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まだ日本人の渡航が珍しかった60年代に日本を飛び出し、日本人女性として初めて、究極のパイロットライセンス、ATRを取得したカナダ在住のチヨコの物語。各ページの下部のリンクがなくなったら次章へどうぞ。


by eridonna
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私自身の弱さ

 1983年、1月16日だった。3カ月前に卒業したV氏が、夕方やってきて、友人を乗せてローカルフライトをしたいと言った。
 その日は南東の風がかなり強く、3カ月も乗っていないのでチェックフライトが必要だった。私は彼とサーキットを2回、10分間飛んだ。
 
「この風がこのままの強さなら、まあ何とか大丈夫でしょうが、もう少し左に寄った風になるか、もっと強くなった場合はあなたの手に負えなくなります。そうすると飛行機を壊すことになりますよ」
 私は彼を思いとどまらせようとしたが、彼は頑として「自分は大丈夫だ」と言い張った。
いつもの小さな声が聞こえた。
「この卒業生はどっちにしろあなたから離れることになる。このままいくか、いかないかはあなたの自由」
 このとき、私は自分が試されているとは気がつかなかった。
 V氏の意志があまりにも強いので、忍耐強く説得することをあきらめてしまい、
「では、暗くなる前に帰ってくるように」
と言って、フライトを許可した。

 時間が経過するにつれて、心配したとおりに風はさらに強くなり、今や彼の手に余るほどになった。
 ちょうど私はほかの生徒とCF―WUOに乗って、彼の乗ったCF―WUPのあとからサーキットにはいっていた。2分の1マイル離れて、一部始終を空の上から見ることになった。
 V氏は着陸したものの、風に押され、ラダ―の使用が遅すぎて、ランウエイを右にはみ出していく。そしてそのまま、滑走路の脇に積んであった固く凍った雪の山にぶつかった。
 プロペラと前の車輪を大破。二人ともケガはなかったが、彼が内心、かなり傷ついたことは疑いがなかった。
 それっきり、飛行機の操縦を断念してしまったのだ。

 CF―WUPは7000ドルの修理費がかかった。保険会社が5000ドル払い、学校が2000ドル。そして春にはまた使用できるようになった。
 自分を曲げなかった彼のほうに原因があるのだから、私が自分自身を責めることはない、と思っていたが、月日がたつにつれて、心の中が穏やかではなくなった。
 
 何が気になるのだろう。どこがまちがっていたのだろうか。自分で自分を分析してみる。

 気になっていたのは、私の行動だった。
 V氏にはどこかで私を女だと見くびっているようなところがあった。私の指示をにべもなく拒否するのは、そういう側面もあったと思う。そういうV氏に対して、私は忍耐強く応対するのが嫌になってしまったのだ。
 だが教官である以上、安全に飛ぶという原則を守るためには、決して相手の意志に左右されてはならなかったのだ。
 表面上は確かにV氏の問題だったが、私にとっては私自身の弱さに対するテストでもあった。

 神様はいつでも私たちの行動のあり方、心の動きを見ておられるという気がしていた。一つ一つの困難な出来事は、私がそれをどう超えるかという、ハードルのようなものなのだ。
 起こったことには、表面には見えない隠された真実がある。

 選ぶのは本人の自由、ということで「フライト許可」という決断を下したのだが、その裏には「短気」という私自身の問題が横たわっていたのである。
by eridonna | 2009-11-18 23:58 | 第10章 私の飛行機学校