私がいつの日にか日本を脱出しようと決心したのは、14歳のときである。
太平洋戦争が終わった、まさにその年だった。
終戦を迎えたのは広島県の呉市である。
その年の3月までは家族と共に神奈川県の横浜にいて、ミッションスクールの紅蘭女学校(現在の横浜雙葉学園)に通っていた。入学したころから戦争も激しくなり、行き帰りの電車の中でも空襲警報がなり出すようになった。その頃には、もうお菓子も店から姿を消していて、子どもたちは「欲しがりません、勝つまでは」と歌っていたものだ。
私の父、村上数一は東京高等商船学校を出て「日本郵船」の船長をしていたが、戦争が始まると海軍にはいって南方のトラック島に派遣された。その父がいったん日本に戻って今度は広島の呉湾に待機していた戦艦「青葉」に乗りこむことになったという。
そのため、1945年、3月の東京大空襲のあと、一家は横浜から呉市に疎開した。
その後「青葉」は沈みかけ、父は重巡洋艦「利根」に副艦長として乗り移ることになった。
まだ14歳の私にも、なんとなく感じられたのは「商船学校出の予備将校である父を500人乗りの軍艦に乗せるようでは、戦局も切羽詰まってきた」ということだった。

▲祖父母一家と。後列左から3人目が私。
当時の女学生たちは学校での授業など受けられず、学徒動員といって、勤労奉仕に駆り出されていた。14歳の私もその最後の世代の一人で、横浜にいたときは東芝の川崎工場で地上受信機の部品を作り、広島では、広島と呉の間にある吉浦にあった「時限爆弾工場」に毎日働きに出て、爆弾の部品を作らされていた。
この工場は海軍第11潜水艦基地に隣接していたので、毎朝その基地の前を通るたびに、これから出動する長さ10メートルくらいの一人乗り潜水艦(人間魚雷と呼ばれていたもの)を見かける。
私たち14、15、16歳の女生徒が50メートルほど離れた岸を通りかかると、まだ19か20歳の若い乗員が海軍旗をたたみ、我々のほうに向かって手旗信号で「話したい」「サヨナラ」と通信してくる。私たちも手をふって一生懸命、答えた。
あの時はゆっくり考えるひまのない無我夢中の毎日だったけれど、あとで彼らの任務は「出動すれば帰れない命令」だったと知った。各潜水艦に一人ずつ、爆弾を一つずつ積んで、出ていくのである。ガソリンは半分、往きの分しか入れない。もし生き残ることができても、海の中ではもうどうしようもないのだ。
あれが今生の別れの挨拶だったのだと思うと、今でも思い出すと涙がこぼれてしまう。あの戦争は、若い男の子たちにも、本当にひどいことをしたのである。
7月になって戦争は最終段階に入り、昼間はアメリカ軍の戦闘機が呉湾、広島湾にいる軍艦を攻撃、夜は呉市が空襲を受けるようになった。
父はもう何週間も家に帰ってこない。
吉浦の工場からはるか水平線に見える「利根」は、少し横にかしいでいるのと、マストが折れているのが見えた。父のいない夜、私たち一家は防空壕で過ごすことが多くなった。
8月6日、午前8時、私たち女生徒が海軍士官の朝の訓示を聞くために工場の庭で整列しているところへ、B29が一機やってきた。
その機体が、筒のようなものをぶら下げたパラシュートを投下したのが見えた。それは呉と広島の間にある山の向こう側に消え、私たちが工場内に戻って作業をはじめたまさにそのとき、すさまじい閃光が炸裂した。
みな、すぐ外に出る。と、途端にすごい爆音。
広島の方角に大きなきのこ雲がのぼるのを見て、全員がガタガタとふるえた。
やがて30分ほどしただろうか、海軍放送局からアメリカ軍が新型爆弾を使った、という報告が流された。
広島市と山ひとつ隔てていたおかげで、私は命拾いしたのだった。

▲両親と弟とともに。
だが日を追うごとに呉市内も焼け出され、港は火の海となり、もうこれまでという事態にまで来てしまった。
8月15日、日本は降伏し、父も無事でようやく家に帰ってきた。
戦前からアメリカを知っていた父が「人には言ってはいけないよ、でもこの戦争は勝てない」と密かに言っていたとおりだったではないか。
なぜ大人はこんな勝ち目のない戦争をしたのだろう。
戦争が終わって心からうれしかったけれど、私の中には大きな疑問が生まれていた。
大人が信じられない。親の世代への信用をすっかりなくしていた。
ほかの国ではどうなのだろうか。
いつか外国に行って、自分のこの目で見なければ気が済まないと思った。そのためにも英語の勉強をしなければ、と心に決めていた。
私がそんな風に考えるようになったのは、父親からの影響がとても大きい。
父は四国愛媛県今治の出身で、伊予の村上と呼ばれていたが、先祖はその昔瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍の血をひいている。
子どものときに、父からよくその話を聞かされたものだ。父の四、五代前までの村上一族は瀬戸内海を通行する船を止めて、「通行税」を取っていたという。
だがついに天皇の命令に従って陸に上がり、それからは紺がすりを売ったり豆腐屋になったりして今に至るのだが、もっと昔はかなり悪かったらしい。
奪ったものを大三島の神社に貯めていて、その宝を南方へ売りに行っていたのだ。タイあたりまで行って、バーターシステムで物々交換して砂糖を手にいれたりしていたという。
陸に上がった父も結局は海の男になった。1966年に66歳で亡くなったが、60歳まではずっと現役のキャプテンだったのだから。
そして私にも、海と空の違いこそあれ、その血は流れているのだと思う。
1930年の10月に、父・数一と母・九子の長女として生まれた私は、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。母が子どものころ非常に厳しく育てられたので、その反動だったのかもしれない。母の実家・徳島の渡辺家では娘を3人とも船乗りに嫁がせている。
初めて父の故郷の今治に連れられていったのは、たしか5歳の頃だった。
今でもよく覚えているのは、本家のいとこたちと一緒に小船に乗り、浜から沖へ出たとき、いとこたちはみな海に飛びこんで平気で泳ぎ出す。私だけが船に残されて怖くなって泣き出した。見ると水中では彼らが私の臆病さを笑っている。
私は急に悔しさがこみあげてきて、
「塩があるから浮くんだ。おぼれやしないよ」
といういとこたちの声に、ちょっとためらったものの、初めての海に飛びこんでしまう。海水をかなり飲んだようだが、いとこたちに助けられ無事に砂浜にたどり着いた。
どうもこれは生まれつきの性格らしく、そののち20歳を過ぎても、人から笑われると悔しくて激しく反発したものだ。
6歳のとき、弟が生まれ、母の愛情を独占できなくなった。
その頃には木登りが大好きだった私は、叔母たちがあきれるほど、いつも2歳年下のいとこと一緒に近所で評判の乱暴者、いたずら者として有名だった。
ところが弟のほうは、のちに母の台所仕事を自分から手伝うほどやさしい性格だったので、まわりの大人たちからは「男と女があべこべだ」と言われ、自分でも「これは神様がお間違いになられた」と思うようになり、女に生まれたことを嘆いたものである。
あの頃、どうしてあんなにじっとしていられない性質だったのかと考えれば、どうも父が欧州航路だった頃で、オランダのチーズ、ベルギーのチョコレートといつも御土産を持って帰ってきて、チーズを食べるのが私だけだったので、栄養過剰だったのかもしれない。
そんな私の性格をよくわかっていたのか、父は「今にきっと必要になる」と、戦争中から私に英語を教えてくれていたのである。12歳の私に「ガリバー旅行記」や「ロビンソンクルーソー」などの原書を与え、私は英単語の拾い読みなどをしていたのを覚えている。
思えば16歳までに、私は自分のやりたいことのリストをこしらえていたのだった。
英語、ドイツ語、ロシア語に、タイプも習おう…。
お金がたくさん欲しいわけではなかったが、自分の道を切り開くためには、「道具」は手に入れなければならない、そう考えていたのだ。
敗戦後、それまでの呉の海軍基地にはオーストラリアの部隊が駐留するようになり、基地のゲートには海軍の兵士の代わりにオーストラリア兵が立っていた。
ある日、私はその門まで行って、「エクスキューズミー、どなたか英語を教えてくれる人はいませんか」と大胆にも聞いてみた。とにかく、怖い物知らずで行動してしまうのだ。
すると、「オーストラリアの英語にはなまりがあるから、この人にしたら」と、その部隊にいたハワイの日系2世の山本さんという人が、毎週水曜日に英語を教えてくれることになった。
求めよ、さらば与えられん、というのを地でやったのだ。
そのオーストラリア部隊は6カ月でアメリカ軍と交替し、今度はGHQが来た。そこでまたある日のこと、私は基地に出かけて、「エクスキューズミー、デモクラシイとは何ですか」とゲートの兵隊に聞いたのである。
すると、制服に星のいっぱいついた人のところに通され、「そんなに知りたければ、あなたの学校の生徒みんなに教えましょう」ということになって、後日、私の通っていた広島県立第一高等学校で、通訳付きで2時間の講義が行われた。
そのとき「何か質問は?」という彼らの問いに、たどたどしい英語で質問したのは、私だけだった。知りたいことがあるとどこまでも突き進んでいくし、こんなことしたら恥ずかしいという気持ちもない。おかげで校長先生からはあれこれとずいぶんにらまれたものだ。
そうして広島の県立高校を卒業したあと、18歳で東京の津田英語塾の理科に入学した。
英語をやろうと思っていたのに、なぜか、第二志望の理科にまわされてしまったのである。正直言って多少不満であった。
だがこの「理科」を選択したことが、あとあと就職のときに役に立つことになる。
私は初めて家族と離れて、学校の寮に入って勉強をすることになった。おなかがすいてグーグーいっているのに、積分だ微分だ、なんて勉強をしていたのだから、たまらない。なかなか身が入らなかった。
このころになっても日本の経済はまだ立ち直らない。家族に経済的な負担をかけないために、私は学校を辞めて働こうと考えはじめた。1年後、さっさと津田塾を中退し、19歳で自立する道を選ぶ。
「お嫁に行く前に女が家を出るなんて」と、家族はもちろん猛反対であった。
このときばかりは、日頃からしょっちゅう世の中のことや生き方を巡って意見を戦わせていた父を、泣かせてしまったのである。
だが、私は一度決意したら、もうあと戻りはしない性質であった。
最初は、中央郵便局に勤めていた叔父や叔母のツテを頼り、当時そこに置かれていたGHQの検閲局で仕事をもらう。
ファイリング・クラークといって、社会の不穏な動きに敏感だったGHQが、手紙を開封してチェックする、その手紙の管理だった。
次は、東京中央電話局の英語のオペレーター・長距離交換手(トウキョウ・ロング・デイスタンスと呼んでいた)になった。
面白かったのは、採用のときに記憶力テストがあって、電話番号を2つ、パッと一瞬見せてそれを復唱させる。私はどういうわけか記憶力が抜群だったので、60人もの応募があったうち、採用された15人に残ることができた。
この長距離電話交換手は、時差の関係で夜中の仕事だった。
そこで昼間にはお茶の水にあったアテネ・フランセに通って、英語とフランス語を勉強することにした。このときがフランス語を学び始めた最初である。
そうこうして1年もたたないうちに、ある貿易会社が、フランス語と英語の両方を喋る秘書がほしいといって声をかけてきた。
その会社はジャガイモからアルコールを蒸留するという特許をもっていて、それを日本の酒造会社に売っていたのである。
私は理科系の勉強もしたから特許も扱えるということで、これはいいと雇ってもらえることになった。これでやっと本当に自活できることになった。
さらに、その会社にいた東京外語大出の先輩から
「外国語が話せても、速記などほかに特技がないとどうしようもない」
と忠告をされたために、それではと、独学で速記の勉強も始めることにする。
埼玉県浦和のカトリック教会のマクシム・シレール神父様が、カナダからグレッグ式速記の本を取り寄せてくださった。グレッグ式速記は英仏語両方に適用できるので、便利なのだった。
英語とフランス語に速記。
その3つを武器に、ある日、新聞で募集広告を見た「フランス大使館秘書」に応募すると、すんなりと採用がきまった。21歳になっていた。
太平洋戦争が終わった、まさにその年だった。
終戦を迎えたのは広島県の呉市である。
その年の3月までは家族と共に神奈川県の横浜にいて、ミッションスクールの紅蘭女学校(現在の横浜雙葉学園)に通っていた。入学したころから戦争も激しくなり、行き帰りの電車の中でも空襲警報がなり出すようになった。その頃には、もうお菓子も店から姿を消していて、子どもたちは「欲しがりません、勝つまでは」と歌っていたものだ。
私の父、村上数一は東京高等商船学校を出て「日本郵船」の船長をしていたが、戦争が始まると海軍にはいって南方のトラック島に派遣された。その父がいったん日本に戻って今度は広島の呉湾に待機していた戦艦「青葉」に乗りこむことになったという。
そのため、1945年、3月の東京大空襲のあと、一家は横浜から呉市に疎開した。
その後「青葉」は沈みかけ、父は重巡洋艦「利根」に副艦長として乗り移ることになった。
まだ14歳の私にも、なんとなく感じられたのは「商船学校出の予備将校である父を500人乗りの軍艦に乗せるようでは、戦局も切羽詰まってきた」ということだった。

▲祖父母一家と。後列左から3人目が私。
当時の女学生たちは学校での授業など受けられず、学徒動員といって、勤労奉仕に駆り出されていた。14歳の私もその最後の世代の一人で、横浜にいたときは東芝の川崎工場で地上受信機の部品を作り、広島では、広島と呉の間にある吉浦にあった「時限爆弾工場」に毎日働きに出て、爆弾の部品を作らされていた。
この工場は海軍第11潜水艦基地に隣接していたので、毎朝その基地の前を通るたびに、これから出動する長さ10メートルくらいの一人乗り潜水艦(人間魚雷と呼ばれていたもの)を見かける。
私たち14、15、16歳の女生徒が50メートルほど離れた岸を通りかかると、まだ19か20歳の若い乗員が海軍旗をたたみ、我々のほうに向かって手旗信号で「話したい」「サヨナラ」と通信してくる。私たちも手をふって一生懸命、答えた。
あの時はゆっくり考えるひまのない無我夢中の毎日だったけれど、あとで彼らの任務は「出動すれば帰れない命令」だったと知った。各潜水艦に一人ずつ、爆弾を一つずつ積んで、出ていくのである。ガソリンは半分、往きの分しか入れない。もし生き残ることができても、海の中ではもうどうしようもないのだ。
あれが今生の別れの挨拶だったのだと思うと、今でも思い出すと涙がこぼれてしまう。あの戦争は、若い男の子たちにも、本当にひどいことをしたのである。
7月になって戦争は最終段階に入り、昼間はアメリカ軍の戦闘機が呉湾、広島湾にいる軍艦を攻撃、夜は呉市が空襲を受けるようになった。
父はもう何週間も家に帰ってこない。
吉浦の工場からはるか水平線に見える「利根」は、少し横にかしいでいるのと、マストが折れているのが見えた。父のいない夜、私たち一家は防空壕で過ごすことが多くなった。
8月6日、午前8時、私たち女生徒が海軍士官の朝の訓示を聞くために工場の庭で整列しているところへ、B29が一機やってきた。
その機体が、筒のようなものをぶら下げたパラシュートを投下したのが見えた。それは呉と広島の間にある山の向こう側に消え、私たちが工場内に戻って作業をはじめたまさにそのとき、すさまじい閃光が炸裂した。
みな、すぐ外に出る。と、途端にすごい爆音。
広島の方角に大きなきのこ雲がのぼるのを見て、全員がガタガタとふるえた。
やがて30分ほどしただろうか、海軍放送局からアメリカ軍が新型爆弾を使った、という報告が流された。
広島市と山ひとつ隔てていたおかげで、私は命拾いしたのだった。

▲両親と弟とともに。
だが日を追うごとに呉市内も焼け出され、港は火の海となり、もうこれまでという事態にまで来てしまった。
8月15日、日本は降伏し、父も無事でようやく家に帰ってきた。
戦前からアメリカを知っていた父が「人には言ってはいけないよ、でもこの戦争は勝てない」と密かに言っていたとおりだったではないか。
なぜ大人はこんな勝ち目のない戦争をしたのだろう。
戦争が終わって心からうれしかったけれど、私の中には大きな疑問が生まれていた。
大人が信じられない。親の世代への信用をすっかりなくしていた。
ほかの国ではどうなのだろうか。
いつか外国に行って、自分のこの目で見なければ気が済まないと思った。そのためにも英語の勉強をしなければ、と心に決めていた。
私がそんな風に考えるようになったのは、父親からの影響がとても大きい。
父は四国愛媛県今治の出身で、伊予の村上と呼ばれていたが、先祖はその昔瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍の血をひいている。
子どものときに、父からよくその話を聞かされたものだ。父の四、五代前までの村上一族は瀬戸内海を通行する船を止めて、「通行税」を取っていたという。
だがついに天皇の命令に従って陸に上がり、それからは紺がすりを売ったり豆腐屋になったりして今に至るのだが、もっと昔はかなり悪かったらしい。
奪ったものを大三島の神社に貯めていて、その宝を南方へ売りに行っていたのだ。タイあたりまで行って、バーターシステムで物々交換して砂糖を手にいれたりしていたという。
陸に上がった父も結局は海の男になった。1966年に66歳で亡くなったが、60歳まではずっと現役のキャプテンだったのだから。

1930年の10月に、父・数一と母・九子の長女として生まれた私は、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。母が子どものころ非常に厳しく育てられたので、その反動だったのかもしれない。母の実家・徳島の渡辺家では娘を3人とも船乗りに嫁がせている。
初めて父の故郷の今治に連れられていったのは、たしか5歳の頃だった。
今でもよく覚えているのは、本家のいとこたちと一緒に小船に乗り、浜から沖へ出たとき、いとこたちはみな海に飛びこんで平気で泳ぎ出す。私だけが船に残されて怖くなって泣き出した。見ると水中では彼らが私の臆病さを笑っている。
私は急に悔しさがこみあげてきて、
「塩があるから浮くんだ。おぼれやしないよ」
といういとこたちの声に、ちょっとためらったものの、初めての海に飛びこんでしまう。海水をかなり飲んだようだが、いとこたちに助けられ無事に砂浜にたどり着いた。
どうもこれは生まれつきの性格らしく、そののち20歳を過ぎても、人から笑われると悔しくて激しく反発したものだ。
6歳のとき、弟が生まれ、母の愛情を独占できなくなった。
その頃には木登りが大好きだった私は、叔母たちがあきれるほど、いつも2歳年下のいとこと一緒に近所で評判の乱暴者、いたずら者として有名だった。
ところが弟のほうは、のちに母の台所仕事を自分から手伝うほどやさしい性格だったので、まわりの大人たちからは「男と女があべこべだ」と言われ、自分でも「これは神様がお間違いになられた」と思うようになり、女に生まれたことを嘆いたものである。
あの頃、どうしてあんなにじっとしていられない性質だったのかと考えれば、どうも父が欧州航路だった頃で、オランダのチーズ、ベルギーのチョコレートといつも御土産を持って帰ってきて、チーズを食べるのが私だけだったので、栄養過剰だったのかもしれない。
そんな私の性格をよくわかっていたのか、父は「今にきっと必要になる」と、戦争中から私に英語を教えてくれていたのである。12歳の私に「ガリバー旅行記」や「ロビンソンクルーソー」などの原書を与え、私は英単語の拾い読みなどをしていたのを覚えている。
思えば16歳までに、私は自分のやりたいことのリストをこしらえていたのだった。
英語、ドイツ語、ロシア語に、タイプも習おう…。
お金がたくさん欲しいわけではなかったが、自分の道を切り開くためには、「道具」は手に入れなければならない、そう考えていたのだ。

ある日、私はその門まで行って、「エクスキューズミー、どなたか英語を教えてくれる人はいませんか」と大胆にも聞いてみた。とにかく、怖い物知らずで行動してしまうのだ。
すると、「オーストラリアの英語にはなまりがあるから、この人にしたら」と、その部隊にいたハワイの日系2世の山本さんという人が、毎週水曜日に英語を教えてくれることになった。
求めよ、さらば与えられん、というのを地でやったのだ。
そのオーストラリア部隊は6カ月でアメリカ軍と交替し、今度はGHQが来た。そこでまたある日のこと、私は基地に出かけて、「エクスキューズミー、デモクラシイとは何ですか」とゲートの兵隊に聞いたのである。
すると、制服に星のいっぱいついた人のところに通され、「そんなに知りたければ、あなたの学校の生徒みんなに教えましょう」ということになって、後日、私の通っていた広島県立第一高等学校で、通訳付きで2時間の講義が行われた。
そのとき「何か質問は?」という彼らの問いに、たどたどしい英語で質問したのは、私だけだった。知りたいことがあるとどこまでも突き進んでいくし、こんなことしたら恥ずかしいという気持ちもない。おかげで校長先生からはあれこれとずいぶんにらまれたものだ。
そうして広島の県立高校を卒業したあと、18歳で東京の津田英語塾の理科に入学した。
英語をやろうと思っていたのに、なぜか、第二志望の理科にまわされてしまったのである。正直言って多少不満であった。
だがこの「理科」を選択したことが、あとあと就職のときに役に立つことになる。
私は初めて家族と離れて、学校の寮に入って勉強をすることになった。おなかがすいてグーグーいっているのに、積分だ微分だ、なんて勉強をしていたのだから、たまらない。なかなか身が入らなかった。
このころになっても日本の経済はまだ立ち直らない。家族に経済的な負担をかけないために、私は学校を辞めて働こうと考えはじめた。1年後、さっさと津田塾を中退し、19歳で自立する道を選ぶ。
「お嫁に行く前に女が家を出るなんて」と、家族はもちろん猛反対であった。
このときばかりは、日頃からしょっちゅう世の中のことや生き方を巡って意見を戦わせていた父を、泣かせてしまったのである。
だが、私は一度決意したら、もうあと戻りはしない性質であった。
最初は、中央郵便局に勤めていた叔父や叔母のツテを頼り、当時そこに置かれていたGHQの検閲局で仕事をもらう。
ファイリング・クラークといって、社会の不穏な動きに敏感だったGHQが、手紙を開封してチェックする、その手紙の管理だった。
次は、東京中央電話局の英語のオペレーター・長距離交換手(トウキョウ・ロング・デイスタンスと呼んでいた)になった。
面白かったのは、採用のときに記憶力テストがあって、電話番号を2つ、パッと一瞬見せてそれを復唱させる。私はどういうわけか記憶力が抜群だったので、60人もの応募があったうち、採用された15人に残ることができた。
この長距離電話交換手は、時差の関係で夜中の仕事だった。
そこで昼間にはお茶の水にあったアテネ・フランセに通って、英語とフランス語を勉強することにした。このときがフランス語を学び始めた最初である。
そうこうして1年もたたないうちに、ある貿易会社が、フランス語と英語の両方を喋る秘書がほしいといって声をかけてきた。
その会社はジャガイモからアルコールを蒸留するという特許をもっていて、それを日本の酒造会社に売っていたのである。
私は理科系の勉強もしたから特許も扱えるということで、これはいいと雇ってもらえることになった。これでやっと本当に自活できることになった。
さらに、その会社にいた東京外語大出の先輩から
「外国語が話せても、速記などほかに特技がないとどうしようもない」
と忠告をされたために、それではと、独学で速記の勉強も始めることにする。
埼玉県浦和のカトリック教会のマクシム・シレール神父様が、カナダからグレッグ式速記の本を取り寄せてくださった。グレッグ式速記は英仏語両方に適用できるので、便利なのだった。
英語とフランス語に速記。
その3つを武器に、ある日、新聞で募集広告を見た「フランス大使館秘書」に応募すると、すんなりと採用がきまった。21歳になっていた。
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by eridonna
| 2009-12-30 16:10
| 第1章 日本脱出