チャーターパイロット
2009年 12月 10日
1974年は、私にとってはあわただしい年だった。
週のうち5日間はブランプトンで教官をして、日曜と月曜はトロント国際空港でチャーター便の仕事、という忙しさであった。
さらにたまに休日があると、トロント空港のスカイポートというハンガーで、双発機パイパーアズテックを借り、ブランプトンの生徒たちに双発機の訓練もしていた。
前年の10月に、風邪が原因でマネージャーのウイルソン氏が急に亡くなられてからは、レブンス・ハンガーからは足が遠のいていた。
あれは確か7月の半ば過ぎだったと思う。その日は教官の仕事は休みで、私は家にいた。
昼過ぎに電話があり、アメリカのデトロイトまでチャーターの仕事があると言う。クライスラー社の車の部品を運ぶのだ。「どうしてトラックで運ばないの?」と聞くと、納期が過ぎていて間に合わないのだと言った。
午後3時にハンガーに出向くと、すでに双発機アズテックが引き出されていて、荷物をいれるために中の客席シートが4つともはずされていた。自動車部品の入った大きな箱を天井まで一杯に積み上げ、飛び立つ。
デトロイトは、アメリカではニューヨークのケネディ空港、シカゴのオヘア空港についで3番目に忙しい空港だ。
私ははじめてなので、年長のパイロットのニコルソンさんがチェックパイロットとして一緒に来てくれることになった。
デトロイトはIFR(計器飛行)でないと入れないのだ。
デトロイトまでおよそ1時間半のフライト。トロントを出てから、私は高度8000フィートを保ち、西に向かった。まもなく雲の中に入る。
オンタリオ州のロンドン上空で、位置報告。そこから20分もすると、もうデトロイト管制区だ。双発機の第1ラジオの周波数をデトロイトに合わせて待つ。
なかなか呼びかけてこないので、しびれを切らしてこちらから声をかける。
「こちら、カナディアンCF―FGT」
すると、
「高度を6000フィートに落とせ」
とすぐ指示が来た。エンジンをしぼって高度を下げると、雲の中から出る。
眼下に大都会が広がっていた。さすがに大きなデトロイトだけあって、管制官は息をつくひまもなく喋りどおしである。突然、
「カナディアンCF―FGT、ランウエイ23に着陸許可。交差しているランウエイの手前でストップを厳守せよ」
冗談ではない。たった2マイルしかない距離のところから、どうやって6000フィートの高度を落とせと言うのだろう?
私は緊急降下をした。エンジンをしぼり、サイドスリップ(横すべり)。着陸装置をまだ出していないので、警笛がやかましく鳴り続ける。
最初の交差点で完全ストップなんて、軽業師でなければ出来ないじゃないの、と内心思いながら無我夢中でブレーキを踏んだ。
すると、私たちの前を、どこかのエアラインの大型機が横切って飛び立っていった。
ああ、なるほどね、このためだったのか。
やっと事情が飲み込めた。デトロイトの交通量はトロントの比ではないくらい多いのだ。ここの管制官は大変なのだった。
税関を通り、またすぐに離陸。今度は15マイル先のデトロイト市営飛行場に飛んだ。
本当の目的地はこっちだった。国境をまたぐので、まず税関のあるデトロイト空港に降りて、通関手続きをしなければならないのだった。
クライスラー社のトラックに無事荷物を引き渡し、任務を終える。
給油をして、帰りはカナダへ直行だ。トロントに戻って、ニコルソン氏は帰宅した。
時計を見るともう午後9時を過ぎていた。私も帰ろう、夕食をどこで食べようかなと考えているところへ、なんとまたトラックがやってきた。
「すみません、もう一度デトロイトへ行ってください。まだ残りの荷物があったのです」
「ええっ、だって私、まだ夕食もすませていないのに」
私は途方にくれた。依頼主は、
「僕も一緒に行って、荷おろしも手伝いますから、どうかお願いします」
と懇願する。仕方がない。また再び大きな荷物の箱を積みこみ、CF―FGTが滑走路に出たときはもう午後の11時を過ぎていた。
すきっ腹をかかえ、昼間の疲れもたまっていて、おまけに外は真っ暗である。離陸許可をもらったのに、おたおたしていたらしくて、
「CF―FGT、もし滑走路が見つかったら、離陸してもよい」
と管制官が笑いながら言うのが聞こえた。
さすがにもう真夜中を過ぎているデトロイト空港では、昼間のときとは違って入ってくる飛行機も少なく、着陸も離陸もスムースであった。
再び市営飛行場に到着。昼間と同じことを繰り返し、荷物をおろし、給油をし、さてまた1時間半かけてカナダに帰る。
若い依頼主は私の右側にすわって、ずっとタバコを吸いつづけた。煙のおかげで私は自分が燻製になった気分だった。
ロンドン空港のあたりで、また位置報告。今夜のトロントの管制官は、私に教官用の訓練をしてくれたチャーリー君だった。会話も多少、オフィシャルではなくなる。
「ロンドンの今のお天気はどうだい?」
「上を見ても星は見えないし、下も真っ暗よ」
ずっと雲の中を飛んでいるのだった。
トロントの10マイル手前から、ランウエイ05Rへのアプローチに入った。高度1830フィートでビーコンを通過。ランウエイ入り口まではあと3・9マイル。
ふと計器を見ると、ILS(計器着陸システム)の位置を示す針が大きく左へ動いているではないか。滑走路のセンターラインを示すビームよりも、右にそれて飛んでいるのだった。
この位置で修正は不可能。私は自動的にエンジン全開、再び上昇した。
アプローチのやり直し。今度はチャーリー君がビーコンまで誘導してくれた。私は全身に残っている力をかき集めるような気持ちで、ILSの針を見つめながら、高度を下げていく。
もう地上から300フィートしかなかった。だが前方は真っ暗で何も見えない。
どうしよう、代替飛行場へ行こうか……。ふと、5つだけ数えてみようという気になった。
1、2、3……、あっ! まぶしいほどのトロントの夜景が目に飛び込んできた。いきなり雲の下に出たのである。地上から200フィート。
ああ、助かった。
どうも、朝早く発生する霧のようだった。時計は午前4時を過ぎていた。
もう心身ともにクタクタで、やっとのことで家にたどり着いたときは、朝の6時になっていた。ゆっくり休む間もなく着替えをすると、8時からブランプトン空港で生徒の訓練をするために、私は再び家を出た。
生徒と乗っている間、一日中私はうつらうつらしていたようだ。
「そんなに眠そうにしているなんて、一晩中、いったい何をしていたんです?」
とある生徒からは怒られてしまった。
週のうち5日間はブランプトンで教官をして、日曜と月曜はトロント国際空港でチャーター便の仕事、という忙しさであった。
さらにたまに休日があると、トロント空港のスカイポートというハンガーで、双発機パイパーアズテックを借り、ブランプトンの生徒たちに双発機の訓練もしていた。
前年の10月に、風邪が原因でマネージャーのウイルソン氏が急に亡くなられてからは、レブンス・ハンガーからは足が遠のいていた。
あれは確か7月の半ば過ぎだったと思う。その日は教官の仕事は休みで、私は家にいた。
昼過ぎに電話があり、アメリカのデトロイトまでチャーターの仕事があると言う。クライスラー社の車の部品を運ぶのだ。「どうしてトラックで運ばないの?」と聞くと、納期が過ぎていて間に合わないのだと言った。
午後3時にハンガーに出向くと、すでに双発機アズテックが引き出されていて、荷物をいれるために中の客席シートが4つともはずされていた。自動車部品の入った大きな箱を天井まで一杯に積み上げ、飛び立つ。
デトロイトは、アメリカではニューヨークのケネディ空港、シカゴのオヘア空港についで3番目に忙しい空港だ。
私ははじめてなので、年長のパイロットのニコルソンさんがチェックパイロットとして一緒に来てくれることになった。
デトロイトはIFR(計器飛行)でないと入れないのだ。
デトロイトまでおよそ1時間半のフライト。トロントを出てから、私は高度8000フィートを保ち、西に向かった。まもなく雲の中に入る。
オンタリオ州のロンドン上空で、位置報告。そこから20分もすると、もうデトロイト管制区だ。双発機の第1ラジオの周波数をデトロイトに合わせて待つ。
なかなか呼びかけてこないので、しびれを切らしてこちらから声をかける。
「こちら、カナディアンCF―FGT」
すると、
「高度を6000フィートに落とせ」
とすぐ指示が来た。エンジンをしぼって高度を下げると、雲の中から出る。
眼下に大都会が広がっていた。さすがに大きなデトロイトだけあって、管制官は息をつくひまもなく喋りどおしである。突然、
「カナディアンCF―FGT、ランウエイ23に着陸許可。交差しているランウエイの手前でストップを厳守せよ」
冗談ではない。たった2マイルしかない距離のところから、どうやって6000フィートの高度を落とせと言うのだろう?
私は緊急降下をした。エンジンをしぼり、サイドスリップ(横すべり)。着陸装置をまだ出していないので、警笛がやかましく鳴り続ける。
最初の交差点で完全ストップなんて、軽業師でなければ出来ないじゃないの、と内心思いながら無我夢中でブレーキを踏んだ。
すると、私たちの前を、どこかのエアラインの大型機が横切って飛び立っていった。
ああ、なるほどね、このためだったのか。
やっと事情が飲み込めた。デトロイトの交通量はトロントの比ではないくらい多いのだ。ここの管制官は大変なのだった。
税関を通り、またすぐに離陸。今度は15マイル先のデトロイト市営飛行場に飛んだ。
本当の目的地はこっちだった。国境をまたぐので、まず税関のあるデトロイト空港に降りて、通関手続きをしなければならないのだった。
クライスラー社のトラックに無事荷物を引き渡し、任務を終える。
給油をして、帰りはカナダへ直行だ。トロントに戻って、ニコルソン氏は帰宅した。
時計を見るともう午後9時を過ぎていた。私も帰ろう、夕食をどこで食べようかなと考えているところへ、なんとまたトラックがやってきた。
「すみません、もう一度デトロイトへ行ってください。まだ残りの荷物があったのです」
「ええっ、だって私、まだ夕食もすませていないのに」
私は途方にくれた。依頼主は、
「僕も一緒に行って、荷おろしも手伝いますから、どうかお願いします」
と懇願する。仕方がない。また再び大きな荷物の箱を積みこみ、CF―FGTが滑走路に出たときはもう午後の11時を過ぎていた。
すきっ腹をかかえ、昼間の疲れもたまっていて、おまけに外は真っ暗である。離陸許可をもらったのに、おたおたしていたらしくて、
「CF―FGT、もし滑走路が見つかったら、離陸してもよい」
と管制官が笑いながら言うのが聞こえた。
さすがにもう真夜中を過ぎているデトロイト空港では、昼間のときとは違って入ってくる飛行機も少なく、着陸も離陸もスムースであった。
再び市営飛行場に到着。昼間と同じことを繰り返し、荷物をおろし、給油をし、さてまた1時間半かけてカナダに帰る。
若い依頼主は私の右側にすわって、ずっとタバコを吸いつづけた。煙のおかげで私は自分が燻製になった気分だった。
ロンドン空港のあたりで、また位置報告。今夜のトロントの管制官は、私に教官用の訓練をしてくれたチャーリー君だった。会話も多少、オフィシャルではなくなる。
「ロンドンの今のお天気はどうだい?」
「上を見ても星は見えないし、下も真っ暗よ」
ずっと雲の中を飛んでいるのだった。
トロントの10マイル手前から、ランウエイ05Rへのアプローチに入った。高度1830フィートでビーコンを通過。ランウエイ入り口まではあと3・9マイル。
ふと計器を見ると、ILS(計器着陸システム)の位置を示す針が大きく左へ動いているではないか。滑走路のセンターラインを示すビームよりも、右にそれて飛んでいるのだった。
この位置で修正は不可能。私は自動的にエンジン全開、再び上昇した。
アプローチのやり直し。今度はチャーリー君がビーコンまで誘導してくれた。私は全身に残っている力をかき集めるような気持ちで、ILSの針を見つめながら、高度を下げていく。
もう地上から300フィートしかなかった。だが前方は真っ暗で何も見えない。
どうしよう、代替飛行場へ行こうか……。ふと、5つだけ数えてみようという気になった。
1、2、3……、あっ! まぶしいほどのトロントの夜景が目に飛び込んできた。いきなり雲の下に出たのである。地上から200フィート。
ああ、助かった。
どうも、朝早く発生する霧のようだった。時計は午前4時を過ぎていた。
もう心身ともにクタクタで、やっとのことで家にたどり着いたときは、朝の6時になっていた。ゆっくり休む間もなく着替えをすると、8時からブランプトン空港で生徒の訓練をするために、私は再び家を出た。
生徒と乗っている間、一日中私はうつらうつらしていたようだ。
「そんなに眠そうにしているなんて、一晩中、いったい何をしていたんです?」
とある生徒からは怒られてしまった。
by eridonna
| 2009-12-10 18:24
| 第6章 教官のライセンス