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まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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プロローグ  マドモアゼル カミカゼ 1965_c0174226_10503130.gif


 1965年、5月末のパリ。ある晴れた土曜の午後。
 サン・ラザール駅から電車で20分、そこからバスで15分。エコール・サンシールという停留所で降りて、さらに10分歩く。このあたりはベルサイユ宮殿の近くで、緑の森のある美しい場所である。草原も一帯に広がり、付近には高い建物が全くなくて、ゴルフ場にももってこいのところだ。
 あっ、飛行機。
 草原の上を、一機の小型機が悠々と飛んでいる。
「いいなあ……」 私はその飛行機がうらやましくてずっと目で追いかけた。

 私が日本から脱出したのは前の年だった。
 10年以上続けたフランス大使館での秘書の仕事も、破格の高給だった外務省のフランス語通訳の仕事もすべてなげうって、33歳で思い切って日本を飛び出したのにはわけがあった。
 どうしても飛行機の免許がとりたい。私はパイロットになりたかったのである。
 
 日本で暮らしていては、その夢を実現させることは当時は到底不可能に思えた。
 経済的にも大変なお金がかかる上に、普通の女性が飛行機の免許を取るなんてこと自体が、好奇の目で見られた時代である。心に描いた夢を現実のものとするためには、私はどうしても外国に出る必要があったのだ。

 日本で身につけたフランス語を武器に、ツテを頼って目ざすパリに到着したものの、一人で何とか生活できるような余裕が生まれるまでは、とても飛行機の免許どころではなかった。フランスに来てから、すでにあっという間に8カ月あまりが過ぎていた。
 
 いつか自由に空を飛びたい…。

 その願いをあらためてかみしめながら、私は歩き出した。私が向かっているのは、パリ郊外のポール・ティサンディエ飛行学校だった。
 その昔、気球パイロットとして有名だったポールが、自分の名前を冠にして作った学校である。この学校のことは、フランス飛行連盟の紹介で知った。めざすクラブハウスから生徒らしい若い人々が出てきたので、一人の女性に声をかけてみる。

「あのう、ブラン氏はいらっしゃいますか?」
「ブラン氏? 知りませんね」 仕方なく、もう一人の青年の方に向かって、
「ブラン氏にお目にかかりたいのですが」とたたみかける。
「さあ、聞いたことないなあ、その人」
 どうしよう、途方にくれた私は、さらにもう一人の女性に向かって同じことを聞いた。
 彼女は「わからないけれど、あそこの格納庫で聞いてください」と言う。
 主任教官の名前を誰も知らないなんて、これは間違った飛行場へ来てしまったんだろうか。格納庫にたどりつくと、中年の男性が掲示板に何かを記入している最中だった。
「ここにブラン氏はいらっしゃいますか?」
「ああ、あそこで生徒と一緒にいる人がそうです」
 あとでわかったことだったが、この飛行場では、みんなしてニックネームで呼ぶので、誰もお互いの本名を知らないというわけだった。
 ともあれ「ブラン氏」、ニックネーム「ビドゥーユ」は、私をその場で生徒たちに紹介してくれ、チヨコはフランス語の発音ではショコになってしまう、呼びにくいなあとちょっと考えた末に、「マドモアゼル・カミカゼにしよう」と言ったのである。

プロローグ  マドモアゼル カミカゼ 1965_c0174226_21251229.gifこの飛行学校の生徒はほとんどがパリからやって来る人たちだった。
 医者、会社の重役、秘書、看護婦など、あらゆる職種にまたがっている。ここでは誰が金持ちだとか、有名人だとか、職業は何かというようなことは問題にされない。つまり社会的な地位に対する偏見が一切ないという、当時としてもとても変わった場所だった。

 ここで重要なのは、その人は「単独飛行」をしたのか、その「単独飛行」を何時間経験しているか、ということ。それが常にみんなの話題の中心なのだった。
 
 週末になると、生徒はみんな、朝の9時前にはもう飛行場にやってきていた。
 次の週は、元看護婦で「プリュプリュ」と呼ばれていた50歳の奥さんが、私の滞在しているホテルに車で迎えに来てくれて、一緒に出かけることになった。
 まずは全員で「パイパーJ3」という小型機を格納庫から引っ張り出す。ビドゥーユの計画どうりに、練習する生徒の順番を決めていく。

 ビドゥーユともう一人の若い教官、そして単独飛行をする生徒の3機が、全部滑走路から出発した。そのあと残った生徒は椅子を持ち出し、風にそよぐ吹き流しの下で自分の飛ぶ順番を待ちながら、降りてくる飛行機の着陸の練習を見ている。
 一人の年配の生徒が、待っているほかの生徒たちに向かって
「今度は何回バウンスするか、掛けをしろ」
と言いだした。すると、それぞれに1回、2回、3回と掛けて、一人50サンチームの掛け金をカップの中に入れていく。
 さあ、降りてきたぞ、全員が滑走路に目を集中させ、「アン、ドゥ、トロワ…」とバウンス(飛び跳ねる)するのを数え、そして、勝ったものがお金をいただくのである。
 教官ビドゥーユの飛行機が降りてきた。10メートルくらいの高さからエンジンを切って、音もなく地上2メートル以下に機体を沈ませる……。同時に見物席の生徒たちが
「まだ、まだ、まだ……。あー、遅すぎた!」と一斉に怒鳴る。
 どういうことなの、と私が怪訝そうな顔をすると、みんなが言うには、ビドゥーユがそのように怒鳴ってる声が聞こえる、というのである。
 いや、機内の声が見物席まで聞こえるはずはないのだが、10時間も20時間も教官と一緒に乗っていると、もう彼の声が耳にこびりついてしまうのだという。

 実際に、着陸数秒前に機体を引き起こすタイミングは非常にむずかしいものである。
 どの教官も声を荒だて、生徒が自分の指でその絶妙なタイミングを感じとることができるまでは、喉がカラカラになる。
 それだけに、着陸の秘訣を生徒に納得させるまで、何とかして付いてこようとする生徒と、辛抱強く待っている教官との間には、深い精神的な結び付き(コンタクト)ができるのである。
 だがそれは、それから何年もののち、私自身が教官になってみて、やっとわかったことでもあった。

 そのときの私は、ほかの生徒たちの練習風景を眺めながら、何とかして、みんなに追いつきたい、と痛切に思うだけだった。

 自分の限界の行けるところまで行ってみたい。

 山の頂上をふり仰ぐと、あまりにもはるか遠くて、気力を失ってしまいそうだった。一歩先だけを見て前進しなければ……。

 今のところの目標はとにかく「初単独飛行」のみ。それだけを目標にして当面過ごそう。生活費をできるだけ切り詰めながら、毎週のように飛行場に通う新しい暮らしが、ここパリで始まろうとしていた。
# by eridonna | 2009-12-31 15:50 | プロローグ