私は自分に語学の才能があるとは知らなかった。
いつか外国に出ようと決めた以上、英語も仏語も母国語ではないから、ハンディキャップが大きいことは明らかだ。だからそれなりに一生懸命勉強はしたと思う。
だが特別言葉の勉強で苦労した、という記憶はない。一度聞いたら単語を覚えてしまうというくらい、たしかに耳がよかったかもしれないのだが…。
でも私は留学を希望する今の若い人々のように、外国語を学ぶために外国に出たわけではなかった。なぜなら日本にいるときから、すでに話せるようになっていたのである。
どうしてそんなことができたのかとよく聞かれたが、外国語を話すということは、知識だけでなく「度胸」も大きく関係しているのではないかと思う。
例えばフランス大使館に勤めているとき、こんなことがあった。
あるときフランス大使の通訳で、帝国ホテルのロータリークラブの国際シンポジウムに出席することになった。日本とフランスの友好的な経済関係について述べる大使のフランス語を、日本語に訳すのである。
ところがでは始めようという段になって、大使は「忙しくて、スピーチを紙に書いておく暇がなかった」とおっしゃる。
「それでは、少しずつ区切ってお話くださいね。お願いします」
すると大使は、
「わかった、わかった。できるだけそうするよ」
しかし、約束してくださったにもかかわらず、たくさんの聴衆を前に熱弁をふるっているうち、通訳のことをすっかり忘れてしまわれた。
私は大使のほうを見てなんとか合図をしようとするのだが、大使はちっとも私のほうを御覧にはならない。気がつくと20分以上のスピーチはすべて終わってしまっていた。
そこでようやく私のことを思い出した大使は、あ、そうだった、ととてもすまなそうな顔をなさったのだが、時すでに遅し…。
だがそんなことを、ゲストのみなさんに悟られては絶対にいけない。
私は涼しい顔で覚えている限りの要点をつなげて、どうにかこうにか通訳を終えた。
会場からはわれるばかりの拍手! にこやかに壇上を降りられる大使。私も笑顔で役目を終えてホッとした。
とはいえ、このときは、さすがの私もだいぶ冷や汗をかいたのだった。
やれやれと、会場の隅でパーティーのお料理を夢中で頬張っていると、そこへ若いアメリカ人の記者がやってきた。
「やあ、素晴らしい通訳でしたね。メモもなくて、どうやってあんなに長いスピーチを訳すことができるのですか? 何かコツでもあるのですか」と聞くのである。
そうなのだ。私は手元にメモさえ持っていなかったのである!
仕方ないので、白状した。
「Well,I did my own speech.」(「はい、だって自分のスピーチをしたんですもの」)
彼の笑ったこと、笑ったこと! まわりの人が一体どうしたんだろうと見るほどの大爆笑であった。
私は肩をすくめて、にっこりした。
▼フランス大使館の女友達と。
もうひとつ、語学力の進歩に関連して、触れておかなければならないことがある。
アテネ・フランセでフランス語を習っていた頃、新聞に「仏語個人教授」という広告を見つけたので、こちらから連絡してみた。
それがそもそものきっかけで、11歳年上のジャックというそのパリ育ちのフランス人に出会った私は、生まれて初めて恋に落ちてしまったのである。
ジャックは新聞記者で、柔道を習うためもあって日本に来ていた。私といえばそのときはまだ20歳になるかならないかの若さだった。
とにかく私は、彼に夢中だった。寝ても覚めても彼のことばかり、彼に追いつきたい、何とかして彼についていきたい、と一生懸命なのだった。
それまで男を差し置いて「木登り大好き」というおてんば娘だったのが、急に色気付いておしとやかになってしまった。親戚の者があきれるほどの変わりようだったという。
彼と対等に話したくて仕方がない。
彼をなんとか理解したいと努力するので、確かにフランス語はここで格段の進歩をしたのである。
初めの頃は英語を混ぜて会話していたが、そのうちフランス語だけで会話ができるようになり、休日には水道橋の「講堂館」に行って三船十段(?)やその他の先生方とのインタビューの通訳をしたものだ。彼自身も黒帯の三段だった。
九州まで一緒に自動車旅行をしたり、彼のフランスのパイロットライセンス(そうなのだ、彼がパイロットだったのである)をもとにして、日本での事業用ライセンスを取るため、日本語の航空法規を訳してあげたり、「東京しののめ飛行場」(今はない)での遊覧飛行を手伝ったりした。
だが世の中のことをまだ何も知らないに等しい私には、この恋は荷が重すぎた。
彼は生粋のパリっ子で、おまけに気むずかし屋ときていた。彼にとって、私という娘はいわば「帯に短し、たすきに長し」という相手だったのかもしれない。
しょっちゅう文句を言われるのである。たとえば戦後数年しかたってない日本では、当然ながら服装も野暮ったかった。
ある日、三越だったか、デパートを歩いているとき、私にぴったりのドレスを着たマネキンが立っているのを見て、彼がそのドレスを買ってくれたことがあった。そこでそれからは、ホテルのアーケードで洋装店をやっていたいとこに、いろいろとドレスを注文するようにした。
なんとか彼にふさわしい「文明人」になろうと、私は必死で努力したのである。
ところが彼は一方で、数多い女友達に囲まれた「パリ式の生き方」をする人なのだった。初恋で片思いの私には、それがどうしても理解できなくて、見て見ぬ振りをするしかなかった。
あるときには、銀座4丁目にあった「高島屋PX」(連合軍とその家族しか入れないデパート)に連れていってくれたのは良いが、そこでフランス語を教えている他の女生徒に出会い、その人と一緒にそのまま出ていってしまったことさえあった。
一人残された私は、外国人の同伴なしには出られない。閉店まで待っていたら、通り掛かったアメリカ軍の人が、気の毒に思ってくれて私を同伴してPXの外に出してくれた。
1960年、ジャックは英仏日の3カ国語の会話の本を自費出版した。
日本は居心地が良くなったらしく、ひと月ほどフランスへ帰ってパリの空気を吸ってまた戻ってくると、こんどはフランス政府の仕事についた。
この頃には父がまだ外国航路の船に乗っていたので、私が父に頼んで、船長の特権で彼の車をフランスのル・アーブルから横浜に運んでもらったこともある。
私がフランス中小企業団について大阪に出張しているときなど、彼は一人でも私の両親の家にやってくる、という気安い間柄にもなっていた。
ところがそれなのに、依然として、彼の生き方は変わらないのである。
ことに、フランス経済顧問の下で働き出した彼と、同じ局で通訳する私が毎日顔を合わせるようになると、また新しい女性との交際が目につき、私はこれ以上の屈辱に耐えられなくなった。

私はこんなにも彼を愛しているのに、あまりに態度がおかしいから、ある日ジャックに質問したことがある。
「あなた、私を愛しているんでしょうけれども、程度問題ってことなの?」
笑いながら答えた彼の言葉は、
「愛していないとは言わないけれども、完全に愛しているとも言えないんだ」
結婚するほど愛してないということは、それほど愛していないと言う意味だと私は理解するしかなかった。自分を犠牲にしてまで、自分のものにはしたくないのだ。
「それなら私を嫌いだと言ってくれたら、私は喜んで出ていくのに」と言うと、
「それは困る。君を嫌いなわけじゃないんだ。出ていっては困るよ」 これでまたいつもと同じ堂々巡りになる。
彼なしでは生きられず、彼がいても生きられない。
彼と付き合っていた12年間、私は楽しいどころか、苦しくて苦しくて、生きた心地がしなかった。彼は結婚してくれるわけではないから、私ばかりがどうにもならない恋に身を焦がして、出口がなかった。両親もそれとなく忠告してくれていたが、私の意思を尊重し、ただ見守っているだけしかできなかった、という。
私は何に対しても全勢力を集中する質なので、その無我夢中の自分をコントロールすることができなかった。曖昧にしたまま、適当に過ごせれば楽だったのかもしれない。
でも、私にとって一番大事なものは、私にとっての「真実」だった。
その頃はまだ若くてわからなかったが、じつはその「真実」ほどハードなものはない。だが、どんなにつらくても、私は自分にとっての「真実」が欲しかったのだ。
ある夜、長いこと、泣きながら一人で車を運転していた。
パジャマの上にレインコートを羽織った格好だった。彼との関係に心底絶望していた。
どこをどう走ったか、覚えていない。暗い場所に車を止めて、ただぼんやり泣きじゃくっていたらしい。あたりは真っ暗で、星だけがよく光って見える夜だった。
突然、懐中電灯をもった人物が近寄ってきて、コンコンと窓をたたく。
「もしもし、こんなに夜遅く、どこへ行くんですか」 見れば、お巡りさんである。
「ただ、ドライブしているだけです」
「でもあなた、すぐそこはもう多摩川ですよ」
えっ、と外を見て、私は急にわれに返った。
そのままあとわずか数メートル進んでいたら、私は車ごと、真っ暗な冷たい川に真っ逆様に落ちていくところだったのだ。
気がつくと、こんな天気のいい日なのに、私はワイパーも動かしていたのである。
私はギアをいれ、エンジンをスタートさせると車をバックさせた。すんでのところで声をかけて現実に引き戻してくれたお巡りさんに、心の底で感謝しながら。
東京方面に車を向けて走り出しながら、急に長い間の憑き物が落ちたように、今の自分の姿がよく見えた。私ったらいったい、今まで何をやっていたのだろうか。あの、私らしく、目標に向かっていつも真っ直ぐ進んでいた自分は、どこにいってしまったのか。
その瞬間、彼のことはもうどうでもよかった。生きよう。
こんなところで死んだりしたら、育ててくれた父と母に申しわけない。
そんな出来事のあったあと、はじめてジャックに会ったとき、不思議と何の感情も湧いてこなかった。口に出てきたのは、
「今まで私があなたを慕ってついてきましたが、もうここでやめます」
「では、もう僕を愛していないの?」
「そうです。私にとってこの恋はもう終わりました」
「では、僕を憎んでいるの?」
「いいえ、もう私には関係ありません」
私がこう言った途端、気の毒な彼は、何かなくしものをしたときのように怒り、その場でびっくりするほどいきり立った。私といえば、ただ黙って、そんな彼をながめていたのである。
今考えると、あの苦しい恋は、神様が私に与えられた試練だったということがよくわかる。
強情で自信満々の私の目を覚ますには、あれしか方法がなかったのだろう。でもその渦中にいるとき、そんな風に自分から気が付くのはむずかしい。
私はそれから10年、「失恋」というコンプレックスに悩むことになる。
そんな失恋の苦さを味わいながらも、彼と付き合っていたおかげで、私の語学力のほうは着実に進歩していった。
フランス大使館に勤めながら、国際会議などの同時通訳のアルバイトも始めた。
当時外務省に雇われる同時通訳者で、日本語と英語をすぐフランス語に訳せる人間は、たった3人しかいないと言われた。
あとの二人はフランスで育った人で、日本から一歩も出たことないのは、私だけだった。
もちろんそれはちょっぴり誇らしくもあったが、私の本当の目的は外国に出ることなのだから、とても自慢するどころではなかった。
ただその外務省の通訳はお金になった。
当時、1時間50米ドルという破格のギャラだったと記憶している。
しかも昼間はフランス大使館で働き、夜は夜で、英語とフランス語、それに速記も教えていた。午後5時に港区の大使館を出ると、街で簡単な夕食を済ませてから、渋谷にあった学校に飛び込む。
毎日毎日、ものすごく忙しかった。家に帰ると真夜中の12時だ。でも若かったから、私は平気だった。20代の後半、若いときには、そんな風に働くのもいいと思う。
そして、こうして、私はフランス行きの旅費を準備することができたのだ。
ジャックとの恋は、私の人生にもう一つ、思いがけない運命の扉を用意していた。言うまでもなく、彼こそが飛行機乗りだったからである。
彼との長い苦しい恋が終わっても、「私もいつか、パイロットになりたい、なってやる」という決心だけは、私のなかに強く残った。
当時、神奈川県の藤沢に小さな飛行場があって、元海軍の兵士が教えてくれるというので、頼みにいったことがある。
海上航空の小川操縦士という方から30分間、生まれて初めて空を飛ぶ手ほどきを受けた。機種は小さなパイパートライぺーサーという小型機。それが1961年のことだった。
そしてそれが病みつきになった。
だが1時間教えてもらうのに費用は1万円。1回飛ぶのに3カ月分のお給料が飛んでしまうのだ。外国なら、もっと安く、訓練することができると聞いていた。
それになにしろ母が心配症で、いくら私がおてんばでも「飛行機に乗る」などという危険なことを受け入れるには耐えられないらしかった。母をいたわる父からも「どうか危ないことは遠くでしておくれ」と懇願される。
いよいよこれは、出発のときが来たらしい。
ちょうど、日本に来ていたフランスの貿易会社の社長から3カ月の雇用契約を取り付け、フランス大使館も辞職して、私はパリをめざすことになった。
1964年8月、私は33歳になっていた。
いつか外国に出ようと決めた以上、英語も仏語も母国語ではないから、ハンディキャップが大きいことは明らかだ。だからそれなりに一生懸命勉強はしたと思う。
だが特別言葉の勉強で苦労した、という記憶はない。一度聞いたら単語を覚えてしまうというくらい、たしかに耳がよかったかもしれないのだが…。
でも私は留学を希望する今の若い人々のように、外国語を学ぶために外国に出たわけではなかった。なぜなら日本にいるときから、すでに話せるようになっていたのである。
どうしてそんなことができたのかとよく聞かれたが、外国語を話すということは、知識だけでなく「度胸」も大きく関係しているのではないかと思う。
例えばフランス大使館に勤めているとき、こんなことがあった。
あるときフランス大使の通訳で、帝国ホテルのロータリークラブの国際シンポジウムに出席することになった。日本とフランスの友好的な経済関係について述べる大使のフランス語を、日本語に訳すのである。
ところがでは始めようという段になって、大使は「忙しくて、スピーチを紙に書いておく暇がなかった」とおっしゃる。
「それでは、少しずつ区切ってお話くださいね。お願いします」
すると大使は、
「わかった、わかった。できるだけそうするよ」
しかし、約束してくださったにもかかわらず、たくさんの聴衆を前に熱弁をふるっているうち、通訳のことをすっかり忘れてしまわれた。
私は大使のほうを見てなんとか合図をしようとするのだが、大使はちっとも私のほうを御覧にはならない。気がつくと20分以上のスピーチはすべて終わってしまっていた。
そこでようやく私のことを思い出した大使は、あ、そうだった、ととてもすまなそうな顔をなさったのだが、時すでに遅し…。
だがそんなことを、ゲストのみなさんに悟られては絶対にいけない。
私は涼しい顔で覚えている限りの要点をつなげて、どうにかこうにか通訳を終えた。
会場からはわれるばかりの拍手! にこやかに壇上を降りられる大使。私も笑顔で役目を終えてホッとした。
とはいえ、このときは、さすがの私もだいぶ冷や汗をかいたのだった。
やれやれと、会場の隅でパーティーのお料理を夢中で頬張っていると、そこへ若いアメリカ人の記者がやってきた。
「やあ、素晴らしい通訳でしたね。メモもなくて、どうやってあんなに長いスピーチを訳すことができるのですか? 何かコツでもあるのですか」と聞くのである。
そうなのだ。私は手元にメモさえ持っていなかったのである!
仕方ないので、白状した。
「Well,I did my own speech.」(「はい、だって自分のスピーチをしたんですもの」)
彼の笑ったこと、笑ったこと! まわりの人が一体どうしたんだろうと見るほどの大爆笑であった。
私は肩をすくめて、にっこりした。

もうひとつ、語学力の進歩に関連して、触れておかなければならないことがある。
アテネ・フランセでフランス語を習っていた頃、新聞に「仏語個人教授」という広告を見つけたので、こちらから連絡してみた。
それがそもそものきっかけで、11歳年上のジャックというそのパリ育ちのフランス人に出会った私は、生まれて初めて恋に落ちてしまったのである。
ジャックは新聞記者で、柔道を習うためもあって日本に来ていた。私といえばそのときはまだ20歳になるかならないかの若さだった。
とにかく私は、彼に夢中だった。寝ても覚めても彼のことばかり、彼に追いつきたい、何とかして彼についていきたい、と一生懸命なのだった。
それまで男を差し置いて「木登り大好き」というおてんば娘だったのが、急に色気付いておしとやかになってしまった。親戚の者があきれるほどの変わりようだったという。
彼と対等に話したくて仕方がない。
彼をなんとか理解したいと努力するので、確かにフランス語はここで格段の進歩をしたのである。
初めの頃は英語を混ぜて会話していたが、そのうちフランス語だけで会話ができるようになり、休日には水道橋の「講堂館」に行って三船十段(?)やその他の先生方とのインタビューの通訳をしたものだ。彼自身も黒帯の三段だった。
九州まで一緒に自動車旅行をしたり、彼のフランスのパイロットライセンス(そうなのだ、彼がパイロットだったのである)をもとにして、日本での事業用ライセンスを取るため、日本語の航空法規を訳してあげたり、「東京しののめ飛行場」(今はない)での遊覧飛行を手伝ったりした。
だが世の中のことをまだ何も知らないに等しい私には、この恋は荷が重すぎた。
彼は生粋のパリっ子で、おまけに気むずかし屋ときていた。彼にとって、私という娘はいわば「帯に短し、たすきに長し」という相手だったのかもしれない。
しょっちゅう文句を言われるのである。たとえば戦後数年しかたってない日本では、当然ながら服装も野暮ったかった。
ある日、三越だったか、デパートを歩いているとき、私にぴったりのドレスを着たマネキンが立っているのを見て、彼がそのドレスを買ってくれたことがあった。そこでそれからは、ホテルのアーケードで洋装店をやっていたいとこに、いろいろとドレスを注文するようにした。
なんとか彼にふさわしい「文明人」になろうと、私は必死で努力したのである。
ところが彼は一方で、数多い女友達に囲まれた「パリ式の生き方」をする人なのだった。初恋で片思いの私には、それがどうしても理解できなくて、見て見ぬ振りをするしかなかった。
あるときには、銀座4丁目にあった「高島屋PX」(連合軍とその家族しか入れないデパート)に連れていってくれたのは良いが、そこでフランス語を教えている他の女生徒に出会い、その人と一緒にそのまま出ていってしまったことさえあった。
一人残された私は、外国人の同伴なしには出られない。閉店まで待っていたら、通り掛かったアメリカ軍の人が、気の毒に思ってくれて私を同伴してPXの外に出してくれた。
1960年、ジャックは英仏日の3カ国語の会話の本を自費出版した。
日本は居心地が良くなったらしく、ひと月ほどフランスへ帰ってパリの空気を吸ってまた戻ってくると、こんどはフランス政府の仕事についた。
この頃には父がまだ外国航路の船に乗っていたので、私が父に頼んで、船長の特権で彼の車をフランスのル・アーブルから横浜に運んでもらったこともある。
私がフランス中小企業団について大阪に出張しているときなど、彼は一人でも私の両親の家にやってくる、という気安い間柄にもなっていた。
ところがそれなのに、依然として、彼の生き方は変わらないのである。
ことに、フランス経済顧問の下で働き出した彼と、同じ局で通訳する私が毎日顔を合わせるようになると、また新しい女性との交際が目につき、私はこれ以上の屈辱に耐えられなくなった。

私はこんなにも彼を愛しているのに、あまりに態度がおかしいから、ある日ジャックに質問したことがある。
「あなた、私を愛しているんでしょうけれども、程度問題ってことなの?」
笑いながら答えた彼の言葉は、
「愛していないとは言わないけれども、完全に愛しているとも言えないんだ」
結婚するほど愛してないということは、それほど愛していないと言う意味だと私は理解するしかなかった。自分を犠牲にしてまで、自分のものにはしたくないのだ。
「それなら私を嫌いだと言ってくれたら、私は喜んで出ていくのに」と言うと、
「それは困る。君を嫌いなわけじゃないんだ。出ていっては困るよ」 これでまたいつもと同じ堂々巡りになる。
彼なしでは生きられず、彼がいても生きられない。
彼と付き合っていた12年間、私は楽しいどころか、苦しくて苦しくて、生きた心地がしなかった。彼は結婚してくれるわけではないから、私ばかりがどうにもならない恋に身を焦がして、出口がなかった。両親もそれとなく忠告してくれていたが、私の意思を尊重し、ただ見守っているだけしかできなかった、という。
私は何に対しても全勢力を集中する質なので、その無我夢中の自分をコントロールすることができなかった。曖昧にしたまま、適当に過ごせれば楽だったのかもしれない。
でも、私にとって一番大事なものは、私にとっての「真実」だった。
その頃はまだ若くてわからなかったが、じつはその「真実」ほどハードなものはない。だが、どんなにつらくても、私は自分にとっての「真実」が欲しかったのだ。
ある夜、長いこと、泣きながら一人で車を運転していた。
パジャマの上にレインコートを羽織った格好だった。彼との関係に心底絶望していた。
どこをどう走ったか、覚えていない。暗い場所に車を止めて、ただぼんやり泣きじゃくっていたらしい。あたりは真っ暗で、星だけがよく光って見える夜だった。
突然、懐中電灯をもった人物が近寄ってきて、コンコンと窓をたたく。
「もしもし、こんなに夜遅く、どこへ行くんですか」 見れば、お巡りさんである。
「ただ、ドライブしているだけです」
「でもあなた、すぐそこはもう多摩川ですよ」
えっ、と外を見て、私は急にわれに返った。
そのままあとわずか数メートル進んでいたら、私は車ごと、真っ暗な冷たい川に真っ逆様に落ちていくところだったのだ。
気がつくと、こんな天気のいい日なのに、私はワイパーも動かしていたのである。
私はギアをいれ、エンジンをスタートさせると車をバックさせた。すんでのところで声をかけて現実に引き戻してくれたお巡りさんに、心の底で感謝しながら。
東京方面に車を向けて走り出しながら、急に長い間の憑き物が落ちたように、今の自分の姿がよく見えた。私ったらいったい、今まで何をやっていたのだろうか。あの、私らしく、目標に向かっていつも真っ直ぐ進んでいた自分は、どこにいってしまったのか。
その瞬間、彼のことはもうどうでもよかった。生きよう。
こんなところで死んだりしたら、育ててくれた父と母に申しわけない。
そんな出来事のあったあと、はじめてジャックに会ったとき、不思議と何の感情も湧いてこなかった。口に出てきたのは、
「今まで私があなたを慕ってついてきましたが、もうここでやめます」
「では、もう僕を愛していないの?」
「そうです。私にとってこの恋はもう終わりました」
「では、僕を憎んでいるの?」
「いいえ、もう私には関係ありません」
私がこう言った途端、気の毒な彼は、何かなくしものをしたときのように怒り、その場でびっくりするほどいきり立った。私といえば、ただ黙って、そんな彼をながめていたのである。
今考えると、あの苦しい恋は、神様が私に与えられた試練だったということがよくわかる。
強情で自信満々の私の目を覚ますには、あれしか方法がなかったのだろう。でもその渦中にいるとき、そんな風に自分から気が付くのはむずかしい。
私はそれから10年、「失恋」というコンプレックスに悩むことになる。
そんな失恋の苦さを味わいながらも、彼と付き合っていたおかげで、私の語学力のほうは着実に進歩していった。
フランス大使館に勤めながら、国際会議などの同時通訳のアルバイトも始めた。
当時外務省に雇われる同時通訳者で、日本語と英語をすぐフランス語に訳せる人間は、たった3人しかいないと言われた。
あとの二人はフランスで育った人で、日本から一歩も出たことないのは、私だけだった。
もちろんそれはちょっぴり誇らしくもあったが、私の本当の目的は外国に出ることなのだから、とても自慢するどころではなかった。
ただその外務省の通訳はお金になった。
当時、1時間50米ドルという破格のギャラだったと記憶している。
しかも昼間はフランス大使館で働き、夜は夜で、英語とフランス語、それに速記も教えていた。午後5時に港区の大使館を出ると、街で簡単な夕食を済ませてから、渋谷にあった学校に飛び込む。
毎日毎日、ものすごく忙しかった。家に帰ると真夜中の12時だ。でも若かったから、私は平気だった。20代の後半、若いときには、そんな風に働くのもいいと思う。
そして、こうして、私はフランス行きの旅費を準備することができたのだ。
ジャックとの恋は、私の人生にもう一つ、思いがけない運命の扉を用意していた。言うまでもなく、彼こそが飛行機乗りだったからである。
彼との長い苦しい恋が終わっても、「私もいつか、パイロットになりたい、なってやる」という決心だけは、私のなかに強く残った。
当時、神奈川県の藤沢に小さな飛行場があって、元海軍の兵士が教えてくれるというので、頼みにいったことがある。
海上航空の小川操縦士という方から30分間、生まれて初めて空を飛ぶ手ほどきを受けた。機種は小さなパイパートライぺーサーという小型機。それが1961年のことだった。
そしてそれが病みつきになった。
だが1時間教えてもらうのに費用は1万円。1回飛ぶのに3カ月分のお給料が飛んでしまうのだ。外国なら、もっと安く、訓練することができると聞いていた。
それになにしろ母が心配症で、いくら私がおてんばでも「飛行機に乗る」などという危険なことを受け入れるには耐えられないらしかった。母をいたわる父からも「どうか危ないことは遠くでしておくれ」と懇願される。
いよいよこれは、出発のときが来たらしい。
ちょうど、日本に来ていたフランスの貿易会社の社長から3カ月の雇用契約を取り付け、フランス大使館も辞職して、私はパリをめざすことになった。
1964年8月、私は33歳になっていた。
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by eridonna
| 2009-12-29 16:44
| 第1章 日本脱出