まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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 1965年、5月末のパリ。ある晴れた土曜の午後。
 サン・ラザール駅から電車で20分、そこからバスで15分。エコール・サンシールという停留所で降りて、さらに10分歩く。このあたりはベルサイユ宮殿の近くで、緑の森のある美しい場所である。草原も一帯に広がり、付近には高い建物が全くなくて、ゴルフ場にももってこいのところだ。
 あっ、飛行機。
 草原の上を、一機の小型機が悠々と飛んでいる。
「いいなあ……」 私はその飛行機がうらやましくてずっと目で追いかけた。

 私が日本から脱出したのは前の年だった。
 10年以上続けたフランス大使館での秘書の仕事も、破格の高給だった外務省のフランス語通訳の仕事もすべてなげうって、33歳で思い切って日本を飛び出したのにはわけがあった。
 どうしても飛行機の免許がとりたい。私はパイロットになりたかったのである。
 
 日本で暮らしていては、その夢を実現させることは当時は到底不可能に思えた。
 経済的にも大変なお金がかかる上に、普通の女性が飛行機の免許を取るなんてこと自体が、好奇の目で見られた時代である。心に描いた夢を現実のものとするためには、私はどうしても外国に出る必要があったのだ。

 日本で身につけたフランス語を武器に、ツテを頼って目ざすパリに到着したものの、一人で何とか生活できるような余裕が生まれるまでは、とても飛行機の免許どころではなかった。フランスに来てから、すでにあっという間に8カ月あまりが過ぎていた。
 
 いつか自由に空を飛びたい…。

 その願いをあらためてかみしめながら、私は歩き出した。私が向かっているのは、パリ郊外のポール・ティサンディエ飛行学校だった。
 その昔、気球パイロットとして有名だったポールが、自分の名前を冠にして作った学校である。この学校のことは、フランス飛行連盟の紹介で知った。めざすクラブハウスから生徒らしい若い人々が出てきたので、一人の女性に声をかけてみる。

「あのう、ブラン氏はいらっしゃいますか?」
「ブラン氏? 知りませんね」 仕方なく、もう一人の青年の方に向かって、
「ブラン氏にお目にかかりたいのですが」とたたみかける。
「さあ、聞いたことないなあ、その人」
 どうしよう、途方にくれた私は、さらにもう一人の女性に向かって同じことを聞いた。
 彼女は「わからないけれど、あそこの格納庫で聞いてください」と言う。
 主任教官の名前を誰も知らないなんて、これは間違った飛行場へ来てしまったんだろうか。格納庫にたどりつくと、中年の男性が掲示板に何かを記入している最中だった。
「ここにブラン氏はいらっしゃいますか?」
「ああ、あそこで生徒と一緒にいる人がそうです」
 あとでわかったことだったが、この飛行場では、みんなしてニックネームで呼ぶので、誰もお互いの本名を知らないというわけだった。
 ともあれ「ブラン氏」、ニックネーム「ビドゥーユ」は、私をその場で生徒たちに紹介してくれ、チヨコはフランス語の発音ではショコになってしまう、呼びにくいなあとちょっと考えた末に、「マドモアゼル・カミカゼにしよう」と言ったのである。

c0174226_21251229.gifこの飛行学校の生徒はほとんどがパリからやって来る人たちだった。
 医者、会社の重役、秘書、看護婦など、あらゆる職種にまたがっている。ここでは誰が金持ちだとか、有名人だとか、職業は何かというようなことは問題にされない。つまり社会的な地位に対する偏見が一切ないという、当時としてもとても変わった場所だった。

 ここで重要なのは、その人は「単独飛行」をしたのか、その「単独飛行」を何時間経験しているか、ということ。それが常にみんなの話題の中心なのだった。
 
 週末になると、生徒はみんな、朝の9時前にはもう飛行場にやってきていた。
 次の週は、元看護婦で「プリュプリュ」と呼ばれていた50歳の奥さんが、私の滞在しているホテルに車で迎えに来てくれて、一緒に出かけることになった。
 まずは全員で「パイパーJ3」という小型機を格納庫から引っ張り出す。ビドゥーユの計画どうりに、練習する生徒の順番を決めていく。

 ビドゥーユともう一人の若い教官、そして単独飛行をする生徒の3機が、全部滑走路から出発した。そのあと残った生徒は椅子を持ち出し、風にそよぐ吹き流しの下で自分の飛ぶ順番を待ちながら、降りてくる飛行機の着陸の練習を見ている。
 一人の年配の生徒が、待っているほかの生徒たちに向かって
「今度は何回バウンスするか、掛けをしろ」
と言いだした。すると、それぞれに1回、2回、3回と掛けて、一人50サンチームの掛け金をカップの中に入れていく。
 さあ、降りてきたぞ、全員が滑走路に目を集中させ、「アン、ドゥ、トロワ…」とバウンス(飛び跳ねる)するのを数え、そして、勝ったものがお金をいただくのである。
 教官ビドゥーユの飛行機が降りてきた。10メートルくらいの高さからエンジンを切って、音もなく地上2メートル以下に機体を沈ませる……。同時に見物席の生徒たちが
「まだ、まだ、まだ……。あー、遅すぎた!」と一斉に怒鳴る。
 どういうことなの、と私が怪訝そうな顔をすると、みんなが言うには、ビドゥーユがそのように怒鳴ってる声が聞こえる、というのである。
 いや、機内の声が見物席まで聞こえるはずはないのだが、10時間も20時間も教官と一緒に乗っていると、もう彼の声が耳にこびりついてしまうのだという。

 実際に、着陸数秒前に機体を引き起こすタイミングは非常にむずかしいものである。
 どの教官も声を荒だて、生徒が自分の指でその絶妙なタイミングを感じとることができるまでは、喉がカラカラになる。
 それだけに、着陸の秘訣を生徒に納得させるまで、何とかして付いてこようとする生徒と、辛抱強く待っている教官との間には、深い精神的な結び付き(コンタクト)ができるのである。
 だがそれは、それから何年もののち、私自身が教官になってみて、やっとわかったことでもあった。

 そのときの私は、ほかの生徒たちの練習風景を眺めながら、何とかして、みんなに追いつきたい、と痛切に思うだけだった。

 自分の限界の行けるところまで行ってみたい。

 山の頂上をふり仰ぐと、あまりにもはるか遠くて、気力を失ってしまいそうだった。一歩先だけを見て前進しなければ……。

 今のところの目標はとにかく「初単独飛行」のみ。それだけを目標にして当面過ごそう。生活費をできるだけ切り詰めながら、毎週のように飛行場に通う新しい暮らしが、ここパリで始まろうとしていた。
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by eridonna | 2009-12-31 15:50 | プロローグ

戦争が終わって

 私がいつの日にか日本を脱出しようと決心したのは、14歳のときである。
 太平洋戦争が終わった、まさにその年だった。

 終戦を迎えたのは広島県の呉市である。
 その年の3月までは家族と共に神奈川県の横浜にいて、ミッションスクールの紅蘭女学校(現在の横浜雙葉学園)に通っていた。入学したころから戦争も激しくなり、行き帰りの電車の中でも空襲警報がなり出すようになった。その頃には、もうお菓子も店から姿を消していて、子どもたちは「欲しがりません、勝つまでは」と歌っていたものだ。
 
 私の父、村上数一は東京高等商船学校を出て「日本郵船」の船長をしていたが、戦争が始まると海軍にはいって南方のトラック島に派遣された。その父がいったん日本に戻って今度は広島の呉湾に待機していた戦艦「青葉」に乗りこむことになったという。
 そのため、1945年、3月の東京大空襲のあと、一家は横浜から呉市に疎開した。
 その後「青葉」は沈みかけ、父は重巡洋艦「利根」に副艦長として乗り移ることになった。
 まだ14歳の私にも、なんとなく感じられたのは「商船学校出の予備将校である父を500人乗りの軍艦に乗せるようでは、戦局も切羽詰まってきた」ということだった。

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▲祖父母一家と。後列左から3人目が私。

 当時の女学生たちは学校での授業など受けられず、学徒動員といって、勤労奉仕に駆り出されていた。14歳の私もその最後の世代の一人で、横浜にいたときは東芝の川崎工場で地上受信機の部品を作り、広島では、広島と呉の間にある吉浦にあった「時限爆弾工場」に毎日働きに出て、爆弾の部品を作らされていた。

 この工場は海軍第11潜水艦基地に隣接していたので、毎朝その基地の前を通るたびに、これから出動する長さ10メートルくらいの一人乗り潜水艦(人間魚雷と呼ばれていたもの)を見かける。
 私たち14、15、16歳の女生徒が50メートルほど離れた岸を通りかかると、まだ19か20歳の若い乗員が海軍旗をたたみ、我々のほうに向かって手旗信号で「話したい」「サヨナラ」と通信してくる。私たちも手をふって一生懸命、答えた。

 あの時はゆっくり考えるひまのない無我夢中の毎日だったけれど、あとで彼らの任務は「出動すれば帰れない命令」だったと知った。各潜水艦に一人ずつ、爆弾を一つずつ積んで、出ていくのである。ガソリンは半分、往きの分しか入れない。もし生き残ることができても、海の中ではもうどうしようもないのだ。
 あれが今生の別れの挨拶だったのだと思うと、今でも思い出すと涙がこぼれてしまう。あの戦争は、若い男の子たちにも、本当にひどいことをしたのである。

 7月になって戦争は最終段階に入り、昼間はアメリカ軍の戦闘機が呉湾、広島湾にいる軍艦を攻撃、夜は呉市が空襲を受けるようになった。
 父はもう何週間も家に帰ってこない。
 吉浦の工場からはるか水平線に見える「利根」は、少し横にかしいでいるのと、マストが折れているのが見えた。父のいない夜、私たち一家は防空壕で過ごすことが多くなった。

 8月6日、午前8時、私たち女生徒が海軍士官の朝の訓示を聞くために工場の庭で整列しているところへ、B29が一機やってきた。
 その機体が、筒のようなものをぶら下げたパラシュートを投下したのが見えた。それは呉と広島の間にある山の向こう側に消え、私たちが工場内に戻って作業をはじめたまさにそのとき、すさまじい閃光が炸裂した。
 みな、すぐ外に出る。と、途端にすごい爆音。
 広島の方角に大きなきのこ雲がのぼるのを見て、全員がガタガタとふるえた。
 やがて30分ほどしただろうか、海軍放送局からアメリカ軍が新型爆弾を使った、という報告が流された。
 広島市と山ひとつ隔てていたおかげで、私は命拾いしたのだった。

 
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▲両親と弟とともに。

 だが日を追うごとに呉市内も焼け出され、港は火の海となり、もうこれまでという事態にまで来てしまった。
 8月15日、日本は降伏し、父も無事でようやく家に帰ってきた。
 戦前からアメリカを知っていた父が「人には言ってはいけないよ、でもこの戦争は勝てない」と密かに言っていたとおりだったではないか。
 なぜ大人はこんな勝ち目のない戦争をしたのだろう。
 戦争が終わって心からうれしかったけれど、私の中には大きな疑問が生まれていた。

 大人が信じられない。親の世代への信用をすっかりなくしていた。
 ほかの国ではどうなのだろうか。
 いつか外国に行って、自分のこの目で見なければ気が済まないと思った。そのためにも英語の勉強をしなければ、と心に決めていた。
 私がそんな風に考えるようになったのは、父親からの影響がとても大きい。

 父は四国愛媛県今治の出身で、伊予の村上と呼ばれていたが、先祖はその昔瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍の血をひいている。
 子どものときに、父からよくその話を聞かされたものだ。父の四、五代前までの村上一族は瀬戸内海を通行する船を止めて、「通行税」を取っていたという。
 だがついに天皇の命令に従って陸に上がり、それからは紺がすりを売ったり豆腐屋になったりして今に至るのだが、もっと昔はかなり悪かったらしい。
 奪ったものを大三島の神社に貯めていて、その宝を南方へ売りに行っていたのだ。タイあたりまで行って、バーターシステムで物々交換して砂糖を手にいれたりしていたという。
 陸に上がった父も結局は海の男になった。1966年に66歳で亡くなったが、60歳まではずっと現役のキャプテンだったのだから。

c0174226_23501660.gif そして私にも、海と空の違いこそあれ、その血は流れているのだと思う。 
 1930年の10月に、父・数一と母・九子の長女として生まれた私は、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。母が子どものころ非常に厳しく育てられたので、その反動だったのかもしれない。母の実家・徳島の渡辺家では娘を3人とも船乗りに嫁がせている。

 初めて父の故郷の今治に連れられていったのは、たしか5歳の頃だった。
 今でもよく覚えているのは、本家のいとこたちと一緒に小船に乗り、浜から沖へ出たとき、いとこたちはみな海に飛びこんで平気で泳ぎ出す。私だけが船に残されて怖くなって泣き出した。見ると水中では彼らが私の臆病さを笑っている。
 私は急に悔しさがこみあげてきて、
「塩があるから浮くんだ。おぼれやしないよ」
といういとこたちの声に、ちょっとためらったものの、初めての海に飛びこんでしまう。海水をかなり飲んだようだが、いとこたちに助けられ無事に砂浜にたどり着いた。
 どうもこれは生まれつきの性格らしく、そののち20歳を過ぎても、人から笑われると悔しくて激しく反発したものだ。

 6歳のとき、弟が生まれ、母の愛情を独占できなくなった。
 その頃には木登りが大好きだった私は、叔母たちがあきれるほど、いつも2歳年下のいとこと一緒に近所で評判の乱暴者、いたずら者として有名だった。
 ところが弟のほうは、のちに母の台所仕事を自分から手伝うほどやさしい性格だったので、まわりの大人たちからは「男と女があべこべだ」と言われ、自分でも「これは神様がお間違いになられた」と思うようになり、女に生まれたことを嘆いたものである。

 あの頃、どうしてあんなにじっとしていられない性質だったのかと考えれば、どうも父が欧州航路だった頃で、オランダのチーズ、ベルギーのチョコレートといつも御土産を持って帰ってきて、チーズを食べるのが私だけだったので、栄養過剰だったのかもしれない。 
 そんな私の性格をよくわかっていたのか、父は「今にきっと必要になる」と、戦争中から私に英語を教えてくれていたのである。12歳の私に「ガリバー旅行記」や「ロビンソンクルーソー」などの原書を与え、私は英単語の拾い読みなどをしていたのを覚えている。

 思えば16歳までに、私は自分のやりたいことのリストをこしらえていたのだった。
 英語、ドイツ語、ロシア語に、タイプも習おう…。
 お金がたくさん欲しいわけではなかったが、自分の道を切り開くためには、「道具」は手に入れなければならない、そう考えていたのだ。

  c0174226_23455493.gif敗戦後、それまでの呉の海軍基地にはオーストラリアの部隊が駐留するようになり、基地のゲートには海軍の兵士の代わりにオーストラリア兵が立っていた。
 ある日、私はその門まで行って、「エクスキューズミー、どなたか英語を教えてくれる人はいませんか」と大胆にも聞いてみた。とにかく、怖い物知らずで行動してしまうのだ。

 すると、「オーストラリアの英語にはなまりがあるから、この人にしたら」と、その部隊にいたハワイの日系2世の山本さんという人が、毎週水曜日に英語を教えてくれることになった。
 求めよ、さらば与えられん、というのを地でやったのだ。

 そのオーストラリア部隊は6カ月でアメリカ軍と交替し、今度はGHQが来た。そこでまたある日のこと、私は基地に出かけて、「エクスキューズミー、デモクラシイとは何ですか」とゲートの兵隊に聞いたのである。

 すると、制服に星のいっぱいついた人のところに通され、「そんなに知りたければ、あなたの学校の生徒みんなに教えましょう」ということになって、後日、私の通っていた広島県立第一高等学校で、通訳付きで2時間の講義が行われた。
 そのとき「何か質問は?」という彼らの問いに、たどたどしい英語で質問したのは、私だけだった。知りたいことがあるとどこまでも突き進んでいくし、こんなことしたら恥ずかしいという気持ちもない。おかげで校長先生からはあれこれとずいぶんにらまれたものだ。

 そうして広島の県立高校を卒業したあと、18歳で東京の津田英語塾の理科に入学した。   
 英語をやろうと思っていたのに、なぜか、第二志望の理科にまわされてしまったのである。正直言って多少不満であった。
 だがこの「理科」を選択したことが、あとあと就職のときに役に立つことになる。

 私は初めて家族と離れて、学校の寮に入って勉強をすることになった。おなかがすいてグーグーいっているのに、積分だ微分だ、なんて勉強をしていたのだから、たまらない。なかなか身が入らなかった。
 このころになっても日本の経済はまだ立ち直らない。家族に経済的な負担をかけないために、私は学校を辞めて働こうと考えはじめた。1年後、さっさと津田塾を中退し、19歳で自立する道を選ぶ。
「お嫁に行く前に女が家を出るなんて」と、家族はもちろん猛反対であった。
 このときばかりは、日頃からしょっちゅう世の中のことや生き方を巡って意見を戦わせていた父を、泣かせてしまったのである。
 だが、私は一度決意したら、もうあと戻りはしない性質であった。

 最初は、中央郵便局に勤めていた叔父や叔母のツテを頼り、当時そこに置かれていたGHQの検閲局で仕事をもらう。
 ファイリング・クラークといって、社会の不穏な動きに敏感だったGHQが、手紙を開封してチェックする、その手紙の管理だった。
 次は、東京中央電話局の英語のオペレーター・長距離交換手(トウキョウ・ロング・デイスタンスと呼んでいた)になった。
 面白かったのは、採用のときに記憶力テストがあって、電話番号を2つ、パッと一瞬見せてそれを復唱させる。私はどういうわけか記憶力が抜群だったので、60人もの応募があったうち、採用された15人に残ることができた。

 この長距離電話交換手は、時差の関係で夜中の仕事だった。
 そこで昼間にはお茶の水にあったアテネ・フランセに通って、英語とフランス語を勉強することにした。このときがフランス語を学び始めた最初である。
 そうこうして1年もたたないうちに、ある貿易会社が、フランス語と英語の両方を喋る秘書がほしいといって声をかけてきた。
 その会社はジャガイモからアルコールを蒸留するという特許をもっていて、それを日本の酒造会社に売っていたのである。
 私は理科系の勉強もしたから特許も扱えるということで、これはいいと雇ってもらえることになった。これでやっと本当に自活できることになった。

 さらに、その会社にいた東京外語大出の先輩から
「外国語が話せても、速記などほかに特技がないとどうしようもない」
と忠告をされたために、それではと、独学で速記の勉強も始めることにする。
 埼玉県浦和のカトリック教会のマクシム・シレール神父様が、カナダからグレッグ式速記の本を取り寄せてくださった。グレッグ式速記は英仏語両方に適用できるので、便利なのだった。

 英語とフランス語に速記。
 その3つを武器に、ある日、新聞で募集広告を見た「フランス大使館秘書」に応募すると、すんなりと採用がきまった。21歳になっていた。
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by eridonna | 2009-12-30 16:10 | 第1章 日本脱出

フランス人との恋

 私は自分に語学の才能があるとは知らなかった。
 いつか外国に出ようと決めた以上、英語も仏語も母国語ではないから、ハンディキャップが大きいことは明らかだ。だからそれなりに一生懸命勉強はしたと思う。
 だが特別言葉の勉強で苦労した、という記憶はない。一度聞いたら単語を覚えてしまうというくらい、たしかに耳がよかったかもしれないのだが…。
 でも私は留学を希望する今の若い人々のように、外国語を学ぶために外国に出たわけではなかった。なぜなら日本にいるときから、すでに話せるようになっていたのである。

 どうしてそんなことができたのかとよく聞かれたが、外国語を話すということは、知識だけでなく「度胸」も大きく関係しているのではないかと思う。
 例えばフランス大使館に勤めているとき、こんなことがあった。

 あるときフランス大使の通訳で、帝国ホテルのロータリークラブの国際シンポジウムに出席することになった。日本とフランスの友好的な経済関係について述べる大使のフランス語を、日本語に訳すのである。
 ところがでは始めようという段になって、大使は「忙しくて、スピーチを紙に書いておく暇がなかった」とおっしゃる。
「それでは、少しずつ区切ってお話くださいね。お願いします」 
 すると大使は、
「わかった、わかった。できるだけそうするよ」
 しかし、約束してくださったにもかかわらず、たくさんの聴衆を前に熱弁をふるっているうち、通訳のことをすっかり忘れてしまわれた。
 私は大使のほうを見てなんとか合図をしようとするのだが、大使はちっとも私のほうを御覧にはならない。気がつくと20分以上のスピーチはすべて終わってしまっていた。
 そこでようやく私のことを思い出した大使は、あ、そうだった、ととてもすまなそうな顔をなさったのだが、時すでに遅し…。

 だがそんなことを、ゲストのみなさんに悟られては絶対にいけない。
 私は涼しい顔で覚えている限りの要点をつなげて、どうにかこうにか通訳を終えた。
 会場からはわれるばかりの拍手! にこやかに壇上を降りられる大使。私も笑顔で役目を終えてホッとした。
 とはいえ、このときは、さすがの私もだいぶ冷や汗をかいたのだった。
 やれやれと、会場の隅でパーティーのお料理を夢中で頬張っていると、そこへ若いアメリカ人の記者がやってきた。
「やあ、素晴らしい通訳でしたね。メモもなくて、どうやってあんなに長いスピーチを訳すことができるのですか? 何かコツでもあるのですか」と聞くのである。

 そうなのだ。私は手元にメモさえ持っていなかったのである! 
 仕方ないので、白状した。
「Well,I did my own speech.」(「はい、だって自分のスピーチをしたんですもの」)
 彼の笑ったこと、笑ったこと! まわりの人が一体どうしたんだろうと見るほどの大爆笑であった。
 私は肩をすくめて、にっこりした。

 c0174226_16554791.gif▼フランス大使館の女友達と。

 もうひとつ、語学力の進歩に関連して、触れておかなければならないことがある。

 アテネ・フランセでフランス語を習っていた頃、新聞に「仏語個人教授」という広告を見つけたので、こちらから連絡してみた。
 それがそもそものきっかけで、11歳年上のジャックというそのパリ育ちのフランス人に出会った私は、生まれて初めて恋に落ちてしまったのである。

 ジャックは新聞記者で、柔道を習うためもあって日本に来ていた。私といえばそのときはまだ20歳になるかならないかの若さだった。

 とにかく私は、彼に夢中だった。寝ても覚めても彼のことばかり、彼に追いつきたい、何とかして彼についていきたい、と一生懸命なのだった。
 それまで男を差し置いて「木登り大好き」というおてんば娘だったのが、急に色気付いておしとやかになってしまった。親戚の者があきれるほどの変わりようだったという。

 彼と対等に話したくて仕方がない。
 彼をなんとか理解したいと努力するので、確かにフランス語はここで格段の進歩をしたのである。
 初めの頃は英語を混ぜて会話していたが、そのうちフランス語だけで会話ができるようになり、休日には水道橋の「講堂館」に行って三船十段(?)やその他の先生方とのインタビューの通訳をしたものだ。彼自身も黒帯の三段だった。
 九州まで一緒に自動車旅行をしたり、彼のフランスのパイロットライセンス(そうなのだ、彼がパイロットだったのである)をもとにして、日本での事業用ライセンスを取るため、日本語の航空法規を訳してあげたり、「東京しののめ飛行場」(今はない)での遊覧飛行を手伝ったりした。     
 だが世の中のことをまだ何も知らないに等しい私には、この恋は荷が重すぎた。

 彼は生粋のパリっ子で、おまけに気むずかし屋ときていた。彼にとって、私という娘はいわば「帯に短し、たすきに長し」という相手だったのかもしれない。
 しょっちゅう文句を言われるのである。たとえば戦後数年しかたってない日本では、当然ながら服装も野暮ったかった。
 ある日、三越だったか、デパートを歩いているとき、私にぴったりのドレスを着たマネキンが立っているのを見て、彼がそのドレスを買ってくれたことがあった。そこでそれからは、ホテルのアーケードで洋装店をやっていたいとこに、いろいろとドレスを注文するようにした。
 なんとか彼にふさわしい「文明人」になろうと、私は必死で努力したのである。

 ところが彼は一方で、数多い女友達に囲まれた「パリ式の生き方」をする人なのだった。初恋で片思いの私には、それがどうしても理解できなくて、見て見ぬ振りをするしかなかった。

 あるときには、銀座4丁目にあった「高島屋PX」(連合軍とその家族しか入れないデパート)に連れていってくれたのは良いが、そこでフランス語を教えている他の女生徒に出会い、その人と一緒にそのまま出ていってしまったことさえあった。
 一人残された私は、外国人の同伴なしには出られない。閉店まで待っていたら、通り掛かったアメリカ軍の人が、気の毒に思ってくれて私を同伴してPXの外に出してくれた。

 1960年、ジャックは英仏日の3カ国語の会話の本を自費出版した。
 日本は居心地が良くなったらしく、ひと月ほどフランスへ帰ってパリの空気を吸ってまた戻ってくると、こんどはフランス政府の仕事についた。
 この頃には父がまだ外国航路の船に乗っていたので、私が父に頼んで、船長の特権で彼の車をフランスのル・アーブルから横浜に運んでもらったこともある。
 私がフランス中小企業団について大阪に出張しているときなど、彼は一人でも私の両親の家にやってくる、という気安い間柄にもなっていた。

 ところがそれなのに、依然として、彼の生き方は変わらないのである。
 ことに、フランス経済顧問の下で働き出した彼と、同じ局で通訳する私が毎日顔を合わせるようになると、また新しい女性との交際が目につき、私はこれ以上の屈辱に耐えられなくなった。

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私はこんなにも彼を愛しているのに、あまりに態度がおかしいから、ある日ジャックに質問したことがある。
「あなた、私を愛しているんでしょうけれども、程度問題ってことなの?」
 笑いながら答えた彼の言葉は、
「愛していないとは言わないけれども、完全に愛しているとも言えないんだ」

 結婚するほど愛してないということは、それほど愛していないと言う意味だと私は理解するしかなかった。自分を犠牲にしてまで、自分のものにはしたくないのだ。
「それなら私を嫌いだと言ってくれたら、私は喜んで出ていくのに」と言うと、
「それは困る。君を嫌いなわけじゃないんだ。出ていっては困るよ」 これでまたいつもと同じ堂々巡りになる。

 彼なしでは生きられず、彼がいても生きられない。
 彼と付き合っていた12年間、私は楽しいどころか、苦しくて苦しくて、生きた心地がしなかった。彼は結婚してくれるわけではないから、私ばかりがどうにもならない恋に身を焦がして、出口がなかった。両親もそれとなく忠告してくれていたが、私の意思を尊重し、ただ見守っているだけしかできなかった、という。

 私は何に対しても全勢力を集中する質なので、その無我夢中の自分をコントロールすることができなかった。曖昧にしたまま、適当に過ごせれば楽だったのかもしれない。
 でも、私にとって一番大事なものは、私にとっての「真実」だった。
その頃はまだ若くてわからなかったが、じつはその「真実」ほどハードなものはない。だが、どんなにつらくても、私は自分にとっての「真実」が欲しかったのだ。
 
 ある夜、長いこと、泣きながら一人で車を運転していた。
 パジャマの上にレインコートを羽織った格好だった。彼との関係に心底絶望していた。
 どこをどう走ったか、覚えていない。暗い場所に車を止めて、ただぼんやり泣きじゃくっていたらしい。あたりは真っ暗で、星だけがよく光って見える夜だった。

 突然、懐中電灯をもった人物が近寄ってきて、コンコンと窓をたたく。
「もしもし、こんなに夜遅く、どこへ行くんですか」 見れば、お巡りさんである。
「ただ、ドライブしているだけです」
「でもあなた、すぐそこはもう多摩川ですよ」
 えっ、と外を見て、私は急にわれに返った。
 そのままあとわずか数メートル進んでいたら、私は車ごと、真っ暗な冷たい川に真っ逆様に落ちていくところだったのだ。
 気がつくと、こんな天気のいい日なのに、私はワイパーも動かしていたのである。

 私はギアをいれ、エンジンをスタートさせると車をバックさせた。すんでのところで声をかけて現実に引き戻してくれたお巡りさんに、心の底で感謝しながら。

 東京方面に車を向けて走り出しながら、急に長い間の憑き物が落ちたように、今の自分の姿がよく見えた。私ったらいったい、今まで何をやっていたのだろうか。あの、私らしく、目標に向かっていつも真っ直ぐ進んでいた自分は、どこにいってしまったのか。
 その瞬間、彼のことはもうどうでもよかった。生きよう。
 こんなところで死んだりしたら、育ててくれた父と母に申しわけない。
 
 そんな出来事のあったあと、はじめてジャックに会ったとき、不思議と何の感情も湧いてこなかった。口に出てきたのは、
「今まで私があなたを慕ってついてきましたが、もうここでやめます」
「では、もう僕を愛していないの?」
「そうです。私にとってこの恋はもう終わりました」
「では、僕を憎んでいるの?」
「いいえ、もう私には関係ありません」
 私がこう言った途端、気の毒な彼は、何かなくしものをしたときのように怒り、その場でびっくりするほどいきり立った。私といえば、ただ黙って、そんな彼をながめていたのである。

 今考えると、あの苦しい恋は、神様が私に与えられた試練だったということがよくわかる。
 強情で自信満々の私の目を覚ますには、あれしか方法がなかったのだろう。でもその渦中にいるとき、そんな風に自分から気が付くのはむずかしい。
 私はそれから10年、「失恋」というコンプレックスに悩むことになる。
 
 そんな失恋の苦さを味わいながらも、彼と付き合っていたおかげで、私の語学力のほうは着実に進歩していった。
 フランス大使館に勤めながら、国際会議などの同時通訳のアルバイトも始めた。
 当時外務省に雇われる同時通訳者で、日本語と英語をすぐフランス語に訳せる人間は、たった3人しかいないと言われた。
 あとの二人はフランスで育った人で、日本から一歩も出たことないのは、私だけだった。
 もちろんそれはちょっぴり誇らしくもあったが、私の本当の目的は外国に出ることなのだから、とても自慢するどころではなかった。

 ただその外務省の通訳はお金になった。
 当時、1時間50米ドルという破格のギャラだったと記憶している。
 しかも昼間はフランス大使館で働き、夜は夜で、英語とフランス語、それに速記も教えていた。午後5時に港区の大使館を出ると、街で簡単な夕食を済ませてから、渋谷にあった学校に飛び込む。
 毎日毎日、ものすごく忙しかった。家に帰ると真夜中の12時だ。でも若かったから、私は平気だった。20代の後半、若いときには、そんな風に働くのもいいと思う。
 そして、こうして、私はフランス行きの旅費を準備することができたのだ。
 
 ジャックとの恋は、私の人生にもう一つ、思いがけない運命の扉を用意していた。言うまでもなく、彼こそが飛行機乗りだったからである。

 彼との長い苦しい恋が終わっても、「私もいつか、パイロットになりたい、なってやる」という決心だけは、私のなかに強く残った。

 当時、神奈川県の藤沢に小さな飛行場があって、元海軍の兵士が教えてくれるというので、頼みにいったことがある。
 海上航空の小川操縦士という方から30分間、生まれて初めて空を飛ぶ手ほどきを受けた。機種は小さなパイパートライぺーサーという小型機。それが1961年のことだった。
 そしてそれが病みつきになった。
 
 だが1時間教えてもらうのに費用は1万円。1回飛ぶのに3カ月分のお給料が飛んでしまうのだ。外国なら、もっと安く、訓練することができると聞いていた。
 それになにしろ母が心配症で、いくら私がおてんばでも「飛行機に乗る」などという危険なことを受け入れるには耐えられないらしかった。母をいたわる父からも「どうか危ないことは遠くでしておくれ」と懇願される。

 いよいよこれは、出発のときが来たらしい。
 ちょうど、日本に来ていたフランスの貿易会社の社長から3カ月の雇用契約を取り付け、フランス大使館も辞職して、私はパリをめざすことになった。
1964年8月、私は33歳になっていた。
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by eridonna | 2009-12-29 16:44 | 第1章 日本脱出

パリの1人暮らし

 1964年は、ようやく日本人のパスポートの発行が一般に解禁になった年だ。今の若い人には信じられない話だろうが、当時は海外へ出たいと思っても、ただの旅行ではなかなか政府の許可さえおりなかった時代だった。
 1USドルは円に替えると360円。貴重な外貨を持ち出すなんてとんでもない、と言われ、あなたの海外渡航が日本にどんな利益をもたらすのかとまず聞かれた。海外に誰か保証人がいるか、結婚か、相当の理由がないとむずかしかった。
 私の場合はとりあえず、当面の雇用約束を得ていたので、それならまあいいだろうと、パスポートを発行してもらえたのだ。ただし、持ち出すことのできる外貨はたった500ドル、それが全財産だった。

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 フランスに向かうためには、横浜から船に乗った。英国船のアルケディア号で横浜を出港し、太平洋を東へと渡ってサンフランシスコに着く。それからグレイハウンド・バスに乗って広いアメリカ大陸を横断した。貴重な500ドルをなるべく使わないように、食事はスープとクラッカーだけで我慢した。おかげでニューヨークに着いたときはとても細くなって、きれいになっていた。はいていた高いハイヒールが似合ってよかったと思った。
 ニューヨークからいよいよエア・フランスの飛行機でパリに到着。横浜を出てから、1カ月半かかったことになる。
 ドゴール空港では、約束した会社から女性秘書が私を迎えに来ているはずなのだが、声をかけてくる人は誰もいない。仕方ないので一人でタクシーに乗り、オペラ街のその会社に自分から出向いた。
 社長室に通されると、さっきゲートのところで見かけた女性が入ってきて私を見るなり、「あなたは日本人だったんですか」と言って笑い出した。
「そうですよ、どうして?」「だって日本人は小さいのが普通でしょう。ですからまさかあなたが日本人とは思わなかったのよ」

 ところがその貿易会社では、はじめの約束通り3カ月で雇用契約は終わりになった。表面上は確かにそれで構わないのだが、本当は社長の思い通りに動かない私に対する処分でもあった。
 最初に日本で契約したときから、どうやら相手にはいわゆる「下心」があったらしい。当時のフランスでは結婚していても、双方で「愛人」という言葉が当たり前のようにささやかれていたのだ。そんなことなど思いもよらない私にしてみれば、外国に来てまで誰かの囲われ者だの、パトロンを持つ身になどなりたくないので、さっさとその会社をあきらめ、どこか仕事を探すことにした。

 当時、外国人は入国するとすぐ中央警察庁に出頭し、面接試験を受けなければならない。そのときに労働証明書を発行してもらうのだが、私の書類には、セーヌ県、セーヌ・エ・マルヌ県、そしてセーヌ・エ・オワーズ県の3県で秘書として活動してよい、と記入してあった。アルバイト程度の仕事はすぐに見つかった。エコール・ベルリッツという有名な語学校で、日本語の文献を翻訳したり、通訳を頼まれたりした。だが、飛行機の訓練ができるほどの余裕なんてまだまだ先の話、という状況であった。

 この頃の私は、パリに来るときは永住するつもりできたのに、あまりにも自分が日本人過ぎてこれではフランス人にはとてもなれない、と思い詰めていた。ノイローゼのように泣いてばかりいるので医者に行くと、これはホームシックだと言われた。薬をもらったが、飲んでみたら眩暈がするほど強いので全部捨ててしまった。

 そんなある日、シャンゼリゼ街を歩いていると、なんと東京時代の友人、モニク・ランドリにばったり出会った。かつてフランス大使館で一緒に働いていたことがあるモニク。 
 二人とも狂喜して、不思議な偶然に驚き、話に花を咲かせる。
「今、何をしているの? 仕事は?」と彼女が聞く。
「アルバイトはあるんだけれど、今探しているところ」
と悩みを打ち明けると、モニクは、
「あなたは正直すぎてパリには向かないわ」と言うのだった。
 ともかくそれから数日後にモニクから電話があり、ユダヤ人家族が経営するエレクトロニクス会社(電子部品製造)の仕事を見つけてくれた。

 ここでちょっと奇妙な体験をした。
 あるときこの会社が展示会に外国の部品を出品した。私は日立製作所の部品の係になり、3日間会場で立っていた。
 すると毎日、ある中年の男性が私の前に立ち、何か理解のできない言葉では話しかけてくるのである。私は首を振って、「フランス語、英語、または日本語でお願いします」と言った。
 
 展示会もおしまいになり、そのこともとうに忘れかけた頃、この男性が会社の出口で待っていて、すぐ近くに住んでいる私のホテルまで付いてくるのである。
 私はほとほと閉口した。2回、3回、とやってきて、3回目にはとうとう彼は、自分の家に一緒に行って叔母さんに会ってくれと言う。
 あまりしつこいので私も折れて、彼についていくことにした。地下鉄に乗り、20区の終点ポルト・ド・バンブで下車、私の住む8区から20分ほどかかった。彼のアパートに着いて驚いた。

 ドアを開けて中に入ると、壁には帝政ロシア時代の高官の服を着た写真と、コザック兵の持つ刀がかかっている。彼はすぐ私の目の前に大きな写真帳を持ってきて、家族ひとりひとりを指で差しながら「覚えていない?」と聞く。

 彼はどうも1917年の10月革命で倒された最後のロマノフ皇帝の親戚らしい。一家はちりじりバラバラになって逃げたために、そのとき赤ん坊だった娘がどこにも見つからない。いまだに行方を探しているのだと言うのである。
 そう言えばロマノフ家(ツアーの血族)は、コザックが混じっているので黒髪が多い。骨格が蒙古人なので、私をその娘だと思い込んだらしい。
 村上家は祖父の話では、30代以上前に蒙古(ジンギスカン一族)の残党と混血したという。骨格やからだの大きいことで間違えられたのだ。そこで私は両親とも日本人であること、父親は日本郵船の船長であることも話した。

 すると、突然彼は立上がり、隣の部屋から何かを持ってきた。
「もしあなたが本当に日本人なら、これは一体なんだ?」と聞く。
 それは、船内で乗客に食事を知らせるベル(鈴)で、
「NYK(日本郵船の会社イニシアル)ASAMA MARU October 1929」と記してあった。
 私はびっくりした。
 父と母が結婚したのがちょうど1929年の10月。その頃父は一等運転士として浅間丸の船内装飾の仕事があって、新婚旅行に行けなかったと聞いていた。そして私が生まれたのは1930年の10月、話が合う。これもおかしな偶然だった。

 私の話を聞くうちに彼もようやく納得し、私がロシア人でないことを認め、帰るときにそのベルを私にくれた。2年後に日本に帰ったときに父にこの話をしてベルを見せると、父も驚いていた。戦争前まで客船だった浅間丸の乗客の一人が、記念にと持ち帰ったもので、どこかの蚤の市で手に入れたものらしい。
 その後、この中年のロシア人が私の目の前に現れることは2度となかった。

▼ドゴール空港にて
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 35年前のパリは、地球上の人間のサンプルを1カ所に集めたような都会だった。
亡命人が多いこと、芸術家の多いこと。ことにパリ人は他人のことには絶対といってよいくらい干渉しないし、ゴシップに夢中になるのは文明人のすることではないと思っていたらしく、外国人としては住みやすいところだった。
 私は着いた日から小さなホテル「ホテル・ド・ユーロップ」の屋根裏に一部屋借りて、そのほうが安上がりなので、毎月家賃は前払いすることにしていた。右や左隣にどんな人が住んでいるのか、全く知らなかった。

 ある日、同じホテルに住むどこかアフリカの首相らしい人(彼は亡命中だった)が私に書類をタイプしてくれと頼みに来た。紙やタイプライターなど必要なものを全部運んできたのを見ると、それはフランス語の文書だった。恐らくホテルのマネージャーから聞いたのだろう。私の国籍がヨーロッパのどこの国とも関係がなかったからかもしれない。
 仕事が終わると、内容については一切口外しない、と約束をさせられ、お礼にとレストランへ食事に誘ってくれた。
 注文したお料理が運ばれてきても、彼とその側近の人は豚肉が入っているといって、一口も食べなかった。気の毒なことをした。
 私は彼らが回教徒だとは知らなかったのだ。
 
 それからしばらくして、今度は英国空軍のアエロバティック隊(空中曲芸)の連中が、この同じホテルに2、3日滞在したことがある。1965年パリ・エア・ショウに出演のためだった。
 ホテルのマネージャーは英語ができない。パイロットたちはフランス語ができない。お互いに困っているところに私が通りかかり、通訳してあげることになった。
 その晩、どこで外食したらよいかわからない5、6人の隊員を全部引き連れ、シャンゼリゼ街へ出かける。英国空軍の制服を着た隊員を連れた私を、通りがかりの人がいかにも不思議そうに振り返って見るので閉口した。

 3日目の朝、彼らはブルージェ飛行場へ移ったが、3日間のエアショウの開催中、その中の一人、コリン・パークというパイロットがブルージェからジープでやってきたので、パリ見物の案内をした。彼は左側に駐車して、ジャンダルム(警官)に注意されていた。英国はフランスと反対の左側通行なのである。
 彼は何のこだわりもなく話ができる人で、ほんの通りすがりの人なのに、私の心を見透かしてモニクと同じようなことを言った。
「パリはあなたには合わないところですよ」

 実は自分でもとっくに気が付いていたのだ。そろそろ行動しなければならないと思った。 ともあれ「芸は身をたすく」という諺があるが、いつもこんな風に人と出会い、忙しくしていた。パリの一人暮らしでも、それほど寂しいと思うヒマはなかった。
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by eridonna | 2009-12-27 21:48 | 第1章 日本脱出

いよいよ飛行訓練

 ポール・ティサンディエ飛行機学校に向かうため、サン・ラザール駅のいつものプラットホームから急いで電車にとび乗った。と、その電車は全く方向違いに走り出したので、私はあわてた。隣りの乗客に聞くと、出発する電車の行き先とプラットホームは毎回変わる、サインボードをよく見なさい、と言われてしまった。今までは偶然同じだったというだけで、自分の早合点だったらしい。恥ずかしかった。
 それなら車でも買ったほうが遅れずにすむのではないかしら、と思いつく。
 その頃勤めていた電子部品会社の社長の運転手の世話で、1960年の型のルノーを買い求めることができた。確か600フランだったと思う。当時の月給が1200フランだったから、ひと月の収入の半分、というわけだ。

 2日前に免許証もとれたという日、意気揚々として、得意顔で午後2時のパリ市内の真ん中を試運転することにした。
 ところがコンコルド広場に出たものの、広場をぐるぐるまわりながら、なかなか出たい道路に出られない。外側の車道に入りたくて合図しても、誰も私を入れてくれようとしないのだ。私は日本にいたときも車を運転していたから、運転技術にはある程度自信があったのだが、パリのドライバーは日本のドライバーとだいぶ勝手が違うらしい。

 仕方なくコンコルド広場を3回もぐるぐるまわってしまった。と、どこからともなく警察のトラックがフランス特有のあの音(プーカープーカー)を鳴らしながらやってきて、私の車の前で止まる。ポリスが二人出てきて、
「免許証は?」
「はい、これです」と見せると、
「ああ、とりたてのほやほやだね。車検証は?」
「はい、これ」
「あれ、これも今日発行だ」と言うので、
「たった今、車を買ったところなんです」と、弁解する。もう一人のポリスが
「ライトをつけなさい」と言う。私はすっかりあがってしまって、
「どこにスイッチがあるか、わからないので、見つけてください。でも今は昼間なのに」と言うと、一人が座席に手をいれて、
「マドモアゼル、これです。車の練習をするのはいいけれど、パリのど真ん中で午後の3時に運転するには、よほど腕が立たないと行きたいところに行けませんよ。まあ、朝早く、午前3時頃ならだれも通らないから、その時刻に練習なさい」
 と言うと、さっさと去っていった。

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 やれやれ、そこでなんとかパリ1区から当時住んでいた8区に出て、ホテルの近くのロケピーヌ街で駐車場を探すが、見つからない。さんざん考えたあげく、ナポレオンのお墓のあるアンバリッド広場に行ってみた。

 おやまあ、同じことを考える人のなんて多いこと! どこもいっぱいだったが、やっと2、3日置いても大丈夫そうな場所へ停めることができて、手帳に場所を書きとめる。
 そこから地下鉄で2駅乗ると、私の住んでいるロケピーヌ街だ。パリの真ん中で車を持つことは大変なんだと、あらためてわかった。

 週末には朝早くアンバリッドに出て、車を探す。あった、あった。私の車。

 ところがよく点検すると、ホイルキャップがひとつ足りない。そこへポリスが歩いてきて、「マドモアゼル、何かトラブルでも?」と顔を突っ込んできた。
 あ、またジャンダルム(ポリス)だ、ともかくパリ市内にはやたらと多いのだ。すかさず、
「だれかにホイルキャップ一個、盗まれました」と訴えると、
「そのくらいですめば軽いほうですよ。なにしろここはアンバリッド(傷病兵という意味もある)と呼ばれるところだからね」
 と、冗談を言いながら行ってしまった。

 パリ郊外に車を走らせ、エコール・サンシールに8時頃着くと、もう2、3人の生徒たちが先に着いていて、父親役のビドゥーユの命令のもとに、格納庫から飛行機を出していた。
 この学校では、1940年代にキャンバス地を張って作られたパイパーJ3という古い小型機を使っていた。

 3機とも狭い格納庫にしまっておくのだが、とても奇抜でおかしなことに、機体のしっぽにチェイン(鎖)をつけて、天井からつり下げる形で格納していた。つまり、3機とも逆立ちした格好でしまっておくのだ。そうすればたしかに狭い格納庫におさまるのだが、出し入れの時には、相当の注意が必要だった。 
 こんな例はいまだに、日本でもカナダでも私はほかに見たことがない。パリのこの学校だけである。

 ともかく、飛行機を格納庫から無事に引き出すと、ビドゥーユは一日のフライトスケジュールをみんなに話す。私はその日は午後2時までフライトなし。
 すると、ギュットマンという69歳の男性が「二人して南部のほうへ飛びましょう」と言ってくれた。彼は第1次大戦で活躍したパイロットで、年齢のせいもあるが、かなり長い飛行時間の保持者でもあって、耳がだいぶ遠くなっておられた。ご自分では「私はエンジンの音さえすればなんでも聞こえるんですよ」と妙なことをおっしゃる。

 さて、そこでムッシュウ・ギュットマンと私は二人で出発した。そのフライトから戻ってきたのは12時をとっくに過ぎていた頃…。
 私たちは昼食の時間に遅れたお詫びを言いながら、みんなが待ってくれていた食卓につく。ビドゥーユは一人も欠けている者はいないねと確認して、
「では、ボンヌ・アペティ(いただきましょう)」
 突然、あたりに音が響いた。ナイフとフォークがお皿の上でカチャカチャと小刻みに鳴っている。誰だろう? 確かめるひまもない間に、ビドゥーユが、
「わかった、わかった、マドモアゼル・カミカゼ。いったい何が起こったのかね?」
と聞くのである。
 そこでやっと我に返った私は、なんと音を立てていたのは自分だったのか、とはじめて気付いた。仕方なく、ことの次第を報告することになった。

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 その朝、ムッシュウ・ギュットマンと私は、ミニカブという、フランスで流行っていた「2座席、低翼、単発(エンジンがひとつ)、60馬力のホームビルド」の機種を点検し、乗り込んだのだ。
 この飛行場はあたりが広い草原で、2機が同時に離着陸できる広さがあった。管制官(コントローラー)は滑走路の脇で、黒と白のチェックの旗をふって、離陸の許可を与える。(自動車レースと同じ)
 ムッシュウ・ギュットマンは、離陸後、東へ出て右旋回、南に向かった。

 空から見るとあちこちに昔の城があり、寺院がありと、ヨーロッパらしい美しい景色が広がっている。 
 彼はこの飛行機がいかに操縦しやすいか、見せてあげようと言って、機首を上げ、エンジンを切った。たちまち機は失速する。首を下げて、水平飛行に戻る。また機首を上げ、失速、機首を下げて水平飛行、とこれを繰り返しておもしろがっていた。

 それが20分も続いただろうか。そのうち「この辺にエア・フランスの代替飛行場(旅客機緊急着陸用)があったはずだが」と探しはじめて、「あった、あった、こんな長い滑走路をだれも使わないとは勿体ないじゃないか」と言いながら、高度を下げていく。
 ラジオのないホームビルドの機種なので、一度滑走路の上を30メートルくらいの高さで飛んでからファイナルコース(進入路)に入ると、管制塔から緑色のライトが光って着陸許可がでる。 タッチダウンして滑走路の上を半分ほど転がしてから、彼は再びエンジン全開、数秒で離陸してしまった。

 その時だ。突然、私は頭がやけに冷えるので上を見た。
びっくりしたことに、前方のキャノピイ(天蓋)が開いているではないか。このまま飛んだら、数秒後にはキャノピイ全体が吹き飛んでしまうだろう、と咄嗟に頭で考えた。そうしたらたちまち失速し、墜落する……。
 私は反射的に両手をキャノピイの下の端にかけ、自分の全体重でぶら下がってそれ以上キャノピイが開かないように必死で押さえる。次に左腕でムッシュウ・ギュットマンの右手を押した。気が付かない。もう一度。2度目にやっと彼は目をあげ、ことの成り行きを即座に理解した。すぐに左旋回し、緊急着陸。停止。
 滑走路の真ん中でストップしたまま、外れた錠をかけ直し、何ごともなかったように再び離陸すると、飛行学校まで戻ったというわけだった。

 飛行機からおりても、私はひとことも言葉を発しなかった。頭の中で、何も考えられなかったのかもしれない。
 食卓に落ちついてはじめて、からだ全体にふるえがきた。それで手にしたフォークやナイフが自分でも気がつかないうちに、小刻みに音を立てていたのだった。体の深いところに刻まれた恐怖は、表面に出るまでは時間がかかるというが、本当だった。

 私はとても怖かったのだ。
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by eridonna | 2009-12-26 22:07 | 第2章 初単独への道

ジュリエット…

 この学校の生徒は、ほとんどが仕事をもっている人々だった。
 そこで、毎週木曜日だったと思うが、夕方の8時から9時半まで、フランス空軍本部で行われる「地上学校(つまり学科)」にみんなで通っていた。ほかの飛行機学校からやってくる生徒も加わっていつも30人から40人が集まり、空軍の将校から「航空力学」「航空機について」「航法(ナビゲーション)」それに「気象学」の4課目の講義を受けていた。空軍が民間人の教育を受け持つのはフランスだけだろうと思う。
 私にとって、この地上学校はとても和やかで楽しいひとときだった。

 こうして私もだんだん、単独飛行へと近付いていった。ある秋の日、飛行場に着くと、主任教官ビドゥーユが、「すまないけれど、今日はあなたがいつも乗っている飛行機には乗れないんだ」と言う。
 機種はどれも同じパイパーでも、飛行機にはそれぞれ癖があるものだ。そこで初単独飛行が近付くと、もっぱら同じ機種だけを使って訓練する習慣があった。
 よくよく事情を聞いてみると、さっき、若いM君が初単独飛行に挑戦していよいよ着陸、というとき、最後の機首の引き起こしのタイミングが遅すぎて、機体が大きくバウンスして跳ね上がり、10メートルも上ってしまったと言う。
 放心した彼は、そのまま機を地上に落として大破させてしまったのだ。幸いケガはなかったようだが、M君の自信は相当に傷ついてしまっただろうと察せられた。
 その日の私はいつもと違うパイパーに乗換え、教官と一緒に乗る「同乗飛行」で訓練を重ねた。

 私が訓練を終えてクラブハウスに戻ってくると、そこにはしおれているM君がいた。あまりにも落ち込んでいるので、一緒にパリに帰ることにする。
 M君が「ちょっと僕の家に寄っていかないか」と言うので、シャンゼリゼの近くに車をパークして、彼のあとに続いた。
 彼の家というのは、驚いたことにその華やかなシャンゼリゼ街に面していて、昔はさぞ立派だっただろうと思われる城の、ごく一部が残ったらしいお屋敷跡だった。石の壁の真ん中にある扉から広間に入ると、そこには美しく威厳のある女性たちの肖像画がずらっと並んでいる。
 思わず息をのんで「この女性たちはどなたですか?」と尋ねた。

「これが僕の母、これが祖母、そしてあれが曾祖母……」と、彼の説明は十代もさかのぼる。それにしても全部女性というのは、どういうわけなのか。
「お父様の絵はないのですか」と聞くと、M君は言いにくそうに、
「僕の家は貴族で、僕が生まれるまで、十代の間、男の子がまったく生まれなかったのです」と答える。
 そうなのだ。フランスでは結婚すると女性の側の家名が消えてしまうのだ。そこで名家では、家名存続のために、結婚しないで子どもだけを得るという方法がとられる。M君の話にもその名家のせつない努力がうかがわれた。

 彼はフランソワ一世の時代からあるという古い楽器をもってきて、奏でてくれた。それは今でいうギターなどの弦楽器の初期の形といえるような楽器で、なんとも寂しい音色がした。今日、初単独飛行に失敗した彼の心境そのものをあらわしているようなもの悲しい響きに、私の胸はM君への同情で一杯になる。

 その年も、雨がよく降る季節に入ってしまった。こうなると、もう空を飛ぶことができない。
 地上学校へ行くたびに、飛行場が閉まっていると聞かされ、仕方なく家にこもる週末が増えてきた。
 ある晩、だいぶ前に、エコール・ベルリッツの通訳の仕事をしたときにお目にかかったフランス公認会計士会の会長から、電話がかかってきた。
「ぜひ、晩の食事を一緒にしたい」と言う。

 このところ数カ月間、週末はホテルの自室にいないので、ずっと私がつかまらなかったらしい。ほかにも何度も電話してきた友達がいるのかもしれないと思って、申しわけなかったと思う。でも、この会長は70歳くらいの白髪の紳士で、いったい何の目的の食事なのだろうと、内心不思議に思って出かけていった。

 約束の場所へ行くと、先に来て待っておられた会長はニコニコ笑いながら
「またいったいどんなわけがあるのだろうと、驚かれたでしょう」と言う。そして
「実は私が若い頃に、ある人ととても馴染みでよくデートしたんです。その人にあなたはそっくりなんですよ」と言うのだ。
 さらに彼は続けて、
「パリに来て、誰かに似ていると言われませんでしたか」
 そこで私は急にあることを思い出した。
「あっ、そう言えば、地下鉄の改札口で並んでいたら、後ろから『ジュリエット!』と呼ぶ人がいました。女は私一人だったので振り返ると『パルドン(すみません)』と言って、その人は黙ってしまったんです。あるときは町の中で『ジュリエット、今夜は何を歌うのですか』と聞いてくる人もいました」
 彼はすかさず、
「ほら、ごらんなさい。あなたはジュリエット・グレコというシャンソン歌手によく似ているんですよ。特に後ろ姿はそっくりなんです」

 グレコ女史は日本にも来たことがある歌手で、ジプシーとの混血で、長い黒髪、低音の独特の声の持ち主だった。
 会長はボルガと言う大きなロシア料理の店に案内してくれて、大変ご馳走してくださった。バイオリン弾きが私たちのテーブルにやってきて、何かリクエスト曲があるかと聞く。会長が「どうぞ何でも」とおっしゃるので、私はつい自分がグレコ女史になったつもりで、
「それではツィゴイネルワイゼンはできますか?」と聞くと
「やってみましょう」と言って弾いてくれた。
 会長さんがあとで50フランもお礼を差し出したので、私はずいぶんむずかしい曲を注文してしまったんだと思って、すこし後悔したのだった。     


 その年のクリスマスの休暇は、勤めている会社の電話交換手、ニコルと一緒に過ごした。ダンスパーティに行って、朝の4時までダンス、ダンス、ダンス。足が痛くてもうこれまで、というところで、熱いオニオンスープをいただいてホテルに帰った。

 そのニコルが「チヨコはボーイフレンドがいない」と会社の職員にもらすので、まわりの男性たちが3人やってきて、
「いったいチヨコはどういう人を探しているの?」と私に聞く。

 私はタイプをしている手をちょっと止めて、男性たちを見上げながら、
「みなさんはもうちゃんと結婚していらっしゃるでしょう」と言うと、
「そんなことは問題ではありません」
 一人が言えば、みんなしてそうだそうだ、とうなずく。

「チヨコは金持ちの男性がいいんでしょう?」
「いいえ、いいえ、お金で買われるなんて、情けないことです」
「わかった、頭のよい学歴の高い人がいいんだ」
「いいえ、私自身が専門学校中退ですから、そんな博士みたいな人のいうことなんて、理解できません」
 するといちばん若い男性が、
「わかった、チヨコはハンサムな男が好きなんですね」
 私は困ってしまって、下を向いた。すると3人して
「それではいったいどういう男性を探しているの、チヨコは?」と迫る。

「あ、ひとつだけ、求めるものがあるけど」
「何、それは、何なのか、言ってください」
と、3人とも興味津々で私の顔を見る。

「それはね……言ってもいいのかしら」
「どうぞどうぞ、言ってください」
「それはSで始まる言葉で……」
「Sではじまる言葉?」
「はい、それはSincerity(誠実)な人」
と言って見上げると、3人とも
「はあ……?」

「それは私たちの専門ではないですね。マドモアゼル、あなたはパリに来て、いろいろな人間の集まる都会にいるのでしょう。今日はフランス料理、明日はイタリア料理、その次は中華料理というように、違う雰囲気とエキゾチックな味を満足して味わえばいいじゃないですか」
 ついに私はこらえきれなくなって、
「どんなにまずい料理でも、中身が何かわかるほうがいいんです。つまり、貧乏でもハンサムでなくても教育の足りない人でも、誠実な人なら愛せます!」
 私があまりにはっきり言ったので、3人ともびっくりする。
「ああ、それではマドモアゼル、あなたは間違った場所に来てしまったんだ」
と言って、自分たちの席に戻っていってしまった。
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by eridonna | 2009-12-25 22:41 | 第2章 初単独への道

ついに単独飛行!

この頃、モニクがしきりにカナダへ行け、と勧めた。
 当時の私には、カナダなんて白熊の国でしょ、というくらいの知識しかなかった。 
 「ちゃんと人間もいるわよ。あなたはフランス語と英語が両方できるんだから、大丈夫」。 
そこで試しにオペラ街にあったカナダ大使館に情報を集めに行ってみた。すぐその場で申請書に書き込んで担当の事務官に差し出すと、
「あなたの場合、カナダに行ける可能性はかなり高いです。近いうちに呼び出し状が着いたら、ここへ身体検査と面接に来てください」と、いとも簡単に言われたのである。
 
 カナダ大使館からは2週間で通知があり、あらためて出頭すると、小1時間の仏語、英語のテストと身体検査のあと、カナダ移民許可証を手渡された。最終到着日が1966年の2月10日とあった。あと2カ月もないので驚いていると、
「渡航資金がなければ、カナダ政府が前払いしてもいい」とまで言うのである。
 幸いこのときは母が東京でカナダ航空の切符を買ってくれたので、カナダ政府のお世話にならなくてすんだ。

 いったん決意してしまうと、いろいろなことが急に動き出したようだった。
 会社には、2月には仕事を辞めてカナダに行くことを知らせた。
 モニクはとても喜んでくれた。この2年後には彼女自身がニューヨークに行って結婚し、その後モントリオールで私と再会することになる。

 1965年の12月31日、私はモニクと彼女の弟と一緒に、私のルノーでシャンゼリゼ街で年越しをすることにした。夜の11時30分には、たくさんの人出で、どこのレストラン、カフェ、ビストロも足の踏み場もないほど満員だ。モニクの弟は赤いカーネーションの花を胸のポケットにさして、この混雑したカフェでダンスをしようと誘う。二人で踊っていると、モニクがいたずらっぽい微笑を浮かべながら言った。
「あなたが弟と何をなさろうと私は関知しないけれども……。忘れないでね、彼はまだ21歳ですからね」

12時2分前! あたりが一斉に車の警笛で騒々しくなった。普通はパリ市内で車の警笛をうるさく鳴らすと罰金刑なのだが、12月31日の真夜中から元旦の明け方までは特別に鳴らしてもよい、という許可がでているのだ。
 私たちは急いで通りへ出て、駐車してある車に乗りこんだがどうにもならない。もう1センチも動かすことができないのだ。どこから来たのか強そうな4人組がスペイン語で話しながら、私のルノーを持ち上げて歩道に上げてしまう。私たちが車から出ると、隣の車からも人が3、4人おりてきて、
「あなたは英語を喋りますか」と聞くので
「Yes,I do!」と答えると、懐かしそうに
「Happy new year!」と叫んで、頬にキスしていった。
 パリに来て気が付いたのだが、街の道路で会うアメリカ人は、私を見ると必ず日本人と見なす。どういうわけなのだろう。もちろん当たり前のことなのだけれど。
 シャンゼリゼ街は交通がほとんどとまってしまって、あちらこちらで「ボンヌ・アンネ」とか「ハッピー・ニューイヤー」という声が聞こえ、バックにはすごい警笛の交響楽。
 それでも1時間ほどして車はどうやら動き出した。アンバリッド広場に駐車して、歩いてホテルへ戻ったときには3時をまわっていた。1966年、元旦の朝だった。
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 パリも1月になると冬らしく、しばしば雪が降り、飛行機学校はますます休校の日が多くなった。それでも雪が溶けるとすぐ飛行場へ通って訓練を重ねているうちに、パイロットとして一生忘れることのできない日が、とうとうやってきた。

 1月の31日、私は会社も辞め、身も心も自由になって訓練に集中できるようになった。
2月1日、教官ビドゥーユの手を借りずに一人で離陸、場周(カナダではサーキットという、長方形のパターンで滑走路のまわりを飛ぶこと)、進入(滑走路へのアプローチ)、そして肝心の着陸ができるようになった。ビドゥーユも黙ったまま、今日はやけに静かになっている。
 この離着陸の訓練を4回、5回とやっているとき、進入の最中に教官が「今度でストップ」と言った。私は滑走路の真ん中で、機を止める。ビドゥーユはいきなりドアを明けて外に出る。そして
「今と同じことを2回やってごらん。ただし700フィート以上には上らないこと」と言った。あまりに突然だったので、
「明日にしてください、ほら、雪がちらついていますよ」
と私はしりごみするように頼んだ。ビドゥーユは
「はい、わかっていますよ、雪がパラついていることくらい。明日も単独だから、今日からスタート」
と言うと、外からドアを閉め、うしろも振り向かずにスタスタと行ってしまった。

 機内に一人ぽっちで残された私は、一瞬、彼から見捨てられたような気がして、とても心細くなった。だが滑走路の真ん中で長くとどまっていることもできず、機をタクシーしながら(地上をころがすという意味)出発点にもどった。
 管制官の旗が上がり、離陸許可が出る。
 エンジン全開、機がよろよろと転がり出した。機首が左右にジグザグに動く。目を落とすと両足がガタガタふるえていて、それにつれて方向舵(ラダー)が動いているからだ。 いつもの半分も走らずに、ふわッと浮き上がった。
 気がついたときは、雲の中、高度計は800フィートを示している。ビドゥーユに言われたことを思い出して、700フィートに落とす。雲の下に出る。
 左手に飛行場を見ながら左旋回を2度、コックピットのチェック、すべてOK。
 もう一度左旋回して、進入もしっかりと迷わず、滑走路上での引き起こしも、早すぎず遅すぎず……。いつ接地したのか、わからないくらい、ソフトに着陸した。
 ずっと滑走路の端で立っているビドゥーユの、ニコニコ笑っている顔が目に入った。
 またエンジンを全開して飛び上がり、今度は700フィートで何ごともなく、同じことを繰り返した。飛行機をパークして、18分の初単独飛行を終えた。

 ビドゥーユの顔いっぱいに満足そうな笑顔が広がっている。
外に出た私は「ビドゥーユ、あなたはずいぶん重いですね」と思わず口から出てしまった。
 彼は皮肉にとってか(フランス語で重いという言葉には、鈍感という意味もある)、
「メルシイ(ありがとう)。生徒はみんな言うけど、僕が降りると、機は羽のように軽くなるんだってね」と言ってまた笑った。

 クラブハウスに戻ると、待っていた生徒たちからたちまちお祝いのキスを受ける。そして、この学校のしきたりで、私は全員にコニャックを振る舞った。それでも足りず、3台の車いっぱいにみんなで乗り込み、シャンゼリゼ街へ向かって大騒ぎ!
 名前は忘れたけれども、高級レストランの一番いい席に、10人の飛行機野郎がなだれこんでワインを注文する。物珍しそうにこちらを見ている他の客は、美しいロングドレス。一方、我々ときたら、油の染み付いたズボンのポケットに手を突っ込んで、という格好であった。それでもだれからも文句は言われなかった。
 だれかが「マドモアゼル・カミカゼの初単独祝い!」と叫んでいるのが聞こえる。通り掛かったエア・フランスのスチュアーデスが「おめでとう! すばらしいわ」と握手を求めてきた。

(ここまで導いてくれた教官ビドゥーユの忍耐に、深く感謝しています)


 二日後、2度目の単独をすることになった。
 ビドゥーユのチェックフライトを10分したあと、一人で出ていく。すでに一度味をしめている私は、少し気持ちが緩んでいたらしい。
 4回目のサーキットをしているときに、進入してきてエンジンを切り、5フィートの高さで機首を水平にもってくる。そして徐々に機を沈めていって着陸するはずだった。
 このパイパーは尾輪の飛行機であった。(3つ目の車輪が後方についている型で、1950年以前はほとんどがこの形だった。空中では安全だが、着陸の際にブレーキを踏むと逆立ちしやすいので、今の飛行機はみんな前に車輪をつけるようになった)
 私は3点着陸(前輪と尾輪の3つを同時に接地する)をするために、機首を上げながら沈めていった。そうすると前方がよく見えなくなるので、滑走路に着地する瞬間までは数を数えてだいたいの見当をつけることになっていた。

「1、2、3……」 いつもならこのくらいで、お尻で「接地した」という感触が得られるのだが、「あれ、5、6、7、8、9……、滑走路がない!」
 左下を見ると、すぐ真下にあるはずの滑走路が、100フィート(30メートル)以上も下に小さく見えた。瞬間、「あ、失速する!」
 エンジンを切っているので、この高さからだと機首から真っ逆さま、まるで石ころのように墜落するのである。なんとか無事でいられるのはせいぜい10フィートまでなのだ。
 反射的に手が動いて、すんでのところでエンジン全開、やり直し。再びサーキットをしてきて、次には平常どおりにうまくいった。

 機をパークして何ごともなかったような顔をして、クラブハウスに戻ってきた。エンジニアのカラール氏がいたので、
「今の私の失敗を見ましたか」と聞く。彼はうなずいて
「ウイ(はい)。教官のビドゥーユがちょうど生徒と話している最中に、30メートルの高さから失速寸前のあなたを見たんです。電話に飛び付いて救急車をよんでいるときに、エンジンの音を聞いて、電話機をそのままもとに戻しました。彼は今は生徒と一緒に飛んでますよ」

 カラール氏は机の引き出しをあけると、20センチもある一本の巨大な消しゴムを取り出した。
「あなたは今日飛行場を消しましたね。これはその思い出です」
と言って私にくれた。「飛行場を消す」というのはフランス語特有の粋な言い方で、飛行場が下にちゃんとあるのに、まるでないかのようにむこうみずに振る舞う、というような意味なのだ。
 引き出しの中をのぞいて驚いた。なんと同じ巨大消しゴムがたくさんあったのである。ああ、そうか、私だけではないのだと気が付いた。
 失敗せずに何かを理解したり、上達する人は滅多にいない。そして、災難というのは自信満々のときに起こるものだと、つくづくわかった日だった。

 次の日、もう一度学校に行って、2、3人居合わせた生徒に別れを言って、明日カナダのモントリオールに行くことを告げた。
 みんな羨ましがって、
「私もあなたみたいに英語ができたら行きたいのですが」と若い女性。
「カナダはセスナ機がたくさんあるから、おそらくセスナでライセンスを取ることになるでしょう」と教えてくれた人もいる。
 ビドゥーユは
「あなたは自分に厳しい人ですね。もっと先に進んでよい性格です」
と言って、別れの言葉にしてくれた。その言葉をありがたく胸にしまって、パリを後にした。
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by eridonna | 2009-12-24 22:56 | 第2章 初単独への道
 当時、フランスからカナダへの直行便のあるのは「エア・カナダ」だけだった。ところが「切符は東京で支払われたので、いつでも乗れます」という電話があったのは「カナダ航空」からであった。母がチケット代を支払ってくれた東京には、エア・カナダの代理店がなかったようだ。
 そのカナダ航空のフライトは、ポルトガルのリスボン発でモントリオールに向かう便である。
 そこで2月5日、エア・フランスでパリを発ち、リスボンで1泊してカナダ航空の便を待つということになった。親切なことに、カナダ航空リスボン支店は空港からのタクシー代もホテル・アンバサダーの宿泊料金も全部支払ってくれた。支店員の話では、
「パリ|モントリオール間を行き来するには、ほとんどの方がエア・カナダを利用なさるので、直接便のないカナダ航空を利用されるお客様には、このくらいのサービスを致します」ということだった。

 さてホテル・アンバサダーに落ち着き、夕食は7時と聞いたので少し外を散歩してから食堂に入る。片言のスペイン語で注文した。あたりを見回していると、隣のテーブルで身なりの立派な紳士が3人、お食事中。まだ始めたばかりらしく、スープを召し上がっていた。私もワンコースをゆっくりいただいて、7時半過ぎにはまた外に出た。
 リスボンは古い伝統的な町で、移住地へ向かう船がひっきりなしに出入りしていた15世紀の頃の港が、そのまま残っている。大理石のような真っ白な岩壁と階段が、背景の青空と目に染みるようなコントラストを描き、今でもその光景は忘れられない。

 その晩は、坂をおりたり上ったりしているうちに9時半をまわり、またホテルの食堂に顔を出すと、さっきのボーイさんがコーヒーを持ってきてくれた。気が付くと、あの紳士方はまだ食事をしているではないか。私はボーイさんに、
「確か7時半ごろにはスープを召し上がっていらしたけれど?」
とフランス語で聞いた。彼はフランス語を話すらしく、笑いながら、
「この方たちは、ポートワインメーカーの方で、リスボンで一番のお金持ちです。毎晩お見えになって12時ころまでお食事をなさいます。もちろん召し上がるのは最初の食事だけで、2度目、3度目のコースはただ味わうだけで飲み込まないのです。ほら、銀の壷が3個、右手に置いてあるでしょう」
と教えてくれた。あの銀の壷に吐き出す……。ショックを受けて部屋に戻り、この妙な紳士たちのことを考えながら、モントリオールに期待をかけて眠りについた。

 翌日、DC8の機内はほとんどが移民の家族で、満員だった。モントリオール空港に着いて、移民局の待合室で自分の名前が呼ばれるのを待つ。ところが、2時間以上経ってもいっこうに私だけが呼ばれない。とうとう一人残ったので係員に尋ねると、
「あなたの名前は5回も呼んだんですよ」と言われた。
「何語でですか」と私。
「もちろんポルトガル語ですよ」と係員が答える。
 ポルトガル人に間違えられたのはさすがに初めてだと思いながら
「あのー、カナダではフランス語と英語を使うと聞いていましたが」
と、なおも問い返すと、彼女はあっさりと、
「この飛行機はポルトガル人の移民の飛行機ですから」と答えた。

 移民局でのインタビューを受ける。この担当官はフランス語と英語で会話を二、三した上で、
「OK、明日、市内の移住局に出頭しなさい」と言って、住所の書いた紙をくれた。
「今晩はどこに泊まるのか」と聞かれ、私が
「YWCAに行くつもりです」と答えると、安心したように、
「では三つだけ注意をしますが、この国では二回結婚しないこと、借家の契約書にサインをしないこと、最後に、中古車は買わないこと」
 私が思わず笑ってしまうと、「グッドラック!」と彼も笑顔で釈放してくれた。

 次の日、ドルチェスター街にある移住局へ出頭すると、
「ある法律事務所に秘書の仕事が待っているから」と、すぐに仕事を紹介してくれた。まったく至れり尽せりで、感心してしまった。翌日から早速その弁護士の秘書として働き出すことにした。
ついでに日本の領事館にも一応顔を出しておこうと出かけていった。

 私がカナダ政府の移民許可をもらったことを知ると、領事館では驚いて、当時現地に赴任していた亀井大使からじかに呼ばれたのである。
「どうやって来たんだね。おかしいではないか」と大使に不審がられたのには、こちらこそびっくりしてしまった。
 大使の説明では、日本からの移民は67年からしか認められてないはずで、それが66年の初めに来られるなんて普通じゃないとおっしゃるのだった。そう言われたって、私はちゃんと来たのだから困ってしまった。
 だがよくよく考えてみると、どうもカナダ政府が間違えたらしいのだ。
 そのころ私が持っていた日本のパスポートは1回だけ使える旅券で、期限はないが、日本に帰ったらその時点でだめになってしまうという一時的なものだった。この旅券を持ってよくカナダまで来たものだと大使には言われたけれども、そのパスポートとは別に、私はパリに永住するつもりだったので、パリ人としての証明書や、労働許可証、運転免許証などフランスの証明書をいろいろ持っていたのだ。
 だから、カナダ政府は私のことをフランス人と読み違えたのだった。
そのころのカナダは、ケベック州が分離独立を目指そうという最初の気配が見えてきたところだった。そこで当時のケベック州では、フランス語を話す人間をもっと増やしたかったのだ。つまり、私はその波に便乗してしまったというわけだった。

 カナダはただ気温が非常に低いことを除けば、住み心地のよいところだとすぐわかった。ただひとつだけ困ったことは、町に出てレストランに入ると、みんなのフランス語に歌うようなアクセントがあるので、おかしくて笑いをこらえるのに苦労したものだ。しばらくしてこれには慣れたけれども……。
 大都会モントリオール市の西側は英語をよく話すようだが、セイントローレンス街の東側ではほとんどフランス語だけが聞こえた。

 今度ははじめから仕事も確かなので安心だった。週給60ドルの中から15ドルを飛行機に割り当てることにした。そのためには昼の食事もコーヒーとホットドッグくらいに制限しなければならなかったが、私は平気だった。YWCAでの生活も、いろいろな人にめぐり合って面白かったけれど、とにかく倹約が必要だったので、ほどなく近くのアパートに引っ越すことにした。
いつも、何が目的でカナダまでやって来たのか、と繰り返し自分に言い聞かせた。ここで飛べないのなら、日本に帰るしかないのだと……。

 カナダに到着してから1週間、2月12日にはもう飛行機の訓練に入った。ウイークデイは働き、毎週土曜、日曜になるときまって、地下鉄とバスを乗り継いで、北にあるカルチエヴィル空港に通うようになった。この飛行場はあまりにもドルバル国際空港に近く、大型機が間違って進入することしばしで、今では一般には閉鎖されてしまっている。
 フランスのティサンディエ学校では、1940年代に製作された古いパイパーを大事に使っていたが、フランスでみんなに言われたように、ここでの練習機はみんな新しいセスナであった。
ことに私の通った「ローレンタイド・エビエーション社」は、セスナの代理店だったからなおのことだ。ここでは訓練機には新しいセスナを使用し、主にセスナを購入する客を訓練して、ライセンスをつけて飛行機を売るのが目的なのだった。

 フランスの飛行学校では「なぜ飛行機は飛ぶのか」という、根底にある流体力学を叩き込まれたが、カナダでは「いかにして飛行機を使用するか」ということに重点が置かれていた。
つまり広いカナダでは、軽飛行機は日常的に必要なのだ、ということが少しずつわかってきた。この国では車で行けないところが多いので、飛行機はスポーツではなく「空を飛ぶ自転車」なのだった。
 さて、そんなわけで地上学校のやり直し、である。
「毎週1回、夕方の6時から、英語のクラスは水曜、フランス語のクラスは木曜です。どちらかに出席しなさい」
と主任教官に言われる。はじめは両方に出席してみたが、やはりフランス語のアクセントが違うので英語のクラスに決めた。教官との同乗フライトでは、英語でもフランス語でもどちらでもいいと言ってしまったので、なんと8人も違った教官と乗る羽目になった。
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by eridonna | 2009-12-23 23:12 | 第3章 モントリオールへ

モントリオールの暮らし

 モントリオールはヨーロッパを近代化したような大きな都会だった。
 勤めている弁護士事務所では、秘書として速記や電話の応対もしたが、あるとき電話で裁判官と打ち合わせをして、では今からお宅の事務所にファイルを持って伺います、と電話を切った。5分後にその事務所のドアをノックして、顔を出す。
 すると「あなたは誰か」と聞くので、「さっき5分後に行くと言った者です」、と答えれば、私は中国人ではなくフランス人を待っているのだと素っ気なく言われた。
 あなたと電話で話したのはこの私ですよ、と説明すると、相手もようやく本当だとわかってとてもびっくりしていた。
 私のアクセントは在日フランス大使の秘書をしていて鍛えられたものだから、電話ではてっきりフランス人だと思われてしまうのだった。

 この弁護士事務所では離婚のケースをたくさん扱っており、中にはずいぶん気の毒な女性もいた。
 ある女性は27才の若さで、8人の子どもを抱えていた。しかもそのうち二組は双子で、あと2週間で9人目の子どもを出産するという、大きなおなかをしていた。そしてこんなに切羽詰ったこの時期に、まさに離婚しようとしているのだった。
 いろいろ話を聞いているうちに、目の前で泣き出してしまった彼女を慰めながら、こんなに自由で広々とした国なのに、裏を見ればこれほど悲しい話が多いなんて、いったいどういうわけなのだろうと考えこんでしまった。

 そうかと思うとこんなこともあった。昼食の時間には、私はいつもきまったレストランに出かけていたのだが、ある日、ウエイトレスが
「もっと何か栄養のあるものを食べないと病気になりますよ」
と注意をしてくれた。仕方がないので、
「毎週末に飛行機に乗るので、その分お金を使わないことにしているのです」
と正直に打ち明けてしまったのだ。
 するとその日から彼女はわざとコーヒー代を請求書に書かなくなったのである。この国には、こんな親切な人もいる。彼女の無言の思いやりが本当にうれしくて、心からありがとうと感謝した。

 もう単独飛行も10時間以上になり、あとはクロスカントリー飛行(遠くへでかける航法)を一人で3時間飛ばなければならない。毎週15ドルの枠ではとても費用が足りない。そこで、持っていたヒスイの指輪や、ミキモトの真珠のネックレスやイヤリングなど一切を質屋に入れると、200ドル位にはなったので、ホッとした。これで当分安心して飛ぶことが出来る。

 数日して、隣の会社のロランドさんと昼ごはんを食べているときだった。
「あなた、いつもはめている指輪はどうしたの」と聞かれる。
そこで「実は質屋に入れたのよ」と言うと、彼女は顔色を変えて、翌日質屋に入れたものを全部出してきた。
「こんな大事なものを200ドルくらいで流してはもったいないわ。いつでも、あなたにお金が出来たら返してくれればいいから」
と言って私の前に差し出した。
 私はモントリオールの女性のやさしさ、思いやりに思わず涙が出てしまった。
「ロランド、私はもうあきるほど、この真珠や指輪を身につけました。今度はあなたがつける番ですよ」 と言って、彼女の前に押しやった。
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▲ロランドさんと私。

 私は自分から望んで外国に出かけ、そこで暮らし始めた。でも私が外国に出た時代は、東洋人や女性に対する偏見や差別は今よりもずっとひどく、厳しいものであった。
 まして、これは私の武器でもあったが、言葉が理解できるために、他人が喋っている悪口が全部わかってしまうのである。内容がわからなければずっと気楽に過ごせたと思うが、白人の東洋人に対するあからさまな偏見が全部聞こえてくるので、これはつらかった。

 だが幸いなことに、私は生まれつき小さなことは気にならない性質で、嫌なことがあっても2、3日たてば忘れてしまうことも多かった。
 例えば何かの話のついでに「JAP!」と呼ばれたこともある。そのときは腹も立つが、カナダの白人にとっては第2次世界大戦の始まりとなった真珠湾攻撃がよほど痛手だったらしく、30年もたった今でも忘れることができないのだなあと思うくらいで、気にしなかった。
 それがこの国で、私自身が気持ちよく暮らせるコツなのだった。
 
そして、そんな中で、フランス人のモニクやカナダ人のこのロランドのように、女性の友人たちはいつでも私の味方だった。私が異国での暮らしに悩んでいるときに 熱心に耳を傾け、話を聞いて適当なアドバイスをくれた。彼女たちは言いたいことはっきり口に出すが、その反面、相手の気持ちを理解する余裕ももっていて、温かい思いやりでできる限りの助力を惜しまなかった。
まだまだ男性中心の世の中で、どれほど苦労しているのか、私たちはお互いに知っていたからだと思う。

 私が当時のモントリオールで借りていた小さなひと部屋のアパートは、月の家賃が60ドル。
アパートの地下には洗濯室があり、ある日、たまった洗濯物を持って降りていくと、一人の女性がやはり洗濯している最中だった。しばらくすると彼女のほうから話しかけてきた。

「失礼だけれども、あなたはどこか東洋人の血が混ざってますか?」
「ええ、100パーセント日本人ですよ」と言って笑うと、
「ああ、そうですか、モントリオールには日本人は少ないです。東洋人と言うとまず中国人が頭に浮かびますから。それにフランス語を話す東洋人はとても珍しい」と人なつっこい。
 彼女はひまらしくて,洗濯が終わると私の部屋にやってきて、
「何を作っているの?」
「ご飯を炊いて、フライドライス(いためご飯)にするところなの」
「おいしそうね。でもそれだけ?」
と聞くのでうなずくと、
「カナダは寒い国ですから、肉を食べないと病気になってしまいますよ」
と、レストランのウエイトレスと同じようなことを言う。たしかにそのころの私の食生活といえば、ごはんにおしょうゆをかけただけとか、せいぜい卵か野菜炒め、という質素なものばかりだった。
「ちょっと待ってて。私は4階の部屋におかずを取りに言ってくるから、今晩一緒に食事しましょう」
 
 彼女はすぐ戻ってきて、台所の流し場に巨大なステーキ肉をどかっと落とした。その晩は、彼女の親切とステーキの栄養のあるカロリーで、身も心もとても温まった。
 食事をしながら、彼女の身の上話に耳を傾ける。
 彼女は結婚していたが、ある日家に帰ったら、見知らぬ女が夫と一緒にベッドにいたためにそのまま家を飛び出し、それっきり家には帰っていないということだった。
 彼女の話では、カナダでは冬が3カ月と長く、その間どうしても家にこもりがちになるためにさまざまな問題が起こるとのことだった。
 突然雪が降り出して、あっという間に7、80センチも積もってしまうため、どれが自分の車かわからなくなってしまうとか、3日間も雪が降り止まないために自分の家に帰れず、深い仲になってしまう男女関係とか、思わず苦笑してしまうような悲劇がたくさんあるらしい。
そ の日から彼女ドニーズと親しくなり、しばしば夕食を共にするようになった。
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by eridonna | 2009-12-22 00:46 | 第3章 モントリオールへ

自家用ライセンス

10月になって、そろそろ自家用パイロットになるための筆記試験をまず受けなければいけないと思っていたころだった。

 ある朝、風邪をひいて咳で苦しそうにしていると、事務所の弁護士が、「今日は作らなければならない書類もないから、家に早く帰って休みなさい」と親切にも言ってくれた。
 そこでお礼を言って、喜んで早退して家に帰る途中、運輸省のビルに立ち寄ってみた。するとちょうど試験日だったので、ついでに席に座って筆記試験を受けてしまった。
これがかなりむずかしかった。あきらめて、
「では、また来ますから」と言って部屋を出ようとすると、
「ちょっと待ってください……。あ、パスしてますよ」と言われ、その場で合格通知書をもらってしまったのである。

 にわかには信じられなかった。
でもともかくこれでひとつ片付いた、とその日は足取りも軽くウキウキして家に帰ることができた。

 11月13日、だいぶ前に一緒に飛んだペニー・ネイラーという女性教官とまた飛ぶことになる。彼女は何も言わずに飛び上がり、今までやった空中操作を再検討しているみたいだった。1時間近くたったあと、
「いろんな悪い乗客がいてね、危ない操作をしたら止めてください」
と言うなり、いきなり操縦桿を私から取りあげ、機首を立てて機をひっくり返さんばかり。
 私は驚いて、彼女を押しのけて操縦桿を奪い取ると、安全な水平飛行に戻した。彼女はニヤニヤ笑いながら、
「そうです。あなたはパスしました。これでフライトテストは終わりです」と言う。

 なんてこと、もしあらかじめテストだと知っていたら、こんなに落ち着いて操作なんか出来なかったと思うと、ペニーさんのやり方にびっくりしたり、感謝したり…。
 そしてこれで、とうとう私は「自家用パイロット」の仲間に入ることが出来たのである。

 やった、やった、ついに憧れのライセンスを取ったのだ!
 これからは一人で、自由に、世界中の空を飛ぶことができるのである。

 この喜びの高揚感はそれからあと2週間以上も続いた。

 12月4日、まだ有頂天の喜びが消えないころ、一人でモントリオール近辺の遊覧飛行に出た。
 10分以上飛んだころだろうか、カルチェヴィル管制塔(コントロールタワー)から付近にいる飛行機を1機ずつ呼び出している。どうも急に視界が悪くなったらしい。
「ユニフォーム、パパ、オスカー、応答せよ」

 空中での通信をする場合は、世界中どこでも英語でやり取りするのが基本である。しかも雑音などで互いに聞き取れないことが多いため、アルファベットをそのまま伝えるときには単独では発音せず、それぞれが頭文字にある単語で表現する。
 それぞれの単語は、世界共通の約束ごとで決まっている。
 例えばAはアルファ、Bはブラボー、Cはチャーリーという具合に置き換えて表す。つまりこの場合は、「U、P、O、応答せよ」という意味なのだ。

 管制塔が2、3回呼んでも誰も答えない。なんで返事をしないのかしら、と思いながら計器版の上を見て驚いた。
 なんとUPOはこの飛行機ではないか。すぐに応答すると、
「すぐ180度機首を変えて、基地に戻れ」と言う。

了解。機首を転換する。

 すると、先ほどまで太陽が後ろにあったときは気がつかなかったのだが、今180度の方向転換をしてみて私もさすがにあわてた。
 あたり一面が銀の粉末を撒き散らしたみたいに、一寸先も前が見えない状態なのだった。急に発生した朝の霞に太陽がキラキラと反射している。
 この現象は気象学で「サブリメーション」といって、空気中にある水分が急に冷却した場合、水の固まりにならずに氷となり、アイスフォッグ(氷霧)が発生する、というものだ。
 セント・ローレンス河が近くにあるため、このあたりの空気は水分を含んでいる。温度が急に冷却したために、わずか5分か10分ほどで突然アイスフォッグが発生したのだ。

 管制塔からは、「機首を南に向けよ。ハイウエイ401号が下に見えるか?」
と、たずねてきた。私は翼の下にかすかに見える高速道路を確認して、
「アファーマティブ(はい)」と答える。
 管制塔は10秒おきに取るべき方向を指示してきて、滑走路の上まで無事に誘導してくれた。カルチェヴィル飛行場は空港としては小さいほうなので、レーダーの設備も最小限のものしかなかった。
 迷った航空機を誘導するのは容易ではなかったことだろう。

 私の場合、何かに喜んで有頂天になると、次の日には災難が待っているらしい。これで2度目だった。調子に乗らないように、自分で自分をいましめる。

▼綱島にて、家族とともに。(前列一番右が千代子)
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 ともかくこれで一応の願いがかなったのと、12月に父が最初の心臓発作で病院に運ばれたと聞いて、父の病気見舞いのために一度帰国することにした。
 そのころ神奈川県横浜の綱島に住んでいた両親の家に帰ったときは、久しぶりに弟の家族とも一緒に、本当に楽しい3カ月を過ごした。
 その間に日本飛行連盟とコンタクトをとり、日本の運輸省で筆記試験を受けたあと、日本の自家用操縦士免許を手に入れた。そして晴れて調布の飛行場から、東京の空へ飛び立った。乗った機種はセスナ172。

 いつか自分の手でこの空を飛びたい、と願った夢がやっとかなったのだった。

 けれどもがっかりしたことに、当時の東京上空は大気汚染の公害が一番ひどいときで、晴天でも2、3マイル先までしか見えないという視界の悪さだった。その上、ヘリコプターが多く、カナダでは考えられないような空中衝突という危険があった。
 さらに母の心配性も相変わらずちっとも治っていなかった。私が無事に地上に降りるまで、安心して息をすることもできないと言うのである。
 これではどうも日本の空を飛ぶのは考えもの、という結論を出さざるをえなかった。


 今回は日本に長く滞在するつもりでいたのだが、4月になると、モントリオールから突然電話がかかってきた。そのころボーイフレンドとして付き合っていたJ・P君が、私との結婚を許して欲しいと父に直接英語で申し込んできたのである。
 J・P君は私より5歳年上で、モントリオールの日本領事館を訪れたときに出会った人だった。車の運転の仕事をしていたが、やはりライセンスを持ったパイロットだった。

 J・P君は、仕事の合間に私の通っているカルチェヴィル飛行場にやってきたり、アイスホッケーを見に連れて行ってくれたり、一度はグループで水上飛行機をチャーターし、カナダ北部に無数にある湖のひとつに釣りに行ったこともあった。またモニクが結婚してすぐモントリオールにやってきたときは、市内見物の案内も買ってでてくれた親切な人だった。

 けれどもそれまでは彼の家族や彼自身について、あまりよく知るチャンスもないままに帰国してしまったので、電話で結婚申し込みをしてくるなんて、私にはまったく思いがけないことだった。そんな私に向かって父は、
「もう年も年だから、これがあなたにとって最後のチャンスかもしれない。近くにいてもらいたいが、カナダに帰ってもよろしい」と言う。
 それではと父の厚意をありがたく受けて、4月の末には再びモントリオールに向かうことにした。
「どうか何も経済援助はしてくださらないように。それと彼についてはまだ知りたいこともあるので、追って知らせます」と言い残して羽田を発った。

 カナダに帰って、今度は電気製品の会社に就職した。4月30日にはまたカルチェヴィル飛行場に戻り、いよいよ夜間飛行の訓練に入ることにする。

 1967年はモントリオールエクスポのあった年だ。
 市内がひときわにぎやかで活気があったある日曜日の午後、ドルチェスター街を歩いていると、偶然、J・P君がやはり散歩しているのに出会った。
 ところがびっくりしたことに、彼は女性と5歳くらいの男の子を連れて、楽しそうな家族連れといった雰囲気であった。なんと、彼には家族がいたのである。正式に結婚しているかどうかはともかくとして、あんなかわいい子どもまでいる以上、私の存在はどうみても好ましくなかった。

 男性というものは、どんなに不合理でも自分の望むものは手に入れようとするものだと、私は知っていた。
 男の人に対して私が求めるものは、フランスにいるときと変わっていなかった。つまり、すべてに誠実である人。ジャックとの苦しい関係で味わったような嫉妬や不安は、私はもうたくさんだったのだ。

 日本を出るときに父に言った自分の言葉を思い出し、あらかじめ予期していた現実を突きつけられたようだった。
 だがこの日の偶然の出会いがあったために、すんでのところで私は過ちを犯さずにすんだと思った。
 不幸中の幸いとでもいおうか、事実が明らかになったのだから、これでよかったのだ。
 私はむしろ、神様に感謝した。

 だが私がこのままモントリオールにいたら、彼との関係を解決する道がないと思い悩んだ私は、それから2、3日もたたないうちに、彼から逃げるようにバスでモントリオールを抜け出した。行き先は、トロントだった。
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by eridonna | 2009-12-20 00:53 | 第3章 モントリオールへ