父の死と青い鳥
2009年 12月 16日
サンディ君と私はよくいろんなことで意見を言い合ったものだ。
特に議論したのが、「自由意志」についてだった。彼はよくこう言うのである。
「人が良い行いをするのも、悪い行いをするのも結局はその人の自由だ。人が自分で決めたこと、その人の自由な意志について、他人がとやかく言っても始まらないんだ」
当時の私には、彼のこの言葉はすぐには受け入れられなかった。
日本が公式にデモクラシイを取り入れたのは第2次世界大戦後の1945年だ。そのころの私は15歳。
それから20年以上経ったこのときでも、民主主義とは何か、人間の自由とは何か、まだわかっていなかったのだ。
人口密度の高い狭い日本の社会では、個人の自由を認めてはいても、いざそれを実行すると、周囲との摩擦が大きくなってしまう。
だからみんな、小さな自由に甘んじているか、あきらめてしまうことが多い。個人の意志を圧殺しても、全体の利益を優先する。
これは本当の意味のデモクラシイではないのである。
一方カナダやアメリカでは、最初の移住者たちが、古い伝統をもつヨーロッパの祖国との絆を断ち切ってやってきた。
主にプロテスタントとカトリック教徒の人々は、聖書の教えを基本として、創造主からいただいたそれぞれ個人の自由意志を尊重した社会をこの新天地に作ろうとした。
文化も習慣も違う人々が一緒に暮らす多民族国家である。お互いに知恵を出し合い、話し合い、お互いの自由を尊重する国家としての憲法を作ったのだ。
自由とはその範囲内でのことで、他人の自由を侵害する行動をとればもちろん法に触れ、法廷で裁かれる。
勝手気ままに育った私は、いつも自分の自由意志を押し通そうとして、周囲との摩擦を起こしていた。それで日本を脱出して外国へ逃げてきたようなところもある。
外国に来てしみじみわかったことは、自由意志の裏には、それに伴う行動に対する責任が付きまとう、ということだった。
つまり自分が決めたこと、やったことに対して、全責任を自分が負わなければならないのだ。他人を責めたり、言い逃れしたりすることはできないのである。
厳しい社会だが、そうすると自分の行動の結果がよいか悪いか、すぐ結論が出るということでもあった。
それはすっきりとしていて、とても私の性には合っていた。
西欧の社会のあり方、個人の自由の意味、そしてデモクラシイの深い意味について、だんだん納得がいくようになってきた。
▲コマーシャルパイロット訓練中
このころの私はカナディアンプレスという新聞社に勤め、収入も週給から月給となり、
月に400ドル以上ももらえるようになった。
3月に入ると、そろそろコマーシャル・ライセンスのフライトテストの日が近づいてきたので、
私もかなり緊張していたときである。
3月10日、チーフパイロットのミラー氏と模擬テストをする予定だった。
朝5時前に目がさめ、お風呂場で窓の外を見ながら、何となく父のことが思い出された。2年前に帰国したとき、父自身が「あと2年くらいの命だろう」と言っていたこと……。
7時になって電話が鳴り、母が取り乱した声で父の急死を知らせてきた。
その日、ともかく模擬テストを受けたものの、心身ともに宙に浮いているような状態だった。いそいで日本に帰らなければならない。
私が突然帰国しなければならないことを知ると、サンディ君は、
「日本に帰る前に僕と結婚して欲しい」
と言い出した。
私にとって、彼との結婚は、ずっと決めかねていた問題であった。私は彼との年令が離れすぎていると思っていたのだ。
だがそれにしても、こんなときに人生にとって重大なことを決めるのはどだい無理な話だった。
「そのお話は父の葬式から帰ってからにしましょう」
私はそう彼に告げると、翌朝にはバンクーバー経由で東京に帰った。
私が家に到着したとき、父の葬儀はちょうど終わったところだった。
親戚や数多い父の友人に会う一方、父の外国人の友人たちに、父の死を知らせる手紙を書くのは、私の役目だった。
父を失って、一人になってしまった母は、心細そうだった。私が日本に住んで、母と一緒に暮らすことが出来たら、母はどんなに喜んだことだろう。
親不孝な自分が恨めしかったけれど、祖国を離れてもうすでに5年もたっている。日本に戻って仕事を見つけることなど断念した矢先であった。
幸いなことに、長男である弟はよく私の事情を理解してくれて、母を説得し、母は大阪で弟一家と一緒に暮らすことになった。
母には「できるだけ何度も会いに来るから」と約束して、4月のはじめに私は再びトロントへと戻ったのである。
さて戻ったところで、サンディ君との結婚話をどう考えたらいいか、私は悩むはずだった。
ところが、ほんの数週間離れただけなのに、彼は出発前に私に結婚申し込みをしたことなど、すっかり忘れたようだった。一切、話題にしないのである。
それならそれで構わない、と思った。
私は初恋の痛手の大きさもあって、自分から男性に対して積極的になるということがどうしても出来なかった。
彼とはボーイフレンドのまま、過ごしていくことになった。
▲フライトテスト
これまでに私が付き合った男性は、じつは3人ともパイロットであった。
パイロットという世界は、ある意味で男も女もない世界のはずである。技術においても忍耐力においても、女の人が男の人に劣っているとは私は思わない。
かえって女のほうが慎重な分、安全飛行ができるくらいだと思っている。
だが、女が男と対等に立とうとすると、どうしても男の人のプライドが邪魔して、どこかで女を自分より一段下におこうとするのである。
これは私の経験だが、男性ばかりの職場に女性が入っていくと、競争心が征服欲に変わってしまって、女性と男性が対等な仲間同士という間柄にはなかなかなれないのだった。
一度だけ、サンディ君と一緒にオタワ空港に飛んだことがあった。
戦争中、サンディ君と同乗員だったパイロットのロバート・クロチェ氏がそのころ俳優として有名になり、ちょうどオタワで公演中だった。
クロチェ氏は普段はバンクーバーに住んでいたのでめったに会えない。そこでトロントに住むサンディ君は、オタワで旧友に再会しようというのだった。
オタワに着いたその午後、私たちはクロチェ氏を乗せて、3人でオタワ飛行場を再びトロントに向けて飛び立った。
ところが温暖前線が北上してきて、視界がわずか1マイルにまで落ちてしまった。サンディ君は高度を1000フィート以下に落とし、なおも高圧線に沿って飛ぼうとする。
冗談ではない。
私は黙ったまま彼から操縦桿を奪い取り、オタワ空港に引き返した。
2、3分も経たないうちにたちまち豪雨となり、飛行機の車輪が地面に着いたときは、もはや視界はゼロだった。
その晩、二人して汽車でトロントに戻ったが、サンディ君は怒ってしまって、私とはずっと口をきかなかった。このときばかりは彼の自尊心をひどく傷つけたようだった。
これまでも私はいつだって、幸福の「青い鳥」がどこかにいるはずだと、あちこち迷いながら探し求めてきたのである。
私が探していたのはどんな男性なのか? 外見など、どうでもよかった。
心の奥底からコミュニケートできる、偽りのない人。
欠点も長所も含めて、私のあるがままの姿を許してくれる人。
私が私らしく、私のありのままに振舞ったとしても、そんな私を愛してくれる人…。
だがそのような寛大な男性はこの世に存在しないらしかった。
青い鳥なんてそんなもの、所詮見つからないのだ。それならいっそ、一人でいたほうがいい。
そんな風に、男の人と親密な関係を作ることをあきらめてしまうと、当座はもうほかにすることがなかった。
そうなると勉強にもよく集中できるもので、やがて挑戦したコマーシャルパイロットの3時間の筆記試験も、私は無事パスすることが出来た。
そして5月26日には、ついに2時間のフライトテストを受けて難なく合格することが出来たのである。
これで私も、とうとうプロのパイロットの仲間入りを果たしたことになる。さすがに張り詰めていた体中の神経が、一度にゆるんだ気がした。
その後、妹さんから「サンディ君が心臓麻痺で亡くなった」という知らせを受けたのは、私がバンクーバーに住んでいた1976年のことであった。
特に議論したのが、「自由意志」についてだった。彼はよくこう言うのである。
「人が良い行いをするのも、悪い行いをするのも結局はその人の自由だ。人が自分で決めたこと、その人の自由な意志について、他人がとやかく言っても始まらないんだ」
当時の私には、彼のこの言葉はすぐには受け入れられなかった。
日本が公式にデモクラシイを取り入れたのは第2次世界大戦後の1945年だ。そのころの私は15歳。
それから20年以上経ったこのときでも、民主主義とは何か、人間の自由とは何か、まだわかっていなかったのだ。
人口密度の高い狭い日本の社会では、個人の自由を認めてはいても、いざそれを実行すると、周囲との摩擦が大きくなってしまう。
だからみんな、小さな自由に甘んじているか、あきらめてしまうことが多い。個人の意志を圧殺しても、全体の利益を優先する。
これは本当の意味のデモクラシイではないのである。
一方カナダやアメリカでは、最初の移住者たちが、古い伝統をもつヨーロッパの祖国との絆を断ち切ってやってきた。
主にプロテスタントとカトリック教徒の人々は、聖書の教えを基本として、創造主からいただいたそれぞれ個人の自由意志を尊重した社会をこの新天地に作ろうとした。
文化も習慣も違う人々が一緒に暮らす多民族国家である。お互いに知恵を出し合い、話し合い、お互いの自由を尊重する国家としての憲法を作ったのだ。
自由とはその範囲内でのことで、他人の自由を侵害する行動をとればもちろん法に触れ、法廷で裁かれる。
勝手気ままに育った私は、いつも自分の自由意志を押し通そうとして、周囲との摩擦を起こしていた。それで日本を脱出して外国へ逃げてきたようなところもある。
外国に来てしみじみわかったことは、自由意志の裏には、それに伴う行動に対する責任が付きまとう、ということだった。
つまり自分が決めたこと、やったことに対して、全責任を自分が負わなければならないのだ。他人を責めたり、言い逃れしたりすることはできないのである。
厳しい社会だが、そうすると自分の行動の結果がよいか悪いか、すぐ結論が出るということでもあった。
それはすっきりとしていて、とても私の性には合っていた。
西欧の社会のあり方、個人の自由の意味、そしてデモクラシイの深い意味について、だんだん納得がいくようになってきた。
▲コマーシャルパイロット訓練中
このころの私はカナディアンプレスという新聞社に勤め、収入も週給から月給となり、
月に400ドル以上ももらえるようになった。
3月に入ると、そろそろコマーシャル・ライセンスのフライトテストの日が近づいてきたので、
私もかなり緊張していたときである。
3月10日、チーフパイロットのミラー氏と模擬テストをする予定だった。
朝5時前に目がさめ、お風呂場で窓の外を見ながら、何となく父のことが思い出された。2年前に帰国したとき、父自身が「あと2年くらいの命だろう」と言っていたこと……。
7時になって電話が鳴り、母が取り乱した声で父の急死を知らせてきた。
その日、ともかく模擬テストを受けたものの、心身ともに宙に浮いているような状態だった。いそいで日本に帰らなければならない。
私が突然帰国しなければならないことを知ると、サンディ君は、
「日本に帰る前に僕と結婚して欲しい」
と言い出した。
私にとって、彼との結婚は、ずっと決めかねていた問題であった。私は彼との年令が離れすぎていると思っていたのだ。
だがそれにしても、こんなときに人生にとって重大なことを決めるのはどだい無理な話だった。
「そのお話は父の葬式から帰ってからにしましょう」
私はそう彼に告げると、翌朝にはバンクーバー経由で東京に帰った。
私が家に到着したとき、父の葬儀はちょうど終わったところだった。
親戚や数多い父の友人に会う一方、父の外国人の友人たちに、父の死を知らせる手紙を書くのは、私の役目だった。
父を失って、一人になってしまった母は、心細そうだった。私が日本に住んで、母と一緒に暮らすことが出来たら、母はどんなに喜んだことだろう。
親不孝な自分が恨めしかったけれど、祖国を離れてもうすでに5年もたっている。日本に戻って仕事を見つけることなど断念した矢先であった。
幸いなことに、長男である弟はよく私の事情を理解してくれて、母を説得し、母は大阪で弟一家と一緒に暮らすことになった。
母には「できるだけ何度も会いに来るから」と約束して、4月のはじめに私は再びトロントへと戻ったのである。
さて戻ったところで、サンディ君との結婚話をどう考えたらいいか、私は悩むはずだった。
ところが、ほんの数週間離れただけなのに、彼は出発前に私に結婚申し込みをしたことなど、すっかり忘れたようだった。一切、話題にしないのである。
それならそれで構わない、と思った。
私は初恋の痛手の大きさもあって、自分から男性に対して積極的になるということがどうしても出来なかった。
彼とはボーイフレンドのまま、過ごしていくことになった。
これまでに私が付き合った男性は、じつは3人ともパイロットであった。
パイロットという世界は、ある意味で男も女もない世界のはずである。技術においても忍耐力においても、女の人が男の人に劣っているとは私は思わない。
かえって女のほうが慎重な分、安全飛行ができるくらいだと思っている。
だが、女が男と対等に立とうとすると、どうしても男の人のプライドが邪魔して、どこかで女を自分より一段下におこうとするのである。
これは私の経験だが、男性ばかりの職場に女性が入っていくと、競争心が征服欲に変わってしまって、女性と男性が対等な仲間同士という間柄にはなかなかなれないのだった。
一度だけ、サンディ君と一緒にオタワ空港に飛んだことがあった。
戦争中、サンディ君と同乗員だったパイロットのロバート・クロチェ氏がそのころ俳優として有名になり、ちょうどオタワで公演中だった。
クロチェ氏は普段はバンクーバーに住んでいたのでめったに会えない。そこでトロントに住むサンディ君は、オタワで旧友に再会しようというのだった。
オタワに着いたその午後、私たちはクロチェ氏を乗せて、3人でオタワ飛行場を再びトロントに向けて飛び立った。
ところが温暖前線が北上してきて、視界がわずか1マイルにまで落ちてしまった。サンディ君は高度を1000フィート以下に落とし、なおも高圧線に沿って飛ぼうとする。
冗談ではない。
私は黙ったまま彼から操縦桿を奪い取り、オタワ空港に引き返した。
2、3分も経たないうちにたちまち豪雨となり、飛行機の車輪が地面に着いたときは、もはや視界はゼロだった。
その晩、二人して汽車でトロントに戻ったが、サンディ君は怒ってしまって、私とはずっと口をきかなかった。このときばかりは彼の自尊心をひどく傷つけたようだった。
これまでも私はいつだって、幸福の「青い鳥」がどこかにいるはずだと、あちこち迷いながら探し求めてきたのである。
私が探していたのはどんな男性なのか? 外見など、どうでもよかった。
心の奥底からコミュニケートできる、偽りのない人。
欠点も長所も含めて、私のあるがままの姿を許してくれる人。
私が私らしく、私のありのままに振舞ったとしても、そんな私を愛してくれる人…。
だがそのような寛大な男性はこの世に存在しないらしかった。
青い鳥なんてそんなもの、所詮見つからないのだ。それならいっそ、一人でいたほうがいい。
そんな風に、男の人と親密な関係を作ることをあきらめてしまうと、当座はもうほかにすることがなかった。
そうなると勉強にもよく集中できるもので、やがて挑戦したコマーシャルパイロットの3時間の筆記試験も、私は無事パスすることが出来た。
そして5月26日には、ついに2時間のフライトテストを受けて難なく合格することが出来たのである。
これで私も、とうとうプロのパイロットの仲間入りを果たしたことになる。さすがに張り詰めていた体中の神経が、一度にゆるんだ気がした。
その後、妹さんから「サンディ君が心臓麻痺で亡くなった」という知らせを受けたのは、私がバンクーバーに住んでいた1976年のことであった。
by eridonna
| 2009-12-16 15:26
| 第4章 トロントの新生活