不可思議な力
2009年 11月 09日
もうひとつ、不可解なことが起きた。
あるとき生徒の一人C氏が「私はいつ単独できそうですか?」と聞いた。
「そうですねえ。あなた次第ですが、今晩かもしれない。夕方の気流の静かなころ、6時に来てください」
と私は答えた。
さまざまな理由から、普通は「初単独」の時期は生徒には知らせないものである。
フランスのビドゥーユも、ほかのどの教官も同じである。
ある日突然、それまで一緒に乗っていた教官が飛行機の外に出て、「さあ、あなたは今から単独をしなさい」と生徒を驚かすのがどこでもお決まりのパターンだった。
世の中に、これほどガッツのいる仕事はほかにないと言ってもいい。生徒にとってはもちろんのこと、それを命じる教官は責任感にさいなまれ、生徒が無事に着陸するまで、心配顔でずっと滑走路の端に立っているのである。
そんな「初単独」だから、前もって本人に知らせると、心理的に緊張しすぎてうまくいかないのである。ひどい場合は病気になってしまう生徒だっているのだから。
これまでにはたった一人、ブランプトン空港で「あと何時間で僕は単独できそうですか」と聞いてきた17歳の生徒がいた。
私はちょうど彼に単独をさせようと考えていたときだったので、内心ギクッとしたが、
「さあ、どうでしょうねえ」とその場はごまかした。
そして車輪が地上についた途端、「ストップ」と言うと、そのまま外に出て「では一人でサーキット2回してきてください」と、彼を初単独に送り出した。
その少年は私とはたった4時間、同乗しただけだった。私の個人の記録では一番短い訓練であった。
彼は例外中の例外で、99%の生徒は初単独の時期について、自分からは聞かないものなのである。
▼ダッチェス村 800フィートから
ところでその晩、6時になっても、その生徒C氏は現れなかった。
7時になって電話が鳴った。生徒の一人でドクターのR氏からだった。
「あなたの生徒のCさんのことなのですが……」
「ハイ、彼がどうかしましたか」
「さっきヘリコプターでカルガリーの病院に運びました」
その日の夕方5時ころ、彼の農場で、ガソリンタンクが彼の体の上に落ちてきて、左の肩の骨と左の肋骨全部、左の腰骨を折ってしまったというのである。幸いタンクはほとんど空だったが、彼はそれから数ヶ月、ICU(集中治療室)から出られなかった。
8月に退院すると、痛み止めの薬が必要なくなるのを待って、彼はまた訓練にはいった。
もうそろそろ単独にいけるかな、と私が思い始めたころ、彼はまた同じことを聞いた。
「いつ単独できるのでしょうか」
「そうねえ、あしたの朝はどうかしら」
と言ってはみたものの、正直に見て、彼は最後の着陸寸前に飛行機のコントロールがうまくいってなかった。さて、どうしたものか。
ところが次の朝、9時になっても彼はこなかった。
そのうち生徒の一人が、情報を持って教室にやってきた。ラジオのニュースによれば、C氏の家族が早朝、カルガリーの手前20マイルのハイウエイで自動車事故に遭ったという。家族は軽傷で済んだが、C氏は前と同じ病院のICUにまた運ばれたのだ。
さっそく病院に見舞いにいくと、彼が言うには、居眠り運転をして中央の分離帯の壁に激突、車は3、4回も回転したそうだ。前の晩にほとんど眠れなかったからだと言う。
これを聞いて私は真剣に考えた。
「単独が頭にひっかかって眠れない人が、どうして2回も単独のことを聞くのだろうか」
さらに2ヵ月後、10月も終わりになって、C氏は杖をついてやってきた。
そしてどうしても離着陸の訓練をして欲しいという。そこで20分ほど同乗飛行をした。けれども以前とまったく同じ状況で、何か彼の中には心理的に厚い壁があり、そこにアプローチすることができない。
フライトを済ませ、コーヒーを沸かしながら、私は迷っていた。
彼はフライトの理論をのみこんでいないか、それともその理論を現場で実際に使えないのはなぜか、これ以上伸びない……。
「あの、ちょっと話したいことがあるのですが」と私が口火を切ると、
「実は僕もです」と彼が言う。
思い切って話しだしたら、考えてもいなかったことがすらすらと口から出てきた。
「申し訳ないけれど、どうも私はあなたに教えられないようです。もっと太くて長い滑走路のある、メディスンハット空港で訓練してごらんなさい」
すると、
「僕もちょうどそう思っていたところです」
それから彼はパイパーチャージャーという235馬力の飛行機を買って、メディスンハットでめでたくライセンスを取った。
最後には解決がついたようだが、このC氏に起こった出来事は、いったいどういうわけだったのだろう。
彼は結局、私のところでは「初単独」をする運命ではなかったのだ、と私は考えた。人間の目には見ない次元で、不可思議な力が働いたとしか考えようがなかった。
あるとき生徒の一人C氏が「私はいつ単独できそうですか?」と聞いた。
「そうですねえ。あなた次第ですが、今晩かもしれない。夕方の気流の静かなころ、6時に来てください」
と私は答えた。
さまざまな理由から、普通は「初単独」の時期は生徒には知らせないものである。
フランスのビドゥーユも、ほかのどの教官も同じである。
ある日突然、それまで一緒に乗っていた教官が飛行機の外に出て、「さあ、あなたは今から単独をしなさい」と生徒を驚かすのがどこでもお決まりのパターンだった。
世の中に、これほどガッツのいる仕事はほかにないと言ってもいい。生徒にとってはもちろんのこと、それを命じる教官は責任感にさいなまれ、生徒が無事に着陸するまで、心配顔でずっと滑走路の端に立っているのである。
そんな「初単独」だから、前もって本人に知らせると、心理的に緊張しすぎてうまくいかないのである。ひどい場合は病気になってしまう生徒だっているのだから。
これまでにはたった一人、ブランプトン空港で「あと何時間で僕は単独できそうですか」と聞いてきた17歳の生徒がいた。
私はちょうど彼に単独をさせようと考えていたときだったので、内心ギクッとしたが、
「さあ、どうでしょうねえ」とその場はごまかした。
そして車輪が地上についた途端、「ストップ」と言うと、そのまま外に出て「では一人でサーキット2回してきてください」と、彼を初単独に送り出した。
その少年は私とはたった4時間、同乗しただけだった。私の個人の記録では一番短い訓練であった。
彼は例外中の例外で、99%の生徒は初単独の時期について、自分からは聞かないものなのである。
▼ダッチェス村 800フィートから
ところでその晩、6時になっても、その生徒C氏は現れなかった。
7時になって電話が鳴った。生徒の一人でドクターのR氏からだった。
「あなたの生徒のCさんのことなのですが……」
「ハイ、彼がどうかしましたか」
「さっきヘリコプターでカルガリーの病院に運びました」
その日の夕方5時ころ、彼の農場で、ガソリンタンクが彼の体の上に落ちてきて、左の肩の骨と左の肋骨全部、左の腰骨を折ってしまったというのである。幸いタンクはほとんど空だったが、彼はそれから数ヶ月、ICU(集中治療室)から出られなかった。
8月に退院すると、痛み止めの薬が必要なくなるのを待って、彼はまた訓練にはいった。
もうそろそろ単独にいけるかな、と私が思い始めたころ、彼はまた同じことを聞いた。
「いつ単独できるのでしょうか」
「そうねえ、あしたの朝はどうかしら」
と言ってはみたものの、正直に見て、彼は最後の着陸寸前に飛行機のコントロールがうまくいってなかった。さて、どうしたものか。
ところが次の朝、9時になっても彼はこなかった。
そのうち生徒の一人が、情報を持って教室にやってきた。ラジオのニュースによれば、C氏の家族が早朝、カルガリーの手前20マイルのハイウエイで自動車事故に遭ったという。家族は軽傷で済んだが、C氏は前と同じ病院のICUにまた運ばれたのだ。
さっそく病院に見舞いにいくと、彼が言うには、居眠り運転をして中央の分離帯の壁に激突、車は3、4回も回転したそうだ。前の晩にほとんど眠れなかったからだと言う。
これを聞いて私は真剣に考えた。
「単独が頭にひっかかって眠れない人が、どうして2回も単独のことを聞くのだろうか」
さらに2ヵ月後、10月も終わりになって、C氏は杖をついてやってきた。
そしてどうしても離着陸の訓練をして欲しいという。そこで20分ほど同乗飛行をした。けれども以前とまったく同じ状況で、何か彼の中には心理的に厚い壁があり、そこにアプローチすることができない。
フライトを済ませ、コーヒーを沸かしながら、私は迷っていた。
彼はフライトの理論をのみこんでいないか、それともその理論を現場で実際に使えないのはなぜか、これ以上伸びない……。
「あの、ちょっと話したいことがあるのですが」と私が口火を切ると、
「実は僕もです」と彼が言う。
思い切って話しだしたら、考えてもいなかったことがすらすらと口から出てきた。
「申し訳ないけれど、どうも私はあなたに教えられないようです。もっと太くて長い滑走路のある、メディスンハット空港で訓練してごらんなさい」
すると、
「僕もちょうどそう思っていたところです」
それから彼はパイパーチャージャーという235馬力の飛行機を買って、メディスンハットでめでたくライセンスを取った。
最後には解決がついたようだが、このC氏に起こった出来事は、いったいどういうわけだったのだろう。
彼は結局、私のところでは「初単独」をする運命ではなかったのだ、と私は考えた。人間の目には見ない次元で、不可思議な力が働いたとしか考えようがなかった。
by eridonna
| 2009-11-09 21:13
| 第11章 終章