで給油しなければと思っていると、滑走路が見えた。どこでもいい、とりあえず降りてみよう。
 近くに電話ボックスがあったので電話機を取り上げてゼロをまわす。

「ハイ、オペレーターです」と女性の声。
「すみませんがここはどこですか」と彼は聞いた。
「どこを探しているのですか」とオペレーター。
「キャッスルガーです」
「キャッスルガー? 聞いたことがないですね」
「あなたの電話局はどこにあるのですか」
「ここはワシントン州のリパブリック町です」

 C君はこれを聞いてパニックになった。フライトプランも立てずに、許可なくアメリカ側に降りてしまったのだ。近くに誰もいないのを幸い、彼はすぐにその飛行場を飛び立ち、ともかく機首を北に向けた。  
 持っていたカナダの地図の外に出てしまっていたので、北に向かいながら必死で見たことのある景色を探したという。
 しばらくして見覚えのあるオールドグローリー山が前方に見えた。そのいかめしい形の頂上を見て「ああ、救われた」と思ったそうだ。
 ガソリンが完全に切れてしまう前にキャッスルガー空港にたどり着いたのは、ラッキーとしか言いようがなかった。
 C君も、このフライトのことは一生忘れないはずである。

▼セルカークカレッジ航空部の教官たちと
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 キャッスルガーにも春が来て、卒業の日が近づいてきた。
 コマーシャルライセンス用のフライトテストの日が決まった。最後の仕上げの段階に入って、私はふと気がついた。
 3、4人の生徒が自信過剰であった。自身満々で「俺はこんなものは簡単にできる」と思い込んでいる。パイロットにとって、そういう気持ちが実はいちばん危ないのである。何とかしないと、いつかあとで命取りになる危険性がある。
 ちょっと勇気のいる仕事だが、私は一計を案じて、やってみることにした。

 それは、「生徒と同乗した折に、離陸して地上500フィートのところでわざと無駄話をしている間に、左手で燃料タンクの栓を締めてしまう」というものであった。
 思ったとおり、4人中4人とも、同じような反応を示した。
 飛行機は燃料を絶たれて数秒で、上昇力も水平飛行の力も失ってただ滑空するだけになる。4人ともスロットル(燃料弁)を何回も全開して、ガソリンを引き出そうとした。数秒間試みたあと、私のほうを振り向いて「これでおしまい」と言った。

「エマ―ジェンシイ・ドリル(緊急時の訓練)はどうしました?」と私は聞く。
 下を見ると、民家の屋根が迫ってきていた。彼は急に自分を取り戻すと、教えられたとおりのドリルをやった。

「スイッチはオン。マグネットもオン。ミクスチャー(混合)はリッチ。カブレターはオフ。燃料タンクの栓は……、あ、閉まっている」
 トラブルの原因を見つけて明るい顔、が、すぐに険しい顔になって「あなたがやったんだ」と責めながら、ガソリンの栓を開く。
「そうです。でも何が起こってもまず最初にエマ―ジェンシイ・ドリルをやることを忘れないでね」
と言っている間にエンジンは再び全開、エアクラフトは上昇しはじめた。
 下を見ると200フィートもなかった。ほっとしたのは、私だった。

 このショック療法を試みてから数日後、生徒同士が二人でナビゲーション飛行に出て、その帰りにキャッスルガーから数マイルのところでセスナのエンジンが止まった。
 一人の生徒がもう一人に向かって、
「チイコの真似なんかしないでくれ」と言うと、
「彼女は何をやるんだ? 僕はいっしょに乗ったことなんてないよ」

 二人とも青くなって、あわててエマ―ジェンシイ・ドリルを行った。だが何の原因を見つからず、エンジンは止まったままだった。
 幸いにも高度が9000フィートもあったので、かろうじてキャッスルガーのランウエイ15の手前、10フィートのところまで滑空することができ、無事着陸。思わぬところで本番の緊急事態になってしまったのだった。

 私も一度だけ、空中でのエンジン停止、という緊急事態にであったことがある。
 まだブランプトンにいたころ、セスナ150でオタワ付近を飛行中、巨大な雷雲のうしろを迂回していたときだった。
 カブレターがひどく着氷し、おまけにカブレターヒーターも故障したために、突然エンジンが止まってしまったのである。
 このときは6000フィートの上空から滑空し、近くにあったペンブロークという空港に無事着陸することができた。

 生徒を訓練するとき、このエマ―ジェンシイの操作がもっとも困難な訓練だった。いかにして生徒に緊急時の実感を与えるか、苦心した。
 ということは、「本番の緊急事態」は最良のレッスンとなり、「着陸後生きて歩いて帰ってくるなら」、訓練は成功、というわけだ。
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by eridonna | 2009-12-04 17:54 | 第7章 BC州のカレッジ

危機一髪!

 5月も末になった。コマーシャルライセンスを取った生徒は、次々にバンクーバー近くのアボッツフォード空港へ、双発機の訓練のため移動した。教官も徐々に移動して、最後に私がキャッスルガーを出て、車でアボッツフォードへ移った。

 教官たちは3週間のモテル住まい。ほとんどの生徒はバンクーバー近辺に家族が住んでいるので住居の問題はなかった。だが24人の生徒に双発機がひとつでは、あまりにも訓練時間がかかりすぎる。
 そこで航空部の部長が私を呼んで、
「明日、エドモントンまで飛んで、もう1機の双発機をアボッツフォードまでフェリーフライト(空輸)してくれませんか。機種はパイパーセネカですが、あなたには経験がありますか」と航空券を手渡しながら、聞く。
 休日にバンクーバーまでドライブして乗っていた双発機が同じ機種だったので、
「はい、10時間ほどの経験があります」ということで、すべてOK。
 翌日の朝、私はカナダ航空でエドモントンへ飛んだ。

 エドモントンで降りて、同じ飛行場内を徒歩で5分ほど歩いたところに、パイパーの代理店のハンガーがある。
 セネカのオーナーが私を待っていて、すぐ一緒に乗り、エドモントン近辺で20分、この6座席200馬力のチェックフライトをした。
 そしてガソリンを満タンにし、天気報告書を受け取り、いよいよ一人で飛び立ったのは午後の1時ころだった。

 5500フィートの高度で有視界(VFR)飛行で南に下り、カルガリー上空に来て計器(IFR)飛行に切り替えた。コントローラーからは9000フィートに上昇せよとの指示、スプリングバンクの南で9000フィートに達し、山々の上にさしかかる。

 エアカナダのDC9が、1万1千フィートで同じ航空路を反対側に向けて飛行中。2000フィートの間隔ですれ違ったが、かなり近くに見えた。
 その後私は1万1千フィートに上昇する許可を得て、上昇。山の上は厚い雲で覆われ、ひどい乱気流だった。
 谷の上空に出ると雲はなく、まぶしいのでサングラスをつける。
 あんまり揺れるので、1万3千フィートの許可を求める。2000フィート上昇してみたが、あまり変わりがなかった。

 クランブルックスのビーコン(航空信号)が鳴る。ここでポジション(位置)の報告をして、キャッスルガーのビーコンまでの到着見積もり時間をコントローラーに告げなければならない。
 ところがどうしたわけか、足し算ができないのである。
 どうして、現在の時間(15分)に見積もりの27分が足せないのかしら? まごまごしていたら、クランブルックのコントローラーが催促してきた。ともかくこれ以上待たせることができないので、到着は50分過ぎ、と言ってごまかしてしまった。
 
 すると、同じ航空路を航行中のカナダ航空の便が「クランブルック上空で50分までホールドして待つように」という指示を受けているのが、同じ周波数のラジオから聞こえた。ちょっと悪いことをしたと思った。
 幸い、しばらく飛んでいると雲に大きな穴があいていて、見慣れたネルソンの谷間が見えた。コントローラーを呼び出して、計器飛行をキャンセル、有視界飛行に切り替えてキャッスルガー空港にアプローチすると伝える。

 雲の穴から急降下、おなじみのキャッスルガーに着陸した。ガソリンを入れ、フライトサービスステーションの事務所で次のフライトプランを立て直す。
 そのときになって、私は自分の声がうわずっているのと、激しい頭痛がするのに気がついた。 そうか、これは高山病にかかったんだ。
 空気の薄いところを長く飛ぶと、こういう症状が出るのだ。うっかりしていた。それだから、足し算ができなかったのだ。
 そういえば、機内には酸素ビンも見つからなかったっけ。

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▲翼の下にみえるコロンビア川 1万フィート上空から

 少し休むと体調も元に戻って、再び離陸。
 今度は、高度を落として1万フィートで有視界飛行をする。だがペンティクトンに近づくにつれて、雲は積雲となって、強い上昇気流で持ち上げられそうになる。これではとても1万フィートの高さを保持できない。

 困った私は、プリンストンの町を眼下に見ながら、思い切って雲の穴から雲の下へ出た。
バンクーバーへ出かけるときいつもドライブする、ハイウエイNO3が見える。それに沿って5500フィートの高さで飛んだ。だがすぐ4000フィートに落ちてしまう。行く手にはさらに低い雲がたれこめているのである。

 このハイウエイNO3は、マニングパークで左折し、すぐ右に折れるはずだ。
 高度3500、スピードを落とすためにフラップを20度出して、着陸用装置の足を出した。谷の中を低空で飛ぶと山裾が大きく迫ってきて、飛行機を操作するのに充分なスペースがない。
 左折する道の上に来た。すぐに右折の場所を探したが、見つからない。どんどん左の谷に入っていく。もう右折する機会がなくなってしまった。

 コンパスを見ると、南を指している。これではバンクーバーに出る方角ではなく、アメリカに入ってしまうではないか。さらに低く飛ぶ。
 2000フィート以下! 雲は低く、どこにも穴がない。
 双発機に乗って、120マイルの低速で山の中を、谷に沿って飛ぶのは最悪だ。遅い単発機ならまだしも……。

 ふと真下に湖が見えた。地図によるとすでに国境の南側で、ベイカー山の裏側とわかった。どうしよう、どこをどう飛んだらいいのか……。
 途方にくれていると、どこからともなく、小さな声が聞こえてきた。英語だった。

「Where the water goes, you may go.」
(水の通るところはあなたも行ける)

 そうだ、水はいちばん低いところを流れるから、とその声に心の中で同意した。するとまた小さな声が、

「But,where the highway goes , you may not.」
(だが、ハイウエイが通るところはあなたは行けない)

 確かにハイウエイNO3は、ホープ町に着く手前で峠まで登り道になっている、つまり雲はより地面に近くなるというわけなのか。

 口の中で、今聞こえた言葉を何度も繰り返しながら、燃料タンクを見た。まだ半分以上残っている。
 さっきの湖が小川となり、今はかなり太い川になった。その川が90度右に曲がった。川の流れに従って右折すると、野原に出た。だが視界は1マイルもない。
 やがて行く手の雲の下に、何かが細長くキラキラと光っているのが見えた。

 なんだろう、あれは……?
 えっ、あれは海? そうだ、海だ! 海の水が夕日に照らされて、雲に反射しているのだった。
 
 そう思ったと同時に、喜びと安堵で思わず叫んでいた。
「山岳地帯から出た!」

 これでもう山にぶつかる心配はひとまずなくなった。
 けれども相変わらず視界は悪く、もう2分の1マイルしか前方が見えない。アボッツフォードのビーコンの周波数に合わせ、計器の針に従って進んだ。
 小高い丘や電線に注意して、やっとのことで国境を越えてカナダ側に戻り、南からアボッツフォード空港にたどり着いた。

 当初の私のフライトプランよりも30分も過ぎていたので、コントローラーはもうダメかと思っていたという。
 あのとき、プリンストンを過ぎて、もし間違わずにちゃんと右折してホープに向かっていたら、私は生き延びられなかった。
 左折したまま南部をまわってしまったために、つまり、間違えたために、命が助かったのだ。

 そして、あの小さな声はいったい誰の声だったのか。私の声ではなかった。
 どう考えても不思議だった。

 ただひとつ、なぜか、確信したことがあった。

 それは、私の力で飛べたのではない…、ということだった。
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by eridonna | 2009-12-03 18:07 | 第7章 BC州のカレッジ

アメリカ空軍の基地へ

 そんな不思議な経験もしながら、私の教官生活は続いていた。
 次の年の2月、今年卒業する2年生と、去年の9月に自家用パイロットのライセンスをもたないで入学した1年生を連れて、ワシントン州スポーカンにあるアメリカ空軍の基地へ、見学に行くことになった。

 引率者は私一人、19歳~22歳 の35名の若者を2台のスクールバスに乗せ、生徒の中で1級のドライバーライセンスを持っている者が運転することになった。
 朝早く7時には出発、まだ2月のブリティッシュ・コロンビア州の山道には雪がたくさんあって、特に2級の道路は除雪も行き届かず、かなり危険なドライブであった。
 45マイル(約72キロ)のスピードでやっとトレイル、コロンビア・ガーデンを通り、低い谷を抜けてアメリカ側のノースポートに出た。

 このノースポートの町は、人口500人ほどの小さな村で、私はこの町の郵便局に私書箱を持っていた。あのころ、カナダポストがストライキをしていたので、日本からの手紙はみんなこのアメリカの郵便局あてに送ってもらっていた。
 母が送ってくれたお正月用の小包もここで受け取って、カナダ側に再入国するときには、税関でのりだのお餅だのを見せていちいち説明したものだ。

 国境の南は山も低くなり、雪も溶けて、ドライブしやすくなった。
 ハイウエイ25を南へ、ケトルフォール、コルビルを過ぎてスポーカン空軍基地に着いたのは午前11時前。
 私たちは小さなグループに別れ、あちこちを見学に散った。

 巨大な操作場(ランプ)にはボーイングB52が一列に並んでいた。
 その大きさに圧倒され、感激した。何しろジェットエンジンが8個もついていて、そばに立っている整備員がとても小さく見えるのだ。

 中に入ってコックピットを見学していたら、お昼になった。
 基地内の食堂に行くと、アメリカドル1ドルで何でも食べてよいというので、若い連中は大喜びだった。ステーキを3回も取りに行った者までいた。
 午後はボーイングのシミュレーターを使っての訓練をして、4時にはすべて終了となった。
 私は全員を集めて、夕方の7時までにはスクールバスに戻るように指示してから、市内の見物に出かけた。
 7時にバスに戻ったが、まだ誰もいない。
 7時半になっても生徒は一人も戻らなかった。
 いったいこれはどうしたことか、近くの警察の駐在所を探そうかと考えていたところへ、ドライバーのF君がのこのこ戻ってきた。

「みんなあそこのバーで無料のビールを飲んでいて、誰も帰ろうとしないんです」
「無料のビール? またそれはどうしてなの?」
「アメリカでは若い男はみんな軍隊に徴兵されていて、バーに来る男が少ないからです」と答える。
 
 私は半信半疑でF君についてそのバーに出かけて行った。
 中に入って驚いた。35人ともみんなそろってニコニコしながらビールのジョッキをあけている。とすぐにマネージャーがやってきて、「教官にもビールひとつ!」と叫ぶ。

「ありがとう、でもアルコールは飲みませんので」と断ると、いきなり目の前にジュースの入ったコップがあらわれた。
 この西部の居酒屋のマネージャーは如才がなかった。サービス満点という雰囲気である。まごまごしていると私まで長居をしてしまいそうであった。
 意を決して、私は口を開いた。
「バスは8時には出発します。それ以上は待ちません。もし残りたい人は、明日エアラインで自分でキャッスルガーに帰ること」
 マネージャーにお礼を言って私が外に出ると、文句を言いながらも、みんなしぶしぶついてきた。

 さてバスに乗ってからがこれまた大変だった。
 いつもは緊張しすぎるくらいの厳しい飛行訓練をしている連中である。それがビールを飲んで緊張がゆるみ、酔っ払って騒ぎ出した。
 さらに10マイルも行かないうちにバスを止めろ、止めてくれ!との大コール。
 そして全員がどやどやとバスを降りると、道端でみんな並んで立小便。寒いのも手伝って、それを何回か繰り返し、やっと国境についたのは真夜中の12時10分前だった。

 ぎりぎりセーフである。というのは、このパタソン峠にある税関は毎晩12時で閉鎖されることになっていて、それを過ぎると翌朝8時までアメリカ側で待たなければならないのだ。
 
 もうちょっとでカナダに戻れないところだった。
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by eridonna | 2009-12-02 18:26 | 第7章 BC州のカレッジ

ピッツメドウ空港 1976

 セルカークカレッジ専門学校は、2年で私との契約を終わりにすることに決定した。
 正直言って、私もほっとした。山の中での訓練を2年以上も続けるのは、しんどかったのだ。

 5月いっぱいで私はキャッスルガーを離れ、また荷物を全部車に積んで、今度はバンクーバーに向かったのである。
 以前よく飛行機を借りたスターロン・フライト社が、雇ってくれることになっていた。この会社は本部がバンクーバー国際空港にあり、支店が20マイル東のピッツメドウというところにあった。ちょうどアボッツフォードとバンクーバーの中間である。
 ピッツメドウは、小型機用の空港で、私はそこで主任教官をすることになった。

 生徒はバンクーバー市内から集めて訓練する、ということだったが、これがなかなか思ったようにいかない。
 バンクーバー国際空港から生徒を空輸すると、時間的にはスムースだが、訓練費用が割高になってしまう。そこでほとんどの生徒は車でドライブしてくるほうを選ぶが、たった20マイル(約32キロ)でも、一本しかないハイウエイはしょっちゅう混んでいて、時間がかかるのである。
 
 私は週2回の地上学校を担当して、生徒の数も20人以上はいた。
 しかし、このあたりは海岸に近いため雨がよく降るので、飛べない日が続く。たまに晴れると生徒があわてて学校に駆けつけるという具合だった。
 この地域のパイロットは、フレイザー川の右側を飛ぶ習慣がある。キャッスルガーで谷の上空を飛ぶとき、右側を飛ぶのと同じルールである。

 私はバンクーバー市内には住まないで、アメリカとの国境から3マイル北にある、海岸に面したホワイトロックという町にアパートを見つけた。
 静かで引退者が多い町だった。
 ちょうどそのころ、東京から友達の額田やえ子さんがやってきたので、1週間の休暇を取り、ロッキー山脈に沿ってジャスパー、バンフなどの観光地を二人でドライブ旅行した。
 
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▲東京から遊びにきた旧友の額田やえ子さん

 彼女が7月に帰ったあと、8月に入ると、このスターロン社の経営が思わしくなくなった。
 まず7月の給料の小切手が不渡りとなった。次には石油会社が現金で支払わなければ、ガソリンを給油しないと通告してきた。
 私から見ると学校は軌道にのっていて、生徒の数も多くなり、収入は充分あるはずだった。それなのに、本部で発行する小切手があちこちで不渡りになっていることが、だんだんわかってきたのだ。

 不安にかられながらも毎日飛び続けるしかなかったが、8月も末のある日、出勤すると秘書が私のところに飛んできて、
「大変です、ちょっと飛行機を見てください」と興奮して言った。
 わけがわからず、ともかくパークしてある3機のパイパーチェロキーを点検しに、ランプに歩いていった。
 すると1機のチェロキーの風防(ウインドシールド)に、たくさんの鉄砲の弾が当たっていて、穴があいていた。
 
 若い教官のD君をつかまえて、いったい何があったのか、問いただした。
 彼が言うには、空港の5マイル北で緊急操作をしているとき、突然一人の農夫が鉄砲で飛行機を打ったのだという。幸い、乗っていた生徒にはけがはなかったが、恐怖とショックで彼は2度と学校には戻らなかった。
 RCMP(ロイヤル・カナダ・マウンテッド・ポリス/カナダの警察組織)を通して、その農夫マクドナルドの言い分を聞くと、
「犬がほえたので、鳥だと思って鉄砲で打った」というものだった。

 こんなばかげた話があるかしら。
 教官D君の話だと、彼は地上200フィートまで降下したというが、鳥を打つ鉄砲の弾は200フィートの高さには届かない。もっと低く飛んだことは間違いない。
 やれやれ、どうしたものか。

 思い悩みながら教室の戻ると、秘書が泣きついてきた。今度は彼女の給料の小切手が不渡りになったから、何とかしてくれと言うのである。
 まさに、八方ふさがりであった。私の給料だってもちろんずっと支払われていないのだ。

 その日、ついに会社に電話を入れ、オーナーのJ氏と話し合いをした結果、1週間以内にあと始末をして私は辞める、と辞表を出した。
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by eridonna | 2009-12-01 18:37 | 第7章 BC州のカレッジ